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第19話  セヴァ・ファーム
 低い音を吐き出しながら地下駐車場のスロープを上って来た車は、するりとレンガの車道へ滑り出した。正午前の日差しが深紅のボディに反射する。朝方の涼しさは太陽に飲み込まれたかのように、長袖だと暑いくらいの陽気だ。

 それでも港に着いたジョーは、ブティックへ入った。これから渡る島は、もうしっかりと秋になっているはずだからだ。真夏の装備しかないアルテミスでは一日も過ごせない。それどころか、これから乗り込むフェリーの船上にすら、今の姿では寒くて立っていられない。午後に出発する予定を少し早めたのは、この買い物のためだった。
「前払いしてやっから、ロングパンツ選んで履き替えろ」
ジョーは命令した。虚ろな表情で華やかな店内に立たされていたアルテミスは、ジョーがどんな言葉を使おうと、自分の無力さに沈むばかりで動けずにいた。
 仕方なくジョーは店員に声をかけ彼女の世話を頼んだ。話しかけて来た客が海賊ジョーだと気付いた店員が卒倒しそうになったが、そんな事は日常茶飯事のジョーは頼んだよとウインクして、自分はトレーナーや薄手の上着を物色しに離れた。店員はちらちらとジョーを盗み見ながら、アルテミスの相手をしていたが、とうとう我慢でききずに
「お客様のお連れ様は、彼氏さん?」
と、試着室の中へ顔を突っ込んで尋ねた。アルテミスはか細い声で
「違います…」
と一言だけ答えた。

 ところでジョーは、女性物の店に入るのも、女性の衣類を選ぶのも、実は初めてだった。
「どぉ、ジョー?」
と、着飾ってぐいぐいと見せ付けて来る女達に、
「いいねぇ」「きまってるじゃん」「惚れそう」
などと褒めたり適当な感想を言ったりした事はあっても、その前の段階を付き合った事は皆無だ。
(農場の切り盛りの手伝いに連れて行くんだからよ)
と、心の中で誰にでもなく言い訳をしながら、シンプルな物ばかり数点選んだ。
 そうこうしているうちに、試着室のカーテンが開き、ロングパンツに履き替えた彼女がノロノロと出て来た。彼女と店員が二言三言交わしたのを確認したジョーは、顔中真っ赤にしている店員が持っているもう1本のパンツに自分が選んだ数点の長袖物を乗せた。店員は目を真っ黒に縁取ったつけまつ毛をバサバサさせてジョーを見つめていたが、ジョーにやんわりと会計を促されて躓きながらレジへ回った。
 
 会計をしているジョーの背を、アルテミスは見ていられなくなった。
―――あの時も人に服を買ってもらった。
木星エリアのコロニー・ナターシャの町で、まさしくこんなふうにアレンに買ってもらった事を重ねた。
 いつも人から施しを受ける自分が惨めだった。溶けてなくなってしまいたいと強く思った。
 そんな彼女に衣類の入った袋を押し付けながら
「行くぞ」
と言って、ジョーは店を出て車に乗り込んだ。エンジンをかけて、足取りの遅い彼女をじっと待つ。
 ジョーは彼女の気持ちに気付いていた。肩身の狭い思いをしているだろう、優しい言葉が一番傷つくだろう、と推測していた彼は、“施しではなくビジネス契約だ”という形を前面に押し出すしか、今の自分に出来る事はないと思っていた。
 彼女が隣に座ると、ジョーはフェリー乗り場へ向かって走り出した。



 

