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第17話  夢の後

 昨夜とは違って暑さの緩んだ深夜のビーチに、騒ぎ声が漏れ響いていた。
「しかし、来年度はエントリーの際にもっとチェック厳しくするようにしてもらわないとな。リタイアの腹いせに会場爆破なんてなぁ」
すでに相当呑んでいるサラがしみじみとこぼした。その隣で肩から腕をギプスで固定したケンが、薬のせいなのか、疲労からなのか、呑み過ぎからなのか、うとうとしながら
「レーサーの風下にもおけないぜ」
と呟いた。
「どっちにしろウチもリタイア組だ! ドチクショー! ラジエター!」
珍しくグジャグジャにメッカが酔っている。マシンがダメになってのリタイアがよほど悔しいのだろう。先輩の隣でニックがすまなそうに言った。
「アレンにも走ってもらったのにな。ケンは骨折までしてさ」
「これが本当の骨折り損だな、え? ケンよぉ」
「名誉の負傷をからかうな、バカ兄貴!」
メッカ同様、べろんべろんになっているゴセが、言った側からディミーに殴られた。

 キッチンでは、アルテミスが砕いている氷を、アイスペールに移しながらミネルバが感慨深げに話していた。
「でも、本当、あなたのお陰でこうして皆揃っていられるのよ、 すごいドラマじゃない? たくさんの奇跡と運が連携したって感じね。だって、サイン塔が壊されるなんて、本当に一度も無かったのよ! でも、大会慣れしていないあなたは不安に思って、ジョーとサインの打ち合わせをした…。そしてそれが活かされた。 あ〜、すごい幸運! ね?」

 グラン島でのレースが残念な幕引きとなってから数時間、またこのオーラーデ島のビーチハウスへと戻って来る間にも、何度も色々なメンバーから同じ事を言われ続けて、アルテミスはいい加減に恥ずかしかった。
――何よりもサインがあんなサインだったから。
今なら、あれはジョーの冗談だったのだと容易に気付けた。恐らくは、あまりにしつこいので呆れて適当な事を言ったに違いない。常識的に考えて、猛スピードで走っている人間の目が、人混みの中でヒラヒラしている小さなTシャツを見つけられるわけがないのだ。
 そんな事も気付かずにバカ正直に実行した自分が恥ずかしい。アルテミスは素直に白状した。
「私…ジョーに呆れられてたんだと思います。あんまりしつこかったから…。サインも冗談で言ったんだって、今なら分かるんですけど…」
「でも、冗談みたいなサインを本気で出したあなたと、あんなスピードで走りながらそれを見逃さなかったジョー」
「…はい…」
――そうなのだ。私がまんまと引っかかってTシャツを振ったのは分かる。でも。ジョーも、それをちゃんと見た。見て、理解して、従ったのだ。――
 アルテミスはその事実を思う度に、鼓動が早くなった。
 ほんのり頬を赤く染めながら、掌の氷をアイスピックで砕いている彼女を見つめるミネルバは、夕べのアレンの相談を思い返した。


 




