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第16話 グランレース | ||
グラン島は、島全部がかつての北アメリカ大陸にあったグランドキャニオンのような小島だ。その渓谷を利用して島中に高低差のあるレースコースを作り、組み合わせを毎年変えては年に一度グランレースを開催するようになって数十年が経つ。 チーム・ハザウェイも、今朝、オーラーデ島から渡った。メンバーはトレーラーごと与えられたピットへと向かい、大事に運んで来たマシンを降ろし実に六日ぶりに触れた。 そのピットの二階にある専用観覧席へ応援メンバーは荷物を下ろした。セカンドライダーのケンの新妻・ヒイナが合流して、全員がお揃いのチームTシャツに着替えた。 ピットでは、テスト走行を終えたメンバー達が、各々の確認作業に余念がない。今年のコースは昨年より面白いらしい。閲覧スタンドの並ぶ華やかなエリアを抜けると、険しい絶壁に挟まれたコースが続く。岩肌の赤が視界の全てだったのに、時折ぱっと目の前が広がり空の青が取って代わる。アップダウンも程よく盛り込まれていて、大昔のサーキットレースとはかなり趣が違うが、それこそがこのグランレースの売りなのだった。 ケンが面白そうに言った。 「あの“魔の自爆コーナー”、鳥肌たったな!」 「巻き添え食らうなよ」 アレンが、ケンとジョーの顔を見ながら念を押した。ニックが笑いながら言う。 「ジョーが食うのは、女だけだもんな」 誰も反応しない、軽く流される種類のいつもの冗談だった。が、ジョーは「食う」という言葉に、昨夜のアルテミスとのやり取りがフラッシュバックされ、変な息の吸い方をしてしまい咳き込んだ。 “ジョーの額を見た事を口外しない約束” “約束を破ったら、第二の口で食っちまう” ジョーはピットの裏へ出た。壁に寄りかかり、煙草に火を点け、呟いた。 「なんなんだっつーの…」 昨夜は、彼女が室内に戻ったのを見届けた後も砂浜に座っていたジョーだったが、しばらくして自分も部屋に上がった。シャワーで塩水を流し、何食わぬ顔をして、また階下の宴会に戻ったのだが、明日のためにと早目に宴会はお開きになった。その時刻にカーラとロイは戻らなかった。 アレンはミネルバと戻って来たが、浮かない顔をしていた。たったさっき自分の女があんなに傷付いたってのに、何も知らずに己の事で凹んでいる親友を見て、ジョーは少しイラついたが、それはまあ仕方ないと思い直した。しかも明日は大事なレースなのだ、余計なゴタゴタは避けようと、黙ってベッドに入ったのだった。 深く吸い込んだ煙を、顔を上げすーっと吐き出した。青空へ真っ白な筋が吸い込まれて行く。 それを見つめていたジョーは 「……すげー空…。最高のレース日和だぜ……」 そう言いながら静かに目を閉じた。たくさんのバイクのエンジンの音がジョーの耳に流れ込んで来た。 そう、これからレースなんだ。ようやく本番。やっと走れる。 ジョーの胸に沸々と熱が湧く。 「ジョー、どこだー?」 ピットの内でメッカの声がした。ジョーはブーツの踵に煙草をこすりつけて火を消し、ピットの中へと戻って行った。 スタンド席は満員だった。各ピット上の観覧席では、スタートラインに並んだ仲間へ声援を送る。 「さあ!クレイジーライダーどもが出揃ったここで、チームの紹介だ〜!」 野太いアナウンサーの声が響くと、歓声が湧き起こった。 各チームの名前と、今まさにバイクに跨っているライダーの名前を次々と挙げていく。 「エントリーナンバー22番、チーム・ハザウェイ、ファーストライダー、ジョー・ハザウェイ!」 歓声が黄色い悲鳴になる。ジョーはマシンに跨ったまま軽く手を挙げた。 「ジョー、頑張ってー!」 ディミーが体を乗り出して叫ぶ。もちろん本人には聞こえないが。 ピットの軒先で、インカムをしたアレンが、二階席を見上げた。ディミーと並んでスタートラインを凝視しているアルテミスを見る。 ――彼女は今、ジョーを見ている。いや違う、ジョーを見ているわけじゃない、チーム・ハザウェイのライダーを見ているだけだと思い直しても、どうしようもなく黒い気持ちがじわりと胸に広がるアレンだった。 「今か今かと睨みつけられてシグナルも溶けそうだぜ〜! さあ、いよいよだ! スロットル全開の準備はいいかい、ライダーども! 目ン玉ひんむく準備はいいかい、スタンドの野郎ども〜!」 アナウンサーの声に、ディミーも拳を突き上げ返事をしている。 やがてカウントが始まってシグナルが全て青に変わった瞬間、一斉にマシンが雄叫びを上げた。地面を引き裂くような爆音を残して、マシンだけがあっという間に岸壁の中へと姿を消して行く。 ジョーも無論すぐに消えた。観覧スタンドから見える岩肌に、巨大スクリーンが何枚もあり、ここからでは直接見ることの出来ないコースを映し出してくれている。その中をバイクたちが走り抜け始めた。程なくすると、一枚のスクリーンの中でマシンがクラッシュした。ちょっと間を置いて、岩向こうから不快な音が響く。やがて大なり小なりの事故があちこちで起こり始めたが、そんな中、ジョーは何事も無く一度目のノルマである10周を走り切り、ピットに戻って来た。 ジョーがバイクから降りるや否や、待ち構えていたメッカとニックがわっとバイクにかぶりつき、ジョーの走行中にバイクから送信され続けていたデータ通りのコンディションかどうかを確かめて行く。その僅かな時間、スタンバっているケンにジョーはコースのアドバイスを二言三言すると、ぽんとケンの肩を叩いた。それと同時にマシンチェックも完了し、ケンはバイクに跨るとコースへ飛び出して行った。 観覧席では、一生懸命声援を送っているヒイナの背中を、興奮しながらディミーがさすっていた。どうやらすこぶる順調らしい。ゴセとサラは満足気にビールを開けて、呆れるミネルバを尻目に乾杯し、祝杯を上げ始めた。 観覧席においてある映像のみのモニタで、階下のピットの様子が見てとれる。メットを脱いだジョーが、アレンと短く会話し、飲み物を手に奥へ消えるのをアルテミスは見た。ジョーの姿が消えたモニタには、緊張の中にも笑顔の混ざるメッカとニックと、残されたアレンが映っていた。 それからさらに数時間が経ち、コースを走っているチームは半数に減っていたが、チーム・ハザウェイは何事も無く、ジョーはすでにトータル40周を走りぬき、ケンは今、最後のノルマ10周を4番手という高位置で順調に走っていた。 と、また、巨大クスリーンの中で、クラッシュ事故が起こった。折りしもそれは、ケンの目の前での事故だった。クラッシュした惨事の中に突っ込むチーム・ハザウェイのバイク。 小さな悲鳴を上げて、ヒイナが目をつぶった。 だがケンは、足元をすくわれる事無くその場を走り抜ける事に成功し、あっという間にスクリーンから消えた。 「大丈夫か、ケン!」 インカムでアレンがケンに呼びかけた。 「ああ……」 ケンの返事は途切れた。 「どうした、ケン?」 奥のリクライニングシートでガタガタに軋み出している身体を横たえて休んでいたジョーは、アレンの声に起き上がって来た。アレンはケンとの交信をスピーカーに切り替えた。途切れ途切れの苦しそうな声がピットに響いた。 「…か、肩に……もろに当たっちまって…。マシンを押さえ込めねぇ…!」 どうやらクラッシュしたマシンの破片が飛んで、それがケンの肩に当たっていたらしい。 「やばい、スピードが落ちてる……!」 ニックがデータモニタを読みながら言った。2番手と3番手がクラッシュ事故でいなくなり、2番手に躍り出たのもつかの間、スピードダウンで数台に抜かれてしまっている。 ピットの様子をモニタで見ながら、応援メンバーは祈る思いだ。ゴセが言った。 「交代ってもなぁ、ジョーはもう10周しか走れないだろ? 残るはあと17周なんだから、どうしたってあと7周は他のヤツが走らねぇと」 しかし、もうケンは走れないだろう事は、誰にも理解できていた。 