 ビドル島行きのフェリーは、西北西へ向かって定刻に出港した。ジョー達は見送りの人がいるわけでもないので、港とは反対側のデッキに立ち、ちょっと強めの潮風に吹かれながら遥か彼方の水平線を見ていた。アルテミスは先ほど調達されたパーカーを羽織っている。
 ジョーは自分が選んだ服を着ている女を見るのは初めてだったが、女は、と言うより彼女は、なかなかどうして可愛く見えた。
(まぁな、オレの見立てだからな)
口元が緩みそうになるのを押し殺して、ジョーは唐突に話し出した。
「ビドル島はちっこい島で、ほとんどが畑か森でよ、でも知り合いン家の農場はけっこう広いんだ。作ってるのはとうもろこしとかカボチャとか芋。春の種蒔と、秋の収穫の時期に手伝いに行ってんだ。秋はグランレースが終わってメンバーに休暇出して店も閉めちまうから、長居すんのに都合いいんだよ」
頬にあたる髪をそっと押さえながら、ジョーの声を聞いていたアルテミスは、
ジョー、毎年行ってるんだ…。と、ふと思った。
毎年、手伝いに……。ジョーが農作業を……。
「野菜の、収穫…」
考えていた言葉がそのままするりと唇から漏れた。
 昨夜から今まで、何を投げ掛けても虚ろに聞いているだけだった彼女が、初めて興味を持ったように口を開いたので、ジョーは内心喜んだが、平静を装って話を続けた。
「そう。あ、おまえは野良仕事じゃないからな。家の中のコト全部まとめてるメリンダっておばさんの手伝いがおまえの仕事。飯とか洗濯とかガキ共の世話とかな」
「……子供……?」
また彼女は反応した。ジョーは駆け足になりそうな気持ちを抑えた。
「そう。農場主のセヴァは、交通事故で一人きりになっちまったガキ共を引き取って暮らしてる変わったおっさんでよ。まぁ、そのガキ共が数も暴れっぷりもハンパねえから、覚悟しとけよ」
ジョーを見ていたアルテミスは、うんざりした口調で言っているわりには彼の表情が柔らかい事に気付いた。不思議に思って見ていると、視線に気付いたジョーは、
「腹減ったな。昼飯にしようぜ」
と言ってキャビンへ歩き出した。しかし足音が付いて来ないので立ち止まり、
「毎年この時期は女手不足だってメリンダが困ってるんだ。そしたらほら、今年はさ、住み込みの仕事を探してるおまえがいた。な、お互いラッキーじゃん。移動の送迎と飯付きだぜ?これ以上贅沢言ってんじゃねーぞ」
ジョーは彼女の返事は待たずにキャビンの中へと入って行った。風の吹きぬけるデッキで、彼女は理解した。つまり、ランチも手当てに入っているという事なのだろう。
ああ、また情けを掛けられて……と苦く思ったが、自分がいつまでも食事をしなければ、ジョーだってできないだろうと想像できたので、彼女もキャビンへ入って行った。