 熱帯夜の浜を桟橋のへりまで歩いた二人は、満月を見上げながら、並んで腰を下ろした。そして、歩きながら聞いたアレンの質問に、ミネルバはゆっくりと答えた。
「そうね。情況から判断して、彼女の記憶喪失は精神的ショックから引き起こされた『現実逃避型』だと私は思うわ」
「現実逃避?」
「月を脱出してから、彼女の心に溜まって行った辛い出来事が、ジーナさんの死でとうとう溢れちゃったんじゃないかと思うの。もうこんな悲しい毎日は嫌だ、って何もかも捨てたくなっちゃった、つまり現実を拒否したって感じ」
「……ああ、そうか……」
アレンは、思い当たる事があるようで、重い表情のまま黙ってしまった。
「ねえ、アレン。今の彼女はまるで別人だなんて言わないであげて。あんなふうに彼女は笑わなかったって言うけど、それは笑えなかっただけで、本当はあんなふうに笑っていたかったんじゃないかしら」
そう言われて、アレンは思い出しているようで、しばらくすると、
「そうだ、笑ったよ、前も…。笑ってた。ただ、それが…、」
またアレンは言葉に詰まった。ミネルバは月光を反射させてちらちらと光る海面を見つめてじっと待った。やがてアレンは搾り出した。
「彼女が笑うのは、俺の前だけだって思ってたんだ、俺」
それは、ミネルバにだからこそ出来た告白だった。アレンは顔を伏せたままだった。きっと、恥ずかしさと情けなさでいっぱいだったのだろう。
(そんな風に、ずっと思い、悩んでいたのね……。)
アレンの秘めた苦しみを知って、ミネルバは胸が痛んだ。
「ご馳走様。のろけられちゃった」
うな垂れているアレンをミネルバは肘で小突いた。そして内心では注意深く、しかしあくまでも明るい方向へと茶化した。
「彼女を独占したいなんて、恋したら当たり前だもの。ね、彼女が今、あなたの横で幸せ一杯に笑ってる、それでいいじゃない」
しかし、アレンは顔を上げないままで、ますます苦しそうに言った。
「俺…アリーを…騙しているようで」
「騙す? どうして?」
「俺は、記憶が無くて不安な彼女の支えになってやるだけじゃなきゃいけなかったんだ。彼女が差し出した手を、掴んで倒れないようにしてやる事しか…! でも俺は…俺はその手を引き寄せた……!」
ミネルバは、アレンに向き直ると自信たっぷりに囁いた。
「ねえ、アレン。彼女が目覚めた時、あなたが側に居ても変に思わなかったのはどうしてだと思う?」
「え…?」
「現実逃避した先で、あなただけを認識していたのも、どうしてかしら? 簡単よ、つまり、いつも彼女はあなたと一緒にいたのよ、心の中では。それが彼女の願い。現実ではない理想。目覚めた時、彼女はあなたを一緒に暮らしているパートナーだと思っていたんじゃない? だから側に居ても不思議がらなかったんだって、考えられない?」
アレンはミネルバの言葉から希望の一筋を手繰り寄せようと必死のようだった。
「彼女の中で、こうありたいって描いていた姿が、今の彼女なんだと思うわ。彼女の夢が今、叶っているのよ」
「彼女の夢が叶っている……」
一瞬アレンの瞳が明るくなりかけたが、すぐに心細そうな色に変わった。ミネルバは微笑んで力強く囁いた。
「あなたは何も心配しないで、ドーンと彼女を受け止めて愛してあげればいいのよ。だって、愛してるでしょう、海賊だった彼女も、今の彼女も」
アレンは答えなかった。