「こんな時のためのサードライダーだろ。テストランもしてあるんだし」 ジョーはそう言うと、アレンの頭からインカムを取った。 サードライダーを使うには、ペナルティとして1周が加算される。つまり、ケンならあと7周で完走だったが、アレンだと8周走らなければならないのだ。そのペナルティを押してでも、サードライダーを繰り出す局面だという事だ。 アレンは奥の壁にかけてあるライダースーツへと歩いて行った。ニックがケンの情況を逐一読み上げる。ジョーはケンにピットに戻るようインカムで指示した。 スーツを着終えたアレンがメットのバンドを締めながらモニタに現れた。 「わ、アルテミス、見て見てアレン!」 興奮したディミーに言われるまでも無く、アルテミスも見ていた。 ピットの軒先にメッカ、ニック、ジョー、ライダー姿のアレンが並び、さらにその後ろにサラとミネルバも立ち、気力でスロットルを開け続けたケンが帰還するのを待ち受けた。マシンが停止すると、ジョーがバイクからケンを引き剥がした。メッカとニックがマシンコンディションのチェックを始めた。サラに手を貸してもらいながら、ケンを奥のリクライニングシートへ運ぶと、後はミネルバに任せて、ジョーはマシンへ引き返した。それと同時にチェックが終わった。OKサインを出すメッカたちを確認して、アレンは一瞬二階席を見上げた。 二階席の欄干から身を乗り出して、アルテミスが見下ろしていた。心配そうな表情のまま、彼女の唇が「がんばって」と動く。アレンは小さく頷いて、マシンに跨った。 「とりあえず8周ノルマ。後はその時」 ジョーはインカムでアレンに言うと、肩をぽんと叩いた。 「OK」 一言こたえると、アレンはスロットルを開いた。 上空のセスナの中で、ロイが後席のカーラに言った。 「出てきたぞ、しっかり撮れよ」 「わかってる!」 カーラは、高鳴る胸を押し殺してカメラを握り締めた。 アレンの発進を見届けたジョーは、ケンの元へと取って返した。 「骨折してるかもしれないから、このまま病院に連れて行くわ」 所見を終えたミネルバが、主催側へ救急車の要請をしていた。 「ジョー…すまない…」 ケンが痛みに顔を歪めながらジョーに詫びた。ジョーは膝をつき目線をケンに合わせて言った。 「マシン、守ってくれたじゃないか、サンキューな。オレの我侭で走ってもらっちまって悪かったな、ケン。でも、やっぱりお前とで良かったぜ」 「ジョー…」 「後のコトはアレンとオレに任せて、肩診てもらって来い」 救急隊員が担架を持って到着した。ケンを乗せた担架に続いて、ヒイナが救急車に乗り込んだ。 慌しい中、真顔でミネルバにジョーが言った。 「ケンを宜しくお願いします、先生」 ああ、やっぱりジョーは育ちが良いのよねぇ、と密かに感心しながらミネルバは、 「任せて」 と微笑むと救急車の中へ消えた。 マシンデータのモニタを見ているメッカは興奮していた。 「すんげえスピードだぜ、アレン! 水を得た魚のようだ! 本当は走りたくてうずうずしてたんじゃないのか?」 二階でピットの様子を固唾を呑んで見守っていたメンバーも、嬉しそうなクルー達の表情を見て士気が上がった。観覧席にも笑顔が咲く。 巨大スクリーンに映るチーム・ハザウェイのバイクは、一台、また一台と、先行のマシンを抜いて行った。 ところが暫くすると、ピットとライダーの交信に不具合が生じ始めた。ジョーがインカムに向かってアレンに呼びかけるのだが、なかなか返事が返って来ない。 「だめか?」 メッカが訊く。忌々しげに舌打ちして、ジョーは繰り返した。 「おい、アレン、聞こえるか、アレン」 「また妨害電波かよ」 ニックが毒づいた。嫌がらせや大会阻止目的で、無線連絡の妨害電波を出す輩がいるのだ。こちらとしても、毎年違う周波数を使ったりと対策は取って来ているのだが、今年は逃げ切れなかったようだ。 しばらく呼び続けていると、アレンの声が聞こえて来た。 「アレン!」 「お、聞こえた。今、何も聞こえなくなってた。