 ヴィゴラス島から二時間程の海洋上にビドル島はあった。
 島唯一の港に着いて上陸し、ほんの少し内陸へ入っただけで、景色は一面に広がる田畑風景になった。どこの農家もとうもろこしは作っているのだろうか、背の高い緑の葉が最後の収穫を待って立ち並んでいる。ところどころは花畑になっているようで、色取り取りの絨毯が見え隠れしていた。ジョーは小さい島だと言っていたけれど、アルテミスにとってはとてつもなく広大で、圧倒されるに充分だった。緑の匂いが含まれたその空気は、今までいたヴィゴラス島の空気と明らかに違っていた。土ぼこりを上げて走って行くと、畑の中にぽつりぽつりと建物が見え始めた。その中の一つに続く小道へと車は折れた。コスモスの花が無造作に咲き乱れている中を進む道の突き当りには、赤い屋根の大きな木造の建物があった。そして、セヴァ・ファームと書かれた木製のアーチを潜ると、ジョーは前庭の隅に車を停めた。
エンジンを切るが早いか、建物からばらばらと子供たちが三人、いや五人……数え切れないほど駆け出して来た。
「ジョーーーー!」
皆、口々にジョーの名を叫びながら近寄って来る。車から降りたところで、ジョーは子供たちに囲まれ抱きつかれぶら下がられた。どの子も弾けんばかりの笑顔だ。
「ひっつくな! 鼻つけるんじゃねぇ! 手ぇ洗って来い!」
子供たちに怒鳴りながらも、ジョーの表情はまんざらでもなさそうだ。本当に嫌だったら、電光石火の如く振り払っているはずだもの。そんなコトを考えながら、その勢いに圧倒されてアルテミスは車の向こうに立っていた。
「あ! 誰かいる!」
すぐに子供たちに見つかった。わらわらと車の奥へ覗きにやって来る。
「だれ〜?」
「お姉ちゃん、誰〜?」
「お名前は〜?」
一斉にわぁわぁと質問が始まる。質問と一緒に、すでに腕やら服の端やら引っ張られている。ぐいぐいと引っ張られて揺れる動きに、どうしていいか分からずにいると、
「ジョーの彼女?」
と誰かがジョーに言った。するとあっと言う間に、
「ジョーの彼女だ」と確定され「ジョーのお嫁さんだって」と昇格し「ジョー、結婚したんだ」となった。たった5秒のスピード結婚。
「バーカ、ませた事言ってんじゃねぇ、クソガキが。ほら、邪魔だよ、どけどけ!」
ジョーは車から子供たちを引っぺがし、荷物を下ろすと、
「行くぞ」
とアルテミスに声をかけ、二人分の荷物を持ってエントランスへと歩き出した。子供たちの渦もエントランスへ流れる。
「セヴァー、ジョーが着いたよー!」
口々に叫んで報告している。ドアの奥から人影が現れ、こちらを向いて手を振った。
「はっはっは、ジョー! 年貢納めたかー!」
手を振りながらセヴァは大声で言った。
「違ーよ、モーロクオヤジ! 女手が欲しいっていつもこぼしてるだろーが!」
まったくとんだ歓迎だとぶつぶつ文句を言いながらジョーは歩いた。