 夕べ、アレンとそんな話をしたミネルバだったが、目の前でほんのりと頬を染めて氷を砕いている彼女は、確かにあちこちで見かける女海賊アルテミスとは重ならない。それは否めないと思った。果たしてアレンはどこまで納得してくれたのか。また、この先この二人にはどんな壁があるのだろうか。それにしても、万が一の場合に、アレンに連れられて来たここ地球では、彼女に行く当てなどないに違いない。ミネルバには、目の前の可愛らしい彼女が何とも心もとなく見えた。
「…ねえ、何か……、困った事があったらいつでも連絡頂戴ね。ほら、なんて言うの、男性のアレンじゃ話にならない事とか、言い難いこともあるでしょ? 体調のコトなんかも気軽に電話してね、一応私、医者だし」
「ありがとうございます」
ミネルバの気遣いがよほど嬉しかったのだろう、アルテミスは花が咲いたように微笑んだ。つられて微笑みながら、
「アレンと喧嘩して家出したくなったら協力するわよ。 部屋いっぱいあるの」
そう言ってウインクをした。ミネルバの言葉に、アルテミスがまた礼を言いながら笑った。その笑顔を見届けて、ミネルバは氷が詰まったアイスペールを抱えてリビングへと去った。
 本当にそんなコトになりませんように…と、一瞬アルテミスは祈った。でもミネルバの言葉は嬉しかった。ミネルバだけではない、本当にここにいる皆は優しくて楽しくて良い人達ばかりだ。アルテミスは口元に自然と笑みを浮かべながら、氷を取ってはアイスピックでコツコツと砕いた。
 ふと、目の端に映った影が話しかけて来た。
「氷くれよ、ボーズ」
ジョーだった。
「氷なら、今ミネルバさんが持って行った――、! ボーズじゃない!」
うっかり気分良く返事をしかけて、あわてて彼女は訂正した。
「怒んない怒んない、コレやるから」
ジョーは一輪の花を彼女へ差し出した。中央だけほんのりとピンクに色づいている白い花びらの小さな花。とても可愛らしい。
「ま、一応、命の恩人へっつうことだ」
アルテミスの必死のサインへの感謝の気持ちという事らしい。
「おまえが、この先ずっと、幸せでいられますように……ってな」
そう言いながら、ジョーは彼女の髪にそっとその花を挿した。アルテミルはじっとおとなしくしていたが、それは動けなかったのだ。髪に花を飾ってもらうなんて初めてだ。記憶を無くしてからは。アルテミスは、ジョーをじっと見上げたまま、
「なんてゆう花?」
と訊いた。ジョーも動かず、彼女を見下ろしたままポンッと答えた。
「知らね」
「ジョーは花に詳しいって聞いたよ?」
「だからって太陽系内全部なんて知ってるわけねぇだろ」
「そっか」
それは尤もだと思いながら、目線を外した。それにしても、礼とは言えやはり花を貰うのは照れ臭い。
「私も助けてもらったから……、おあいこなのに」
とジョーを見ないまま言ってみた。もちろん、昨夜、海へ走りこんだ一件の事だ。
「お〜! な〜るほ〜どね〜! あいこ」
ジョーが今気付いたようなリアクションをしたので、彼女も顔を上げてまた彼を見た。。
「そう、プラマイゼロ」
「プラマイゼロ」
「えっと、貸し借りなし」
「貸し借りなし」
「…チャラ」
「チャラ」
二人とも、納得顔で頷き合う。なんだかそれが可笑しくて、いよいよ気持ちが緩んで来た彼女は訊いた。
「…可愛い?」
「……」
「ちょっと、何でそこだけオウム返ししないのよ!」
「おまえ、可愛いって意味、知らねぇだろ」
「命の恩人に喧嘩売るの?」
「恩人がこんなアホとはね」
「ジョーの命もアホって事よ、イイ気味!」
何だか、昨夜の延長戦のようだ。
「誰がアホだって?」
ジョーは、アルテミスの頬を軽くつまんで両側に引っ張った。
「ひゃひぇひぇひょ!」
やめてよと言っているのに口が伸びてうまく喋れずマヌケな音だ。ジョーは吹き出した。アルテミスはジョーの両手首を掴んだ。氷を持っていたためすっかり冷えていた彼女の手にジョーは驚いて、頬から手を離した。
「冷てっ!」
アルテミスはにやりと笑って、特に冷たい左手をジョーに向かってフェンシングのように突き出した。
「うわ、やめっ、てめ、こら!」
身体をねじって彼女の左手を避けるジョーの背後で
「仲良いね〜」
と声がした。振り向くと、ロイが立っていた。サングラスをしているので、表情までは分からない。
「どう見てもオレが苛められてるだろーがよ」
「だから、苛められて嬉しいんだろ?」
「あいにくオレは、アンタみたいにおっかねえお姫様に苛められるのなんて、ちっとも嬉しく感じねーんだよ」
ジョーはふてくされてキッチンを出て行った。そんな事はおかまいなしなロイは、アルテミスの髪に花を見つけて
「あ、可愛いね、花」
と微笑んだ。やっと可愛いと賞賛して貰えて、彼女は嬉しそうに笑った
「そうですか?」
その瞬間、ぱちり!とロイがシャッターを押した。カメラを胸元に下ろしてロイはにぃと笑った。
「え? ロイさんも写真を?」
「うん、人物写真を練習中のカーラに付き合ってね」
アルテミスの顔から、笑みがすっと引いた。真面目な顔で訊ねる。
「カーラ、具合はどうですか?」
「うん、今、様子を見に行くトコ」

 グランレースで、クラッシュ現場から立ち上る黒煙の中へアレンのバイクが突っ込んだ時から、彼女の意識は戻らない。深い眠りに落ちたままだった。今も女子部屋のベッドで眠っている。

