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第18話  ブーナ・シティ
 港町のサンセットシティに隣接しているブーナシティも、石畳の道路にたくさんの車が行き交う賑やかな町だ。夜ともなれば、店々の灯りが色取り取りに瞬き、歩道は腹を空かせた人々や酒を求める陽気な人々の、様々な足取りで埋め尽くされる。
 今まさに食事を終えて店から出て来たジョーの両腕には、初秋の夜には不釣合いな露出具合の服を着た美女がぶら下がるように抱きついていた。その回りに数人の男友達。酒を飲みに店を変えるようだ。
 バイクレースには無関係のメンバーで時間を過ごすのが、ここ数年のグランレース後のジョーだった。オーラーデ島から夕方帰宅したジョーは、荷物を家に放り込むと、町へ繰り出して来たのだった。
 何処の店にしようかと、車道を越えた反対側の店々に目をやる。多彩なネオンの壁を泳いでいたジョーの視線が、ふと止まった。視線と一緒に足も止まる。ジョーの後ろを歩いていた男が、トンとジョーの背中にぶつかった。
「どうしたんだよ、ジョー?」
「なあに?」
腕に絡まりついていた女もジョーの顔を見上げて言う。
ところがジョーは、すっと腕を抜くと車道に飛び出し、クラクションを受けながらも走る車を止め止め光の川のような車道を渡って行った。
 

 「放して下さい!」
「いいからいいから、遠慮しないでさぁ」
トランクを引いたアルテミスは、三人の男に取り囲まれていた。ニヤニヤと笑いながら、片腕を掴んで放さない。振り切ろうにも力では勝てない。
「遠慮じゃないです、放して!」
通行人は、皆見て見ぬ振りだ。遠巻きに振り返ったりするだけで、誰も助けてくれそうに無い。それがますます男達の行動をエスカレートさせる。
「連れてってあげるって、どこ行くの?」
アルテミスの顎に触れようと手を延ばした男が、次の瞬間その腕を逆方向へとねじり上げられ悲鳴を上げた。
「いててて!!!」
身動きの取れない体勢にさせられた男は、自分の腕を掴んでいる者の顔を見ることもできない。痛みに歪めた顔のすぐ横で、
「嫌がってんの、わかんねーの?」
と囁かれた。隣にいた男が
「てめぇ、邪魔すんじゃねーよ!」
と言いながら拳を繰り出したが、その拳は虚しく宙を切り、かわりに背中に激しい衝撃を受けて石畳にどさっと腹ばいになった。
 依然として腕をねじられている男は、
「ふざけんな、てめえ、」
と文句の二言ほどを発しただけで壁に叩き付けられ、そのままずるずると石畳にうずくまった。
 アルテミスの腕を掴んでいた男は、あっという間に仲間二人がのされてしまって、呆然と木偶の坊のように突っ立っていたが、
「汚ねぇ腕を外せってーのっ」
と顔面を横殴りされた。男が吹っ飛ぶ方向へ、腕を掴まれているアルテミスも引っ張られかけたが、―――すかさずジョーは抱き寄せた。
 ナンパに失敗した男達は、よろよろと立ち上がると無様な悪態をついて雑踏の中へと消えて行った。
 それを見送ったジョーは、無事を確認するためにも、腕に抱き庇っているアルテミスを見下ろしながら言った。
「よう、10時間ぶり」

 闇と光と影が踊り合う中から突然現れて、不快な男共を引き剥がしてくれたジョーに、アルテミスは心臓が止まりそうになった。こんな偶然ってあるのかと。言葉も出せずにただただジョーを見た。するとジョーは、
「あぁ、オレとは喋りたくないんだっけ。まぁ〜た話しかけちゃった、ごめんな?」
と言いながら、彼女を抱いていた腕を解いた。
 ほんの数秒だったのに、ジョーに抱きかかえられていた腕や背は温かかった。今、風に晒されて何とも不安だ。肌寒さに耐えながら彼女はどうしていいのか分からず俯いた。
 
 今朝、あのような別れ方をした。一方的に酷い事を言った。後ろめたくて仕方が無かった。そのジョーに、すぐに再会して、しかも助けられるなんて……!