 客間は木肌の壁のぬくもりが感じられる温かい部屋だった。
向かい合って腰を下ろしているセヴァは、大きな口を開けて笑っていた。
「いやぁ、失礼したね、せっかく手伝いに来てくれたってのに、こんなヤツの恋人と勘違いしちゃって。いやいや、コイツにはもったいないったら、まったくねぇ!」
「その言葉、オレに失礼だろ、セヴァ」
アルテミスの隣で仏頂面のジョーが抗議したが、セヴァは笑顔で流し、
「改めて、セヴァ・オシュン。セヴァでいいよ。よろしくね!」
浅黒い大きな手を差し出した。日焼けだけではなさそうな、その肌の深い色も、何だか暖かく感じられる。しかし、喜び勇んで来たわけではないという後ろめたさがあるアルテミスは、その手を申し訳なさそうに取った。
「こちらこそ、お世話になります…、宜しくお願いします…」
セヴァは彼女の手をしっかりと握りながら笑顔のままで少し待ったが、
「で、なんて呼んだらいいのかな?」
と訊ねた。アルテミスはちょっとの間俯いていたが、顔を上げて消え入りそうな声で、
「あの……、私、名前は……」
そこまで言って、後が続かなくなってしまった。その様子を見てジョーは“アルテミス”という名前を使いたくないのだと察知した。
「考え中なんだよな」
「え?」
ジョーの言葉にセヴァはきょとんとした。ジョーは天気の話でもするように、
「こいつさ、記憶が真っ白なんだよ。で、今、作ってる最中ってわけ」
目をぱちくりさせてセヴァはジョーを見た。アルテミスは激しく動揺していた。記憶喪失という事は、身元が不明で怪しい人物かもしれないという事だ。事実、私はもっとも危険なカテゴリーの海賊(犯罪者)らしいし。セヴァの視線が自分に移って目が合った。
 セヴァはじっと彼女の目を見ていたが、やがてにっこり笑うと、
「そう、今、真っ白なんだ? わくわくするね!」
と言った。意味が分からずアルテミスは固まっていたが、ジョーが茶化した。
「セヴァなんて、リセットしたい事だらけだもんな。残念ながらそうカンタンに過去は消えねえよ」
「うるせぇ。誰にだって消したい過去の一つや二つ、あるんだよ! そうだよ、おまえだってな。おっと、無いとは言わせねぇぞ!」
笑顔で喧嘩口調だ。
「じゃぁ、おまえは何て呼んでるんだよ?」
「ボーズ」
「バカヤロー! こんな可愛いお嬢さんを!」
「セヴァ、もう老眼かよ」
「俺はまだやっと四十だ! しかし参ったな、そんなヒドイ呼び方できねぇな、どうしたらいいんだ」
腕組みをして悩み込むセヴァを、アルテミスは呆然と眺めた。
(悩むところはそこなの? 身元不明の怪しさよりも呼び方の方が問題なの?)
「ここにいる間に決まるんじゃね? なぁ」
ふいにジョーに投げかけられた。ばん!と窓が開いて、外に立っていた子供たちが一斉に思い思いの名前を叫んだ。物語の主人公や、アイドルの名前だ。
「てめぇら、立ち聞きたぁ行儀悪ぃぞ!」
ジョーは一喝した。その時ドアが開いて同じく勢いの良い少年が一人、入って来た。セヴァのように深味のある色の肌で、青味がかった銀髪の少年だ。
「ジョー!」
振り向いたジョーは笑顔になって言った。
「よう、ナクア」
「ああ、ナクアお帰り、ご苦労さん。こちらジョーの友人」
セヴァに紹介されて、ナクアはアルテミスに向き直った。
「初めまして! ナクア・ドルゴです」
ぺこりとお辞儀をする少年を見ながら、セヴァ・オシュンさんとは苗字が違うから親子ではないのだな…と考えていると、
「ジョー、キレイな恋人だね」
と言って少年はジョーから脇腹にとんっと拳を一発当てられた。
「まったく、どいつもこいつも、女ってだけで恋人とか言いやがって」
「だって、ジョーが誰か連れて来るなんて初めてじゃん。よっぽど大切な人なんでしょ?」
これにはさすがにジョーも立ち上がって、
「ナクア、ずいぶん御口が御上手になったなぁ!」
と言うが早いか、がしっとナクアの首に腕を回すと、ぐいぐい引き摺りながらドアへ向かった。開けっ放しだったドアの外には、子供たちが集まっていて、出て来たジョーに一斉に群がる。 ナクアは首に回されているジョーの腕に手を掛けて、
「ねぇジョー、レースの話、してよ! どうしてバイク燃えちゃったの? 今年はセカンドとサード、なんで逆だったの?」
と、矢継ぎ早に訊ねた。どうやらバイク小僧のようだ。
「ナクアはここの長男でね。今、14歳で、学校の傍ら仕事も良く手伝ってくれる、自慢の長男なんだよ」
セヴァが嬉しそうに言った。
 身寄りのない交通遺児を引き取っていると、フェリーでジョーが言っていた。あの少年が一番年上という事か。
「さあ、部屋に案内しよう」
ぼんやりと考えていたアルテミスは我に返ると、荷物のカートに手を掛け、セヴァの後に続いて部屋を出た。
 廊下を歩きながらセヴァは言った。
「自分に名前を贈る時は、その名前でどうしたいか考えてみるといいんじゃないかな。
“力”だとか、“支え”だとか。……“夢”でもいいよね、呼ばれるたびに、自分の夢を心に刻めたりしてね。う〜ん、ロマンだな。いい名前、決まるといいね。それから、楽しい記憶をたくさん作ってってな」