 「あいつ、昔ね、……大事な人を失っててね。……カーラはその人を助けることも一緒に逝く事もできなくて、……彼を飲み込んだ爆発を、ただ見ているしかなかったんだよ。それをね、思い出しちゃったかな〜みたいなね。大丈夫、一晩眠れば明日にはケロッとしてるよ」
わざと軽い口調でロイは話した。アレンに経緯を訊いているアルテミスは、カーラの失った人が、彼女の兄だという事を知っていた。兄を悲劇的な失い方をしたカーラ。そのカーラが思いを寄せているのはアレン。そしてカーラを好きなロイさん……?
アルテミスは遠慮がちに言った。
「心の痛みも、ケロッとなくなるといいですね…」
「そうだね、ありがとう」
ロイはにこっと笑うと、背を向けて階段の方へ歩き始めた。その背を見ながら、アルテミスは間違いに気付いた。
「ロイさん、もしかしたら心の痛みはなくならないかもしれないです、でも、それよりも大きな幸せがあれば、痛みは感じないで過ごせるんだと思います、きっと…!」
振り向いたロイは一瞬彼女をサングラスの中から見つめると、そっと微笑んだ。
「……ああ、そうだね、本当に。キミは前向きで偉いね。キミにも痛みを感じない程に大きな幸せが訪れるように祈ってるよ」
え…?と思いながら、見えなくなるロイの背中を見つめた。
(“幸せが訪れるように”…って、今は幸せじゃないって事? そう見えてるって事なの?)
私は幸せ。……幸せよ…。そうよね……?
自問自答しながら、彼女は耳の上に挿さっている花にそっと触れてみた。
 ジョーが、この先もずっと幸せでいられるようにと願ってくれた。勝手口のドアのガラスに向き直って、映してみる。白い花は左耳の上でそっと咲いていた。見つめていると心が温まって行くのが感じられた。大丈夫、私は今もう幸せ。頬が緩んだ。と、背後に立つ影が映っているのに気が付いた。アレンが自分を見ていた。
「アレン」
振り向いた彼女に、アレンは穏やかな口調で言った。
「疲れただろう? もう部屋で休んでもいいんだよ?」
確かに疲れた。できれば休みたい。
「うん、でも、部屋ではカーラが休んでて、今ロイさんが様子に見に入ってったし」
「そうか、なら、今夜は船で休む?」
それは名案だ。カーラのためにもその方がいいだろう。ディミーやミネルバならまだしも、私には会いたくないだろうから。
「うん、そうする」
アレンとアルテミスは勝手口から浜へ出て、桟橋へと歩いた。





 その頃、カーラは泣きながら兄を呼んでいた。どんなに呼んでも兄の返事が無い。姿が無い。両足は鉛のように重く、一歩も進めなくなって、彼女はしゃがみ込んだ。
「兄様…兄様…」
泣きじゃくる彼女の頭を、そっと優しく撫でる手…。顔を上げたいが上がらない。
「泣かないで、ファナン。泣かないで…」
兄の声だった。
「さぁ、前を向いて。未来を生きるんだよ、ファナン」
カーラは必死に腕を上げて、兄の手を掴もうとした。足同様、腕も鉛のように重くてなかなか上がらない。必死の努力で頭の上の手に触れると、しっかりと握り締めた。大きな手。大好きな手。いつもいつも包み込んで安心させてくれた手。
「兄様…」
呟いた自分の声でカーラは目を覚ました。一瞬、何処なのかが分からない。灯りをつけていない部屋は、月明かりで青白かった。その中に浮かぶ人影。良く見知った輪郭の、安心できる影。兄ではないけれど。
「……シャット……」
王国時代の呼び名で呼ばれ、一瞬ロイは戸惑ったが平静に返事をした。
「ん?」
「………ロイ……」
意識が覚醒したのだろう、今度は間違えずに呼びかけた。しかしカーラは、呼びかけるだけだ。
「なんだよ?」
夢の中では兄のだったはずの優しい手は、案の定、ロイのものだった。そのロイの手をしっかりと握ったまま、カーラは小さな小さな声で呟いた。
「…まだここに居て…」
「どこにも行かないよ」
邪魔にならないようにしてでも一生傍にいると心密かに誓っているロイには、まったく簡単な命令だった。





 さくさくと砂を踏んで桟橋へと歩きながら、今日初めてゆっくりと二人きりになったアレンに、アルテミスは話しかけた。
「レース、凄かった。カッコ良かった。アレンの走るトコも見られて嬉しかった」
「今度アリーも走ってみるといいよ。ああ、もちろんレースとかじゃなくて、前みたいに普段の足としてバイクにさ」
「……乗れるかな、私に…」
「乗れるよ、乗ってたんだからさ。すぐに感覚、思い出すんじゃないか」
乗れると言い切るアレンに、アルテミスは言葉を返せなかった。
 しばらく無言のまま歩いたが、アレンが沈黙を破った。
「アリー。いつ、あんなサインの打ち合わせをしたの?」
「え…、アレンが走ってる時に、無線の調子が悪くなったでしょ、だから、こんな時にサイン塔まで壊れたらどうするのかって聞いたら、」
「ジョーに?」
彼女の言葉を遮って、アレンはジョーの名前を出した。その強さにアルテミスは内心驚いたが、
「だって、次に走るのは、ジョーだったから……」
と誠実に答えた。しかし、アレンは黙ったまま歩いて行く。
「アレン、何か怒ってる? 私、間違った事――」
「怒ってないし、アリーのした事は正しいよ。もし、次に走るのが、ケンや俺でも同じようにしてくれただろうし」
一瞬理解できない程、それは衝撃的な一言だった。
「!………当たり前じゃない……!」
“ジョーだから打ち合わせをした”そうじゃないよな。――と言いたいの?