「アレンは? どこにいんだよ」
ジョーは辺りを見渡しながら尋ねた。
「それぐらい喋れって」
黙ったまま返事をしないアルテミスに呆れながら、ジョーは彼女の荷物が目に付いた。トランクをまた引いている。
「なんだよ、おまえら、またバカンスかよ」
呑気なもんだぜ。と白けた気分になりかけたが、
「バカンスじゃないし、………私だけだよ……」
と、消え入りそうな声でアルテミスが喋ったので、コイツがまともに喋ったのは昨夜以来だな、とジョーは思いながら、しかし一人とはどういう事だ?と考えまじまじと彼女を見た。そして彼女の服装が場違いな事、季節外れだという事に気が付いた。もうここは秋なのに、彼女は真夏の服装、――今朝と同じなのだ。
(……そういう事か……!)
アレンの家には帰らなかった、もしくはアレンの家を出て来た。そう悟った瞬間、ジョーの胸がざわついた。それを押し殺して、
「……どこ行くつもりなんだよ」
と訊いた。彼女は素直に答えた。
「ミネルバさんとこ。……いつでもどうぞって言ってくれたから…」
ああ、なるほどね、それは正解だ。と思いはしたが、ジョーは確かめた。
「ミネルバ?」
彼女は頷く。予感は的中で、ジョーは短く溜息を付いた。
「あのな、ミネルバん家は正反対なんだけど」
「え…」
彼女は顔を上げて、今日初めてジョーの顔を自分からまともに見た。ジョーはいつも通りに見える。でもそんなコトを観察している場合ではない。
「ここはブーナシティ。ミネルバん家はあの港の向こう側、ムーナシティ」
もしかしたら違う場所かもしれないとは、駅に降りた時から何となく感じていた。でも、どこでどう間違えたのかさっぱり検討が付かない。
「だって、私……、ちゃんと駅員さんに…ブーナシティって…」
「……ブーナシティって?」
「違う、ブーナ」
ジョーの言葉と彼女の言葉は同じ「ブーナ」に聞こえるのに、彼女は否定する。
「ムーナ?」
「そう、ブーナ」
ジョーは確信した。
「おまえ、聞き分けてるけど、発音できてないじゃん………」
「! できてるわよ! ブーナ!」
「ぷっ。ブーナ?」
「違うってば、ブ・ウ・ナ!」
真っ赤な顔をして唇を尖らせる彼女が可笑しくて(実は可愛くて)、とうとうジョーは吹き出してしまった。大笑いのジョーを、涙目になった彼女は睨んでいる。
「わかったわかった、ミネルバん家な、送ってってやるよ」
そう言いながらジョーはミネルバの家に電話をかけた。出たのはサラだった。
「あー、ミネルバね、急な出張が入ってさ、あのままオーラーデからダラカ島に直行しちゃったんだよ」
なので帰路は一人で寂しかったとサラは電話口で泣きまねをした。
「出張? いつ帰って来んの?―――二週間って、長ぇなぁ〜……」
ジョーの言葉だけで、アルテミスにも情況は理解できた。絶望的な情況が。
出張先は携帯電話が届かないので直接の連絡先を教えようかというサラの優しい申し出を、ジョーは断った。出張先にまでアルテミスが家出して来た事を伝えてどうなるものでもないだろうし。そのかわり、帰って来たらすぐに連絡をくれるように頼んで電話を切った。
 ジョーは電話をポケットにねじ込むと、煙草を取り出して一本口に咥えた。
頭が真っ白になりながらジョーの横顔を見ていたアルテミスを、ジョーは一度も見ずに訊ねた。
「あれ、まだ続いてんの?」
ガスライターを開けて火を点ける。
「…“あれ”?……」
ジョーはパチンとライターの蓋を閉じて、一口煙を吐き出すと、
「“もう話しかけてこないで”」
と、今朝彼女から言われた言葉を繰り返した。
 ジョーの煙草の煙がアルテミスの前を流れて行く。甘い香り。アルテミスにとってジョーそのものの香り。
 一口煙を吐き出しただけで、顔も上げずに足元に視線を落としたままのジョーの姿に、彼女は泣きたくなった。罪悪感はあの言葉を口にした瞬間からあった。それに今、押し潰されそうだ。でも泣いてしまうのは卑怯だと思って彼女は堪えた。
 力無い呟きのような声だったが、それでも何とか搾り出して、
「……ジョー、……」
ごめんなさいと続けようとした時、通りの向こうから名前を叫ぶ声にジョーが振り向いた。
「悪ぃー、オレ抜けるー、またなー」
ジョーはそう叫び返すと、着ていた薄手のシャツを脱いでアルテミスの頭に無造作に放った。そして彼女のトランクに手をかけると歩き出した。真意がつかめず動けないでいる彼女を振り返るとむすっとした顔で
「またナンパされちまうぞ」
と言い、すぐにまた歩き出す。アルテミスは慌てて放られたシャツを肩に羽織って、半袖姿になってしまったジョーの背中を追いかけた。