 夕食の準備から、アルテミスはキッチンに入った。農場の家事を切り盛りしているメリンダは、セヴァの古くからの友人で、夫と住み込みで働いていた。恰幅の良い朗らかな中年女性で、握手したアルテミスの手をぶんぶんと振って喜んだ。
 セヴァ・ファームは、農場主のセヴァ、メリンダ、メリンダの夫のマークの三人の大人の他は、十四歳から二歳までの子供が二十三人。そこへジョーとアルテミスが加わって今や総勢二十八人の大所帯だ。その夕食をメリンダの指揮の下、十歳を過ぎた三人の女子とアルテミスが賄うのだ。
 勝手の分からないアルテミスは、言われるがままに野菜を刻み、鍋をかき混ぜ、肉を焼いた。
 そうして無事に定刻通り、ジョーとアルテミスの歓迎会を兼ねた夕食は始まった。「はじめまして。ようこそ、おねえさん」と書かれた子供たちの手作り垂れ幕の下に座らされたアルテミスは、満面の笑みを浮かべて自分を見ている子供達に、居心地の悪さばかり感じながら、口に運ぶ夕食の味も分からずに飲み込むしかなかった。


 膨大な数の汚れた食器は、セットさえすれば後は機械が洗ってくれるので、早々にアルテミスは自由になれた。子供たちで満員のバスルームは、まだまだ順番が回って来そうに無い。アルテミスは裏庭へ出た。
 外は真っ暗だった。真っ暗。遥か遠くにぽつりぽつりと小さな灯りが見えるだけで、足元すら良く見えない程の闇だった。まるで自分のようだと彼女は思った。自分の過去にも未来にも重なる、闇。いっそ名前は darkness (闇) にしようかと自虐混じりに考えた。ふと、遠くから飛行音が聞こえてきた。顔を上げ音の正体をぼんやりと探した。雲の多い夜空に、星と一緒に見え隠れしながら移動して行く光があった。宇宙船だろう。
(私はあんな船、知らない。宇宙船なんて持ってない。私は宇宙海賊じゃないもの)
そこまで思って、
(じゃあ私って、誰……。 どうして…ここにいるの…)
夕食の準備を手伝っていた時には忘れていた深みへ、再びずぶずぶ沈みかけた時、ふわっと甘い煙草の香りが鼻先を掠めた。さく…さく…と草を踏みしめ近づいて来た影は確かめるまでもない、ジョーだ。彼は隣に立つと、一息深く煙を吐き出し、
「お・ね・え・さん。期待されてんじゃ〜ん?」
とにやにやしながら言った。
「明日っから気合入れろよ。ガキ共、学校が特別休暇ってやつでよ、家の手伝いしろってことで収穫作業が終わるまで休みなんだよ。うるせぇは、うざってぇは、うんざりだけど、まぁ、昼間はオレらが畑に連れてくから、おまえはひたすらメリンダのサポートな」
明日からジョーは農作業に出るのか…とぼんやりと考えていると、突然ジョーに頬を左右に引っ張られた。
「まさか不満だなんて言わねぇよなぁ? あぁ?」
言わないよ、と言おうにも口も引っ張られているので、