俺の声は聞こえてた?」 「いや、ダメだ。また妨害だ。いつまた捕まるか分からないから、サイン塔メインで行くぞ」 「OK。ケンは?」 「大丈夫。ミネルバが病院に連れてった」 「そうか、なら安心・・・・・」 アレンの言葉は途中でノイズにかき消された。また妨害電波が飛び始めたらしい。 「ジョー、休んで」 ニックがジョーに言いながらインカムを受け取ろうと手を出した。体力の回復もライダーの務めだ。ジョーはニックにインカムを渡しながら、 「サイン塔にも必ずサイン出すの、忘れるなよ」 と言い、奥のリクライニングシートへと歩いて行った。 「妨害電波? ライダーと連絡が取れなくなっちゃうの?」 アルテミスは驚いてディミーに訊ねた。 「まったく悪質よね。でも大丈夫、サイン塔もあるしね」 「大したことじゃないよ」 ゴセも笑って言った。そしてまた、巨大スクリーンに見入った。 しかし、アルテミスの不安は消えなかった。 リクライニングシートに横たわり、目を閉じて休んでいたジョーは、素肌の腕にぴとっと何かが触れて、驚いて目を開けた。腕を見ると、小さな白い手が乗っていた。その手の主は、しゃがみ込んでいるアルテミスだった。 「なななななんだ、おまえか、びっくりすんじゃねーかよ」 つい、声が上ずってしまった。驚いたので。腕の感触と、目の前にいる人物が彼女だったから…。 「呼んだけど、気付かないから」 彼女は、腕に触れた事を言い訳しているが、それすらタイミングが悪いと、表を走り抜けるバイクの轟音に消されて聞こえない。 「あ?」 もう一度、彼女は一生懸命話すが、あちこちから響いてくるバイクの音にかき消され、ちっともジョーには届かない。ジョーは、彼女の耳に顔を寄せて言った。 「アレンなら心配要らねぇぞ」 目をしばたたかせて、彼女は納得すると、こくこくと頷いて見せた。そして、今度はジョーがしたように、ジョーの耳に顔を寄せて、 「ねえ、」 と話しかけた。 耳元で「ねぇ」と甘く囁かれる事なんてジョーは慣れっこだ。でもそれは、夜であり、ほの暗い場所であり、酒と煙草の匂いにまみれたシチュエーションであって、間違ってもこんな昼日中のバイクの騒音まみれの場所ではない。 彼女は決して甘く囁いたわけではなかったが、ジョーはぞくっとしてしまい身体を離した。がしかし、ちょっと出来た距離を埋めんとして、彼女は更ににじり寄った。ジョーの腕にまた手を乗せて。 「マイクがだめになった時、ライダーにピットに戻れって連絡するには、」 妨害電波の一件を知ってアレンの事が心配なのだとすぐに察知したジョーは遮るように答えた。 「あー、大丈夫、サイン塔にサイン出させて貰うから。ライダーは必ずそれ見て走るし」 ところが彼女の手はジョーの腕の上から無くならずに、さらにぐっと重さがかかった。 「じゃあ、それが壊れたら?」 腕に半分気を取られていたジョーは、一瞬、彼女の言葉が理解できなかった。 「サイン塔が? そんな事ぁねぇよ」 「でも、あったら?」 「今まで一回もねぇからねぇって」 「だって、今日は分からないじゃない?!」 彼女はまったく引き下がらない。ジョーは不愉快な気分になった。自分の言う事を信じない彼女が腹立たしい。が、更には、ジョーも気付かないもう一つの理由は、それらがただひとえにアレンへの想いだということだった。 ジョーは身体を起こすと、両足を彼女の横へどかっと下ろして言った。 「そんなに心配なら、ブリッジの上で叫べば? 私の所へ帰って来て〜〜〜ってよ」 「…ブリッジ?」 「ほら、こっから行ったところに一つあるだろ、コースの上を跨ってるでっかい橋」 ジョーは裏口を見ながら言った。ジョーの視線を追ったアルテミスにも、少し離れた場所に建つ橋が見えた。しかし……。 「叫んだって聞こえないでしょ?」 もちろんその通りだ。サイン塔が壊れるなど現実問題としてありえないと考えているジョーは、本気で提案しているわけではない。しかしそれに気付かない彼女は思案顔になった。