 桟橋に繋がれた船まで来ると、無言のまま、アレンはアルテミスを船上へ引き上げた。
船の縁に立つ彼女は泣きそうな顔に見える。そんな表情をさせているのは自分なのだ、自分の狭い心のせいなんだ。と思っても、棘々しい感情が湧き上がる。
「アレン、」
彼女が自分を呼んだ時、アレンの理性がぷつりと切れた。彼女をがっと引き寄せ激しく口付けた。初めての荒々しい口付けは痛いほどだ。それでもアルテミスは何も言わず、何もせず、ただなすがままに受け止めた。
 ――アレンはジョーと私の仲を誤解している。
アレンの疑念を感じ取った彼女は後悔した。そんな気が全くなくても、アレンがそう感じたのなら私のせいなんだ。アレンを傷つけた。あんなに優しいアレンを。なんて酷い私。
 背中にあったアレンの手が、下へ降りて服の中へと滑り込んでもアルテミスは抵抗しなかった。見ているのは満天の星空だけ。ビーチハウスからは見えていない。
 アレンの手がアルテミスの素肌の上を、背中から胸へと移動した。貪るようなキスをしながら熱く手を動かしていたが、邪魔な布を剥ぎ取ろうと、もう一方の手を動かした時、彼女の耳の上にある異物に触れた。しっとりとした小さな薄い感触。その正体を悟った瞬間、アレンの全身に抑えないようのない嫉妬が湧き上がった。
 アレンは何の躊躇も無く、髪から花をむしり取った。
 愛し合うという一連の行為の中で、異質な空気と動きだった。それが何なのか彼女が気付いた時には、アレンの手の中から白い小さな花は暗い水面へ落ちていた。
「あっ――!」
小さな白い影が闇に消える瞬間、彼女は小さく短かい悲鳴を上げてしまった。上げてしまってから、すぐに失敗に気付いてアレンを見た。悲鳴を聞き逃さなかったアレンは、じっと彼女を見つめて乾いた声で言った。
「ゴミが付いてた」
彼女は一切の言葉を飲み込んだ。アレンにそんなコトをさせたのは、言わせたのは、自分なのだ。自業自得だ。
 
 アレンは彼女を抱き上げ船室へ下りると、丸い窓から射す月光の中で、月の女神と同じ名前を呼びながら、彼女を激しく抱いた。
 アレンの狂おしいまでの囁きや息遣いを耳にしながら、それでも彼女の頭の中では、違う声がずっとこだましていた。暗い海に呑まれてしまった白い小さな花に、幸せを願ってくれたジョーの声と言葉だった。

 どうしてジョーの声がするのか。どうしてアレンの愛の言葉ではないのか。私はどうしちゃったのだろう?!
 アルテミスは泣かなかった。アレンが動かなくなるまで、歯を食いしばって耐えた。アレンの舌があって食いしばれない時は、密かに拳を握り締めた。
 
 噴出してしまった嫉妬を、彼女を愛する熱情と一緒に吐き出したアレンは、呼吸が落ち着くとそっとアルテミスを抱き締めて、優しく口付けた。彼女の唇は血の味がした。
「ごめん…、切ってる……」
アレンは、自分の強引なキスが傷つけてしまったと思い謝った。
――違うの。
口を切った本当の理由が言えるわけも無いアルテミスは、首を振りながら、背中に腕を回してその大きな汗ばんだ背中をさするのが精一杯だった。

 アレンはとことん疲労しているはずだった。昼間はレースをしていたのだ。彼を眠らせるべく、アルテミスはそっとゆっくりと彼の頭を撫でた。そして心から囁いた。
「愛してる。アレン。ずっと一緒よ。愛してる」
ずっと一緒と言われて、アレンはことりと眠りに落ちた。愛する女の名前を呟いて。
 眠ったアレンを見つめながら、とうとうアルテミスの涙が溢れた。アレンが呟いた名前が、どうしても、どうしても受け入れられない気持ちだったのだ。
 