「ひははひほ」
としか発音できない。頬も痛い。ちょっとの間、ジョーはアルテミスの顔を見下ろしていたが、手を離し訊ねた。
「戻りたくなった? 連絡、取ってやるぜ?」
この問い掛けは二度目だ。今度は彼女は、はっきりと言葉で答えた。
「……昨日もそんな事言ってたけど、私、戻りたいなんて思ってないから。私じゃない女の人で一杯の人の所なんて、戻りたいわけない。やっとやめられたのに……」
「じゃあ、なんでそんなシケた面してんだよ」
核心を突かれた彼女は、さっき感じていた虚しさが何倍にも増幅した気分に襲われて、ぽろりと吐露した。一人では耐えられなくなったのだ。
「アレンから離れて、私はアルテミスの代役じゃなくなれたけど……そしたら、私って……誰なのかな…」
「おまえはおまえのままで、今のまんまでいいんだって、この前言ったよな」
あの南国の夜の波間で、泣きじゃくる彼女にそう言ったのは、ほんの三日前の事だ。
ジョーの胸が甘く疼いた。あれは二人だけの秘め事だ。更には取り乱した彼女を黙らせたキスに至っては、当の本人さえ気付いていない、ジョーだけの秘密だ。案の定、目の前の彼女には何の動揺もない。
「うん…。そう言ってくれた…。でも今のまんまの私って、何もなくて…一人じゃ何も出来なくて…結局誰かに甘えてて……」
「誰かってオレ?」
「……今は、…」
ようやく可愛い愚痴を吐けるようになったか、と一安心したジョーは、しかしそんな気持ちは顔には出さずに、
「オレとは正当な取引してオレん家にいるだろ。で、今ここにいるおまえは、セヴァ・ファームの重要な人手としているんじゃん。どこが甘えてるって?」
「それは、全部ジョーがお膳立てしてくれたから、」
「そんなんじゃねーだろが。昨夜おまえと偶然会って、利害が一致したってだけだろ。あのなぁ、今そうやってぐじぐじしてるおまえこそが甘々だぜ。明日の朝から目の回る忙しさってヤツの始まりだからな。もう無理〜なんて根上げんじゃねーぞ」
ふと、ジョーが遠くを見つめて動きを止めた。何かを確認している。アルテミスもジョーの視線の先を追ってみた。隣の丘の斜面に白い小さな影がある。
「連れ戻してくる」
そう言うなりジョーは走り出した。猛ダッシュしながら叫ぶ。
「こらー、パメラー!」
雲間から顔を出した月に照らされながら、あっという間に小さな人影に辿り着くと、しゃがみ込んで何か説教している。しばらくしてまた月が雲に隠れる頃、ジョーは小さな白い影を抱き上げて戻って来た。ジョーに抱えられていたのは四歳くらいの小さな女の子だ。ジョーを見るでもなく、アルテミスを見るでもなく、視線を落としたままだ。
「さぁ、もう入るぞ。パメラは寝る。お姉さんは風呂だ」
そう言われて、アルテミスは仕方なくジョーの後に続いた。
 