 通りの向こうに取り残されたメンバーは納得の行かない顔で、歩き去るジョーと見知らぬ女を見送っていた。
「え、あの女、お持ち帰りかよ?」
「やだ、そんなわけないじゃん!」
「だよな、ジョーのタイプじゃねぇよな」
「だしぃ、ジョーは誰も家になんて上げないんでしょ?」
「そうだよな、そもそも場所だって誰にも教えないもんな」





 石畳にトランクのキャスターをガラガラと響かせながらジョーはずんずんと歩く。
「待って、……、ジョー、待って、どこ行くの?」
「んー? オレん家?」
アルテミスは一瞬足が止まった。アレンの家を出て来て、そのまま違う男性の家に転がり込むなんて絶対に出来ない! それではあまりに、あまりに恥知らずだ。
「私、どこか空いてるホテル探して、そこに泊まるから、」
「例えばだ」
彼女の訴えをジョーは鋭く遮った。
「そこでおまえに何かあったとするじゃん。そしたらオレの清い良心がすげぇ痛むだろ? あぁ、あの時、オレん家に泊めてやってれば、あんなヤツでもまだ生きてたのに」
「……何も起きないよ」
「わかんねぇだろ〜? おまえみたいのナンパする男もいるんだぜ? ブラックホール級の超ミステリーも、日常的にゴロゴロしてるってことだ」
失礼な例え話だ。でもアルテミスに怒っている余裕はない。ジョーの歩みは速い。彼女は小走りで必死に後を追った。
「ディミーはノンベのゴセが一緒で、おまえの寝泊りする部屋までねぇし、カーラとなんて無理だろ? ヒイナは新婚だからな、そんな家に居候じゃ、ある意味地獄だぜ? 女連中は全滅だろ? ミネルバの留守中にサラと同居するのも何だし」
いつの間にかジョーはトランクを担いでいた(女性用でバーが低く引きづらかったのだ)ので、キャスターの音は消えていた。路地に入り車の音は微かに聞こえる程度だ。二人の足音だけが石畳に吸い込まれて行く。ふと、ジョーは立ち止まって振り向いた。
「それとも、帰るか?」
息を切らしながら、アルテミスはジョーを見た。帰るってどこへ…?と本気で分からずにいると、
「帰るなら、近くまで送ってってやるぜ?」
更にそう言われて、やっと分かった。
 行く当てがなくなったからと言って、再びアレンの家に帰りたいと思うわけが無い。それにあそこには私の居場所はなかった。
 でも今の彼女に説明をするような気力は無く、首を振って否定するのがせいぜいだった。
 俯いて首を振る彼女を確認して、またジョーは歩き出した。しばらくしてレンガの壁にぽっかりと開いた入り口へジョーは入って行った。見失うわけにいかない彼女も後に続き、レンガのアーチをくぐる。植え込みの間を進むとエントランスが現れた。ガラス扉の前に立ち煙草を灰皿に捨てるとデジタルロックに番号を打ち込んだ。シュンッと扉が左右に開いた。中は広いエレベーターホールだった。エレベーターは常に地上1階に待機している。ジョーはパネルに触れて、開いたエレベーターへ乗り込んだ。ドスンと彼女のトランクを床に下ろし、躊躇しているアルテミスに向かって
「荷物、いらねぇの〜?」
と無表情なまま言葉を投げる。アルテミスは渋々エレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まると音も無くエレベーターは上昇した。
「ミネルバが帰って来るまでの二週間、オレが宿と仕事を提供してやるよ」
彼女ではなく扉を見たままジョーが言った。
「…仕事?」
彼女が聞き返した時、エレベーターがすぅっと止まってドアが開いた。トランクを引いて最上階のエレベーターホールへ降り立ったジョーは、突き当たりの壁面にあるアイリスロックを見つめて解除し、壁面を左右に開いた。そこはジョーの部屋のエントランスだった。玄関ドアの横にはジョーの黒いバイクが置いてある。ドア横にある半球のような鍵を掌でつるんと撫でると、がちゃりと音がして玄関ドアがゆっくりと開いた。室内へ入りながらジョーが振り向いて言った。
「んじゃ、よろしく、家政婦さん」
「え…」
ジョーが室内へ消えても、アルテミスは呆然と立ちすくんでいた。するとひょいと戻ったジョーが
「早く入れ」
と眉間にシワを寄せた表情で命令したため、彼女は仕方なく室内へと進んだ。
 