 激しく抱かれている間中、「アルテミス」と囁かれる度に少しずつ少しずつ漏れ出していた感情。
――それは私じゃない。

 アルテミスは叫び出しそうになる衝動を堪えて、そっとベッドを下りると、シーツを身体に巻きつけ、デッキへと飛び出した。
 生暖かい潮風が、シーツにまとわり付く。シーツを握って口元へ当てると、彼女は泣いた。そして、泣きながらデッキの縁へ歩いて行った。しゃがみ込んで水面を見下ろした。真っ黒な波が船体にちゃぷんちゃぷんと当たる音だけが登ってくるだけで、いくら目を凝らしても、何も見えなかった。あの白い小さな花も。
 髪に挿してくれた情景を思い返す。ジョーの、照れを隠したような偉そうな態度。
――おまえが、この先ずっと、幸せでいられますように。
珍しく茶化さないで祈ってくれた言葉。
 その花を失くしてしまった。
 アルテミスは胸が潰れそうになって、水面に後から後から涙を落した。





 快晴の空へ、カーラを乗せたロイのセスナが飛び立ち、みるみる小さな点になって消えた。
 見上げていたディミーがぼやいた。
「あーあ、楽しい事はあっという間ね〜」
隣でゴセがからかった。
「なんだよ、おまえ、仕事一筋なんだろ? 明日から楽しい日々の始まりじゃんか」
「嫌味な兄貴」
「さあて、ぼちぼち行くか」
「休みの日に、また遊ぼうね!」
ディミーはアルテミスにウィンクするとゴセを追って歩き出した。カーナル兄妹を見送ったミネルバとサラは、荷物の整理をすべく室内に戻った。残ったアルテミスは一人、玄関前のベンチ脇に立っていた。アレンはまだ用があるらしく、ハウスの中だ。
――早く出て来て…。
アルテミスは気が気でなかった。一秒でも早くこの場所からいなくなりたい。ジョーと顔を突き合わせてしまう前に!
 アルテミスはなるべくジョーの側には近寄らないように細心の注意を払っていた。
 ジョーに貰った花を失くしてしまった後ろめたさと、その失くし方のせいだった。昨夜、一晩かけて出した結論は「ジョーには近づかない」だった。アレンのために。そしてジョーのために。また誤解をしたアレンが、今度はジョー本人と仲違いでもしたら。そんな事は絶対にあってはだめ。そう固く決めた彼女は、今日はジョーの顔を一度も見ていなかった。

 穏やかに寄せては返す波が、キラキラと反射しているのを見ている彼女の背後で、エントランスの階段を踏みしめる音がした。その木のステップがきしむ音で、ジョーだと直感した彼女は、一瞬にして全身が強張った。
「ボーズ」
やっぱり……! 背中に耳があるような気分で、彼女はじっと黙っていた。
 
 ところで、返事をしない彼女に、ジョーは確信した。理由は分からないが、こいつはオレを避けている、と。今朝からだ。昨夜は、どうやらアレンと船で寝たらしい。いつの間にか二人で居なくなってた。それが、朝食の時間に戻って来たと思ったら、この無視状態だ。
「耳ねぇのかよ、ボーズ」
いよいよジョーはアルテミスの真横に立った。じっと見下ろして、返事をするよう威圧して来る。
「……、私…、ボーズじゃないから、返事しない」
苦し紛れに返言い返したものの、説得力の無さに彼女は情けなくなった。
「昨夜はしたじゃねーか」
――ああ、多分、花を持って来てくれた時の事だ。一番触れたくないシーンなのに。
「あれは…間違い」
ドツボにはまりそうで泣きたい。ところがジョーは彼女の決意など知るわけも無く、
「なんでそんな仏頂面? まったく不機嫌オーラびしばしでよ」
ずばりと指摘して来た。これ以上引っ張りたくない彼女は、ジョーの顔を見ずに言い放った。
「もう、話しかけて来ないで」
哀れな彼女には、言葉を選んだりする余裕は無かったのだ。
「……あ?」
驚くジョーを尻目に、彼女は顔を伏せたまま黙り込んだ。
「へぇー。私達、仲良しになりましょうっ!って勧誘して来たのは、どこのどいつだったっけな」
――お願い、もう放っておいて……!
「…………」
「あー、喋りたくねぇんだっけ」
「…………」
あくまでもだんまりのアルテミスにむかついたジョーは、彼女の顎に手をかけて、グイとこちらへ向かせた。
「じゃあ、最後の挨拶ぐらい、顔見てちゃんとしようぜ」
「え…」
最後という言葉に、アルテミスは予想外なほど心臓がどんと跳ねた。さらに、半日ぶりにまともに見たジョーの顔が……、
「何かあったのかよ?」
彼女の瞳を覗きこんで訊ねた。
 綺麗な綺麗な、海と同じ青い瞳に、自分が映っている。これは反則だ、そんな風にされたら甘えてしまいそうになるではないか。彼女はあらゆる勇気をかき集めて踏み留まった。彼の瞳から視線を外すと、
「や………」
顎にかかっていたジョーの手を下ろした。
 真剣に問いかけてみたが、彼女からの答えは拒絶。ジョーはまったく面白くなかった。
「……わかったよ。バイバイ」
言い捨てて、ジョーはくるりときびすを返し、ハウスへ戻るため歩き始めた。
アルテミスはバイバイと言われて金縛りに合ったように、振り向くこともできずじっと足元の砂を見ていた。
 ジョーはステップに一足かけて、顔だけ振り向き、
「またな」
と言った。それでも彼女が反応しないので、今度こそハウスの中へと去った。
――“またな”……。
 その言葉で金縛りが溶けた彼女は、自分が涙ぐんでいた事に気付いた。そしてほっとしている事にも。耐え切れずに振り向くと、ジョーが室内へ消えるところだった。
 アルテミスは、また海へ視線を戻して、一人ぽつりと立ち尽くした。