 裏口から中に入るとすぐに、ジョーはマークに呼び止められた。
「パンジーまで連れてってやって。必ず姉貴連中に引き渡してな」
パンジーとは三つある女子部屋のうちの一つの名前だ。ジョーにパメラを託されたアルテミスは、一向に俯いたままのパメラの手を取って歩き始めた。小さな冷え切った手は、アルテミスの手を握り返すこともなく、二人は黙って歩いた。
 パンジーのドアをノックすると、10歳前後の少女がドアを開けてくれた。室内には彼女より年下の少女があと二人いたが、パメラを見ると、どこに行ってたの、心配してたんだよと、口々に言って室内へと引き入れた。アルテミスから見れば、パメラに優しく語り掛けている少女達も、パメラとたいして変わらない幼い少女だ。それなのに、一生懸命パメラを世話している。年長の少女に丁寧に礼を言われ、アルテミスは少し戸惑いながら自室へ戻った。
 交通事故で親を亡くし、引き取り手のいない子供達。
(そうか、あんなに小さいのに一人なんだ……ここにいる皆、一人なんだ…)
改めて気付いたアルテミスは、その境遇に胸が痛んだ。
 ―――胸が痛んだという事は、彼女の心に余裕が生まれて来たことなのだった。





 セヴァ・ファームで迎えた初めての朝。まだ陽の昇らない薄暗い時間から、アルテミスはキッチンに居た。キッチンは明るく温かく、コーヒーの香りが満ちている。たくさんの卵を割っているアルテミスに、メリンダが話しかけた。
「ねえ、本当はジョーの恋人なんでしょう? だってとってもお似合いよ? 友達だなんてもったいないわ」
“もったいないから恋人になる”なんて人いるわけないと思いながら、違うと答えようとした彼女より先に、
「オレの恋人はメリンダだろ〜?」
と大あくびしながら入って来たジョーが言った。
「あらやだ、おはようジョー」
メリンダは、聞かれちゃった、と笑いながら、
「コーヒー、入れてあげてくれる?」
と、アルテミスに指示した。
「オレは朝から失恋かよ、ちぇ〜」
ジョーはキッチンのカウンターの前に立った。
「あ、ミルクとお砂糖をーーーー」
慌てて振り向いたメリンダだったが、すでにアルテミスはコーヒーにミルクと砂糖を入れてかき混ぜていたので、
(ほぉら、ちゃんと好みも知ってる。やっぱり恋人なんでしょう?)
と一人興奮した。そんなメリンダの妄想は知りもせず、アルテミスはコーヒーをジョーの前に置いた。
「おはよう…ございます……」
出されたカップに指をかけながらジョーはアルテミスの顔を見た。強烈な隈が下瞼を縁取っている。ジョーのデコピンが彼女の額に炸裂した。
「…痛っ…」
仕打ちの理由が分からず、眉根を寄せてジョーを見ると、
「寝てねーんだろ。ぶっ倒れるんじゃねーぞ?」
「大丈夫よ…」
寝ていないのは図星だったが、そんなに睨まなくてもちゃんと仕事するわよ…という反論は飲み込んだ。そこへ勢い良くナクアが入って来た。
「おはよう、ジョー! メリンダ! お姉さん!」
「張り切ってんなぁ。お前はチビどもと一緒でいいんだぜ?」
「ざけんなよ。俺はもう十四だぜ! ねぇねぇ、ジョー、忘れないでよ、バイク」
「ああ、仕事終わったらな」
バイクの操縦の術を教わる約束らしい。ナクアにとってジョーは憧れのライダーなのだろう。しばらくしてセヴァとマークが入って来た。おはようございます、おはよう、とあいさつが飛び交い、それぞれコーヒーを啜ると、朝の一仕事へ出て行った。その間に、メリンダとアルテミスは大奮闘して、一時間後に子供たちが勢揃いして、男衆が戻って来ると、朝食が始まった。アルテミスが割った二十八個の卵は、二十八個の目玉になって二十八枚の皿に乗っていた。


 朝食が終わると、いよいよ収穫作業だ。食堂で段取りの説明を受け、先程大人が用意をした農具を手にすると、それぞれが収穫予定場所へと出発した。残っているのは、作業するには幼な過ぎる子供が五人と、その子守り当番の女子が二人だった。
 幼い子供の中には、四歳のパメラもいた。子守りの姉さんに手を引かれ、食堂から出て行く彼女は、昨夜と同じに俯いたままだった。声をかけようかと思ったが、大量の皿に気を取られているうちに行ってしまった。子守りの姉さんがいるのだから何の心配も要らないわけだし…と思い直して、アルテミスは汚れた食器との格闘に専念した。