 すぐにリビングだった。広いフローリングには、丸いラグの上にソファと小さなローテーブルがあるだけで、シンプルと言うよりは殺風景だった。
 ジョーの部屋だ。ジョーのプライベートな場所に立っている。そう思うと、もう一歩も動けなくなってしまった。場違いのような居心地の悪さ。私なんかが入ってしまった申し訳無さ。そして、何より情けなさ過ぎた。一体どうしてこんな情況になっているのか。
 ジョーがドアを閉めながら言った。
「あー、もしかしておまえ、まるで要らねぇ心配してんじゃねぇだろーな? あたし襲われちゃうかも!とか」
 そこまで考えてはいなかった自分が急に軽率に思えて、アルテミスは顔を上げられなくなった。ジョーは短く溜息を吐くと、
「ありえねぇから。いいか、おまえはボーズじゃん。このオレ様に手ぇ出して頂こうなんざ百万年早えぇって、バーカ」
わざと大袈裟に突き放した。そして矢継ぎ早に訊ねる。
「おまえ、飯は?」
アルテミスは俯いたまま
「大丈夫…」
と答えた。空腹具合どころか顔色も何もかも、何処からどう見ても大丈夫には見えない。
「とりあえず座れ」
と彼女に言うと、ジョーはオープンキッチンへ行き、食品棚からレトルトのスープを探し出すと、カップにあけレンジで温め始めた。その間、彼女の様子を見ていると、ふらふらした足取りでソファの前へ歩き、そのままぺたんとラグの上に座り込んでいた。
 恐らく昨夜は眠れていないのではないかとジョーは推測した。


 あのサインをどのようにアルテミスと決めたのかを、ジョーは特別にアレンに説明はしなかった。裏も表も無い、皆に話した通りだ。何も、二人でいちゃいちゃしながらこっそり作ったわけじゃない、後ろめたい事など何も無かった。
(でも、アレンは面白くなかったんだよな…)
ブリッジからアルテミスを連れて帰った時のアレンの表情。驚きと不可解さと疑惑がごちゃ混ぜになっていた。
(直接オレにぶつけて来れば、納得できるような言葉でいくらでも言ってやったのに。船の中なんかで一晩ねちねちと女に当たるなんて)
一晩ねちねちはしなかっただろうが、でもきっと、何かしらの話はしたに違いない、とジョーは思う。
(だから翌朝のアイツはオレを避けたんだ)
辻褄が合う。そして行き着いたのは、彼女がアレンを選んだという事。当たり前だ。彼女の恋人はアレンなのだ。…だったのだ。
(ああ、可哀想にな。オレを遠ざけてでも失いたくなかった男と別れちまったのか。しかも、そんなオレと出くわしてこんな情況になってるなんて皮肉だよな、ホント)