 ハウスの勝手口から、このやり取りの一部始終を見てしまったミネルバは驚いた。
――ジョーは親友の恋人にちょっかいを出してるの? 
アルテミスは泣いていたように見えた。慌てて、でもそっと、室内のジョーを見ると、ずかずかと歩いてリビングのソファにどかっと腰を下ろすと足を組んだ。表情はすこぶる不機嫌だ。しかし…。膝に肘を乗せて頬杖をしながら、そっと外を見やったのだ。
 ジョーの視線の先には、うな垂れたアルテミスの後姿。見つめるジョーの眼差しは、苛立ちよりも、寂し気な柔らかいものに変わっている。あれは恋する目だ。 
(まさか、ジョー…………?!)





 アレンとアルテミスを乗せたクルーザーは、随分と傾いた陽が眩しく反射する波を切り裂きながら母港の船着場へ無事に到着した。
 港に降り立ったアルテミスは、空気が秋になっている事に驚いた。肌寒い。オーラーデ島はあんなに暑かったのに。真夏だった。

 港からは車で帰宅した。部屋に入ると、ソルとルナがふわふわと飛んで来た。アルテミスはただ今と言いながら、二匹に代わる代わる頬擦りした。荷物を運び入れたアレンが部屋に入って来ると、アレンの周りへもまとわり付く。そうこうしているうちに、アルテミスの頭の上にソルが乗った。それを見たアレンが微笑んで言った。
「初めてソル達に会った時も、ソルがそうやってアリーの頭の上に乗ったんだよな。俺にはルナだった。そう言えば、ソルが密航したのもリンディアーナだったしな。ソルはアリーの方が気に入ってるんだな、きっと」
 アルテミスとアレンの思い出。アルテミスはそっとソルを抱き下ろし、手の中で摩りながら、密かに意を決してアレンに話しかけた。
「アレン……」
「ん?」
「私、アレンが好き……。アレンは私を好き…?」
「……どうした?」
「好き?」
アレンは、一呼吸おいてから答えた。
「愛してるよ」
不器用な、照れ屋のアレンの、一生懸命の告白。でも、もうアルテミスは、自分を誤魔化さなかった。
「私がアルテミスじゃなくても?」
アレンの目をまっすぐに見つめて訊いた。
アレンは何も答えない。ただ、驚いたような目をして彼女と見詰め合った。
「………私はアルテミスじゃないわ」
アレンは、心臓に殴られたような衝撃を感じた。
「……、アルテミスだよ、アリーは」
アレンのこの一言は、もう彼女を救わない事にアレンはまだ気付かない。
「私、ソルが頭に乗った事も、船に密航した事も知らない。バイクも、乗れない、乗った事ない、あなたと人食い猛獣の森を走った事ない!」
だんだんと勢いが付いて、最後は叫んでいた。その勢いに圧倒されたアレンはしばらく喋れないでいたが、静かに不安が広がる恐怖を押し殺しながら言った。
「忘れてるだけなんだよ? 本当に、全部アルテミスのコトなんだから」
「アルテミスじゃないの! 私は……アレンの知っているアルテミスじゃない…」
二人とも、しばらくお互いの目を見つめながら黙っていた。やがて、アルテミスが懇願した。
「アルテミスじゃなくても愛してくれる…? 私を……この私だけを見てくれる?…私、私のまんまで………」
泣きそうだったが堪えた。アレンの言葉を待った。アレンはとうとう彼女から視線を外してうな垂れた。
「…どうして…、どうしてアリーまで……そんな事言うんだ…」
「え?」
アリーまでって? 誰かが同じような事を言ってたの? しかしアレンがすぐに言葉を続けたので、その事を確かめることは出来なかった。
「俺は、ずっとアルテミスを愛して来た……。今も変わらない。アリーはアルテミスなんだから、」
「アルテミスじゃない私を見て、アレン」
「アリー、」
「アルテミスじゃない私を愛して」
「じゃあ、アルテミスはどうなる!」
とうとうアレンが強く言った。