 洗濯機が洗い上げてくれた大量の洗濯物を、アルテミスは今まさに干し終わったところだった。秋晴れの柔らかな太陽の下、様々な大きさのシャツやらズボンやらが、圧倒的な広さではためいている。
「……大家族だ…」
大きく溜息をついて見上げると、日差しが目に刺さった。眩しさで痛い。寝不足の体は軽く貧血になりかけた。あと小一時間もしたら、昼食作りの始まりだ。畑へ出ていても昼食は皆一斉に戻って来る。弁当を作って持たせるより、戻って来て食堂で食べてもらった方がメリンダが楽だからだ。
 僅かな自由時間をどう潰そうか考えながら歩き出したアルテミスは、野生のコスモスに埋もれるようにして、伐り株に腰掛けているパメラを見つけた。一人だ。
「パメラ」
近寄りながら声をかけたが、相変わらず視線は動かない。穏やかな秋風に撫でられて、彼女の柔らかいメープル色の髪がふわりふわりと揺れているだけだ。
「皆と一緒にいよう」
アルテミスは、パメラの小さな手を取り、軽く引き寄せた。パメラは抵抗もせず伐り株からするりと立ち上がって、アルテミスを困らせる事無く歩いた。でも、やはり繋いだ手はそのままで、握り返してくることはない。
 留守番班は共同の子供部屋に居た。パメラを送り届けたアルテミスは、子守りの少女達に話しかけられ(「おねえさん、このお話、知ってる?」「このご本読んだことある?」「このお人形可愛いでしょう?」等)何となくそのまま仕事までの時間を子供たちと過ごしてしまった。



 昼食を用意し、皆が帰って来ると給仕し、また送り出して片付けて、夕食の下準備を済ませてから洗濯物を取り込んでいたら、もう夕方だった。メリンダに至っては、この間におやつ作りもしていて、こしらえたおやつは留守番班が畑へと届けていた。
 太陽が西の空へ下り始め、いよいよ地平線が赤く染まると、畑から一斉に引き上げて来た。農機具の片付けなどが終わった子から次々に風呂へ飛び込む。こうしてまた汚れた衣服の山ができ、食堂のテーブルに並んだ大量の皿はどんどん空になり、大量の洗い物へと変わって行った。学校の収穫休暇とやらが終わるまで、この流れが毎日続くのだ。
 畑から戻るたびに、ジョーはアルテミスの様子を確認していたが、予想通り彼女は激務に追われていて、顔を見て話す事など一度もできなかった。さらにジョーの周りにはいつも子供たちがいて、食事の時ですら彼女の隣には座れずじまいだったので、ジョーは遠くから見るしかなかった。



 
 やっと仕事から解放されたアルテミスは、当然の如く疲れ切っていた。それでも感覚の鈍った足を摺って、高台を目指して夜の草原を歩いた。今夜ももちろん暗い。人工の灯りはほんの数点遠くに瞬いているだけだ。それでも今夜は月明かりがあったので木立や納屋などの輪郭は良く見えた。行く手の斜面から歩いて来る人影も。立ち止まって見ていると、それはパメラを抱えたジョーだった。
「おやおや? 脱走羊、もう一匹、発見ー」
ジョーからもアルテミスが確認できたのだろう、茶化した口調が聞こえた。やがて辿り着いたジョーは、アルテミスに言った。
「大人がフラフラしてちゃ、チビどもに示しが付かねーじゃん。ほら戻るぞ」
そうして、パメラを抱えたまま、家へと引き返した。裏口から入るとパメラを下ろし、しゃがんで目線を合わせると、その細い肩に手を置き、
「パメラ、さっきオレが言った事、頼むな」
と言った。しかしパメラの視線は外れたままで、いつも通りに俯いたきりだった。それでもジョーは、ぽんぽんと軽く肩を叩き、よし!と言いながら立ち上がった。
「何?」
怪訝そうに訊くアルテミスにジョーは、
「オレとパメラの秘密。じゃ、脱走羊1号・2号、ちゃんとベッドに入って数を数えて寝ろよ」
と言い、パメラをぐいと押し付けて自室へと去って行った。その後姿に、
「何よ、それ……」
と、弱々しく言い返しながらパメラの手を取った。大きく溜息をついて歩き出すと、パメラの手がきゅ…とアルテミスの手を握った。
(え……)
確かに小さな小さな指たちに握られている感触がある。思わずパメラを見た。しかし見下ろしたパメラはまっすぐ前を向いたままだ。そうして、パンジーへ送り届けるまでアルテミスを見上げる事は一度も無かったが、繋いだ手はずっと握っていたのだった。
第19話  セヴァ・ファーム  END
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