 ジョーはスープに数滴のアルコールを垂らした。とにかく彼女には深い眠りが必要だと思ったからだ。オーラーデ島での宴会を見る限り、酒には強い方ではなさそうだった。眠るには数滴で充分なはずだ。
 
 
 ぺたんと座ってうずくまっている彼女の頭にブランケットを落とした。
「風邪引くぞ。ここらはもう秋なんだからよ」
もっさりとした動作でアルテミスはブランケットを手繰り下ろし、頭を出した。その目の前にジョーはカップを置いた。
「飲め。家主命令」
しかしアルテミスは動かない。ジョーは横に屈むと
「オレは隣の部屋でちょっと仕事するから、用があったら呼べよ」
と言って、湯気が上るカップを彼女に強引に持たせると、キッチンを通り越して奥へ消えた。
 
 一人きりになったアルテミスは、カップを包む掌がじわじわと温まって行くのを感じて、自分が冷えていた事にぼんやりと気付いた。そしてしばらくするとカップに顔を寄せて、ゆっくりと力なく「ふー…」と冷まし始めた。ふーとする度に湯気が乱れて散る。何度も吹いているうちに、涙がぽつ…と手首に落ちた。
 涙の訳は失意だった。一人では何も出来ない自分への失意。アルテミスではなくなった途端に、居場所も無くした。アルテミスでは嫌だと望んだ結果だが、アレンの保護を失った自分はどうしようもなく無力だ。
(結局はミネルバさんを頼ってたし…今はジョーに甘えてる…)
今朝、自分が彼にした仕打ちを思い返すと、涙が後から後から溢れて来た。
 ジョーとアレンの仲が壊れたりしないために、ジョーとは距離を置こうと決めての態度だった。どんなに「そんなんじゃない」と言っても、アレンが疑ってしまったら、アレンの中ではそれが真実になってしまう。そして、自分が原因でアレンがジョーを失うようなことになったら…。言い換えれば、ジョーがアレンを失ってしまうようなことになるなんて絶対に嫌だった。
 でも、だからって突然あの言い方はなかった。ジョーの怒った話しぶりが、何かあったのかと一瞬優しく心配してくれた表情が、今でも鮮やかに胸に痛い。たった今朝の出来事だ。あんな酷い態度を取ったのに、こんなふうに助けてくれて……。
(ごめんなさい、ジョー……。ありがとう、ジョー…。ごめんなさい……)
アレンの家を出た時に仕舞い込んだ涙が、堰を切ったように止まらない。それでもアルテミスは、ジョーの出してくれたスープを一生懸命すすり始めた。



 書斎がわりにしている部屋で、バイクの情報サイトを見たりして三十分ほど時間を潰してからリビングへ戻ってみると、アルテミスは同じ位置でソファにもたれて完全に眠ってしまっていた。膝の上で掌に包んだカップは空だった。
 顔を覗き込むと、睫毛に涙の粒が付いている。泣きながら眠ってしまった彼女が哀れで胸が痛むが、
(アレンへの涙か…)
と思うと、何となく自分の気分も沈む。
 起こさないようにブランケットごと抱き上げて寝室のベッドへ運んだ。ぐっすりと眠っている彼女に毛布をかけ、じっと寝顔を見た。今朝の突然の絶交宣言。もともとアレンを介さなければ接点のない女だったので、もう二度と今までのように話す事もないのかと本気で思った。二度とオレを呼んだりはしないのだろうと。その女が再び「ジョー」と名前を呼んだ、街中でのあの刹那。ぞくりとするほど嬉しかったことにジョー本人も気付いていない。
 ジョーは彼女の乾かない涙をそっと拭い、静かに部屋を出て行った。