「アリーがアルテミスじゃなくて……俺がアルテミスじゃない女を愛したりしたら、アルテミスは…?………また一人だ……。アイツはずっと一人で……、鋼鉄の鎧を一人じゃ脱げなくなる程着込んで、……、必死に生きて来たアイツを、また一人にするなんて、俺には出来ない、絶対に出来ない!」
――“アルテミスじゃない女を愛したりしたら”………。
ショックだった。アルテミスじゃない自分には、冷たい冷たい言葉だった。
「アリー、」
アレンの声色に懇願が混ざる。お願いだから、別人だなんて言わないでくれ…!
しかしもう何もかも諦めたアルテミスは、乾いた唇でゆっくりと答えた。
「アレンが見てるのは、私の中に眠ってるはずのアルテミスで、私じゃない……知ってたわ…」
入れない。アレンの心は、アルテミスでいっぱい……。
彼女の目から涙が溢れ出した。
「アレンのせいじゃないの。罰なの。私、アルテミスって名前を利用したから…あなたが、欲しくて……。ごめんなさい…アレン…」
それ以上は言葉にならなかった。必死で泣くのを止めようとするが、涙は後から後から零れ落ちる。そんな彼女を見ながら、どうしてやることも出来ずにアレンも搾り出した。
「利用したのは、俺も同じだ…。俺も…アルテミスが欲しくて…その名前をキミに付けた……。悪かった…」
アレンの言葉で、アルテミスの口から泣き声が漏れた。とうとうアレンが認めてくれたのだ、私はアルテミスじゃないと。そして、この瞬間、私はこの人の恋人ではなくなったのだ。
「今まで、ありがとう、たくさん、たくさん、ありがとう、」
涙に咽ながら一生懸命に言う彼女を見てアレンは思う。
――泣いているのは誰だ…? アルテミスの顔をした、別人……?
やがて彼女は、トランクケースを引いて、ドアへと歩き出す。
「行くところは…」
俺が地球へ連れて来た。俺しか知り合いが居なかったはず。
「ミネルバさんが……家出したくなったら…部屋いっぱいあるからって……」
ああ、もう一人じゃないんだ…と、今更のように軽くショックを受けながらも、“家出”という言葉にアレンは失笑した。そして、
「リンディアーナは、ここへ運んで来た責任もあるし、俺がちゃんと管理しておくから心配しなくていいよ」
と言った。
「迷惑なら、処分してくれても…」
「あの船はアルテミスのだ。俺や…他人が勝手に処分なんてできない」
アルテミスではない自分は、他人である。そうだ、処分する権利なんて無い。でも、その厳しい言い方で、やはりアレンにはアルテミスが特別な存在なのだと思い知らされる。そしてそれは、アルテミスではない自分は、アレンにとってまったく存在価値のない人間に等しいという事だ。絶望で崩れ折れそうになる足で踏ん張っている彼女に、
「身体に気をつけてな」
とアレンは言った。彼女は無言で頷くのが精一杯だ。ちょっとの間をおいてアレンは、
「もし…、」
と言ったきり、黙ってしまった。“戻って来たくなったらいつでも帰っておいで”という言葉が出せずに、
「なんでもない」
と黙り込んだが、彼女には伝わっていた。彼女は「うん」と頷くと、今度こそそのままドアから出て行った。
 ぱたんと閉じたドアを見ていると、アレンの真っ白になった頭の中に、ジーナの姿が浮かんだ。
―ジーナ、俺、失敗したのかな……? でも、これしか選べない。選べなかったんだ。


 玄関を出ると、夕暮れが肌に冷たかった。秋なのだ。真夏だったオーラーデ島ではないのだ。楽しかった真夏の日々は終わったのだ。まるで、まるで夢の中のようだった…。アレンの船の中で目覚めて始まった今日までの出来事は、実は夢の中だったのではないかと思うほどに…。涙の止まらない目を閉じて、胸に仕舞いこむ。そして、改めて家を振り仰いだ彼女は、
「ありがとう、さようなら……」
と呟くと、夕陽に向かって歩き出した。


第17話  夢の後  END web拍手 by FC2ぺた
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