 顔が埋まっている柔らかい物から、知っている香りがする。良く知っているけれど、どうして今、その香りがするの?……とぼんやり思いながら目を開けたアルテミスは、自分の情況がはっきりするまで、暫く時間を要した。
 香りがジョーの煙草のものだと気付き、昨夜の出来事がフラッシュバックされて、そしてこのベッドは恐らくジョーのベッドなのだと判断できた。がばっと跳ね起きる。服のまま寝ていた。
(やっぱり!)
アルテミスは慌ててベッドから降りて、ドアを探し、寝室から飛び出した。見覚えのない廊下はどちらに何があるかさっぱり分からない。とりあえず、明るい方へ歩いてみる。壁沿いのドアを二つばかり過ぎて、突き当りの偏光ガラスのドアを開けると何となく見覚えのある部屋に出た。
 ソファとテーブルがぽつりとある。そのソファには毛布が無造作に乗っていた。
 昨夜、確かにここに座っていたと思い出せた。そして、ジョーが温かい飲み物をくれて、ジョーに詫びながら飲んでいた……その後の記憶はまったく無い。とにかくジョーのベッドを貸りてしまい、そのかわりジョーはこのソファで寝たのだろう事は、安易に推測できた。
(バカバカ! またジョーに迷惑掛けて…!)
自己嫌悪で気持ち悪い。目の前のテラスに人影を見つけて近づいてみると、ベンチに座ったジョーが煙草を吸っている後姿だった。
 アルテミスに気付いて、ジョーが振り向いた。
「お、ずいぶん早ぇな〜」
「あ、お、おはよう……。あの、……ベッドを占領して------」
「じゃ早速、コーヒー淹れてよ、家政婦さん」
家政婦さんと呼ばれて、一瞬何の事か分からなかったが、すぐにジョーの提案を思い出した。でも受けるとはまだ言っていないはずだ。
「…あの、」
「オレ、ブラックね。と言いたいとこだけど、砂糖もミルクもたっぷりで」
「……」
「自分のも淹れて来いよ」
「…、ありがとうございます………」
何も言出だせずアルテミスはおぼつかない足取りでキッチンの方へ歩いて行った。
 ジョーはさり気無さを装いつつ、カップも豆も砂糖も出しておいた。ミルクは冷蔵庫だとわかる
だろう。程なく彼女は動き出した。覇気はまるでないが。その姿をテラスで見ていたジョーは、
(「ありがとうございます」って、どの口が言ってんだか…。まだ調子戻って無いな。まぁ、無理もねぇか)
と思いながらテーブルの上に置いた灰皿で煙草を消すと室内に入り、キッチンにいるアルテミスに声を掛けた。
「今日、午後から出掛けるからな。ビドル島って島にいる知り合いの農場に、一週間ばっか滞在するって決まってたんだよ」
本当の事だ。グランレースが終わると直後の休暇をそこで過ごすのが毎年の恒例だった。しかし、アルテミスには話が読めない。黙っていると、
「ちょうどトランク持ってて荷造り完了だな、おまえ」
「私、私も行くの?」
ようやく話の運びが掴めて驚くと、
「当然。そこでもしっかり働いてもらうぜ、家政婦さん」
ジョーは愛想笑いの欠片もないままカウンター席に座った。
 
 家政婦を引き受けるとはまだ言っていない。そう喉まで出掛かったが、すでに一宿の恩が生まれている。断るにも、じゃぁオレ様が安心できるような『二週間プラン』を立ててみろと言われるのは必至だと思うと、そんなモノは何も浮かばない。もう万事休すといった気分だ。
 アルテミスは淹れたてのコーヒーを、頬杖をついているジョーの前に力なく置いた。
  


第18話  ブーナ・シティ  END

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