呆れたジョーは 「んじゃ、目立つようにチームTシャツでも振れば?」 と言い足した。アルテミスは一瞬きょとんとしたが、すぐに自分の着ているTシャツを見ながら、 「それで気付くの?」 と真剣に訊ねた。 「気付くだろ」 おまえ(自分の女)が振れば、小さなハンカチだって気付くだろーよ。と、ジョーは心で毒づいた。 そんなジョーの気持ちをよそに、彼女はしげしげとTシャツの裾を広げて見下ろしている。ジョーは立ち上がりながら彼女に言った。 「ほんと、おまえってマヌケな。今からアレンにどうやってその合図教えるんだよ」 「え?」 ちっとも自分の言う事を信じない彼女が憎らしくて、ついそんな言い方をしてしまったジョーだが、素直に自分を見上げる彼女が何だか健気で可哀想に思えて来た。 「大丈夫、アレンはもうあと2周もしたら戻って来る。そんでおしまいだ」 「うん」 安心させてやろうとジョーは優しく言ったが、彼女は硬い表情のままで、ジョーに言った。 「じゃぁ、ブリッジの下を通る時はちゃんと見てね」 「あ?」 「忘れないでね」 彼女はジョーに向かってTシャツの身頃を左右に引っ張って広げて見せた。 「オレ?」 「これから走るでしょ」 オレに合図? オレへの合図を決めたがってたのか…? 真剣な瞳の彼女を見つめたまま、ジョーは動けなくなった。 「ジョー! 来てくれ!」 メッカの大声に弾かれて、やっとジョーは動けた。しかし、唯ならぬ事態が起こったようだ。 ジョーは、素早く彼女の耳元に顔を寄せて言った。 「大丈夫だって。サイン塔は壊れねぇよ」 「ジョー、」 「上にいろ」 ジョーは彼女の肩を二階へ上がる階段の方へ軽く押しやると、メッカ達の方へと走った。 ロイのセスナは、もうもうと立ち上る黒煙を迂回しながら旋回を続けていた。 「派手にやったな。何台巻き込まれてるんだ?」 「4台…あ、また後続車が突っ込んだわ…!」 「こちらロイ、現場はDの3、魔の自爆コーナーだ。コーナーに入る直前まで現場が死角になってるから、後続車は皆そのまま突っ込んでる」 妨害電波で途切れ途切れになりながらも、ロイからの情報は聞き取れた。 「抜けられそうか?」 ジョーがロイに聞き返した。 「めいっぱいアウトから・・・・」 ロイからの返事はそれきり届かなくなった。 ニックが必死にアレンへ呼びかける。 「アレン、アレン、聞いてくれアレン!」 しかし、アレンからの返事はない。ガーガーと不快な雑音だけが流れて来る。 アレンは、これからそのポイントを通過する。 アレンの現在位置からは、立ち上る黒煙すら空までそそり立つ岸壁に阻まれ見えない。コーナーを曲がり切ったところに火の海が広がっていると、どうやって知れと言うのだ。 魔の自爆コーナーを抜けたすぐ先を映しているスクリーンには、事故発生以来、一台も映らない。 アレンへ呼びかけ続けるニックの声が響く中、自爆コーナー手前を映すスクリーンに、とうとうチーム・ハザウェイのバイクが現れた。 「来た!」 二階で、巨大スクリーンを見ていたディミーが叫んだ。 スクリーンの中で、バイクは小さな点からどんどん大きくなり、アレン!とディミーが叫んでいる間にスクリーンから消えて行った。すなわち、アレンは魔の自爆コーナーに入るという事だ。 「頼む、アウトに膨らんでくれ、アレーン!」 ニックは絶叫した。 二階席の皆は、息を殺して魔の自爆コーナーを抜けた後のスクリーンを見つめた。事故以来、静かに景色だけを映しているスクリーン。 ピットのメンバーは、バイクから送られてくるデータモニタを睨み付けた。データの数字が動いているうちはバイクは走っている、つまりアレンは無事という事だ。 同じ頃、上空のセスナでは、ハイスピードでコーナーを曲がり黒煙に突っ込むチーム・ハザウェイのバイクを確認していた。 永遠にも思われた一瞬が過ぎ、ピットのモニタではアラームが鳴り出すと同時に数字が一斉に落ちた。全ての項目の数値が0のまま動かなくなった。 「嘘…だろ……」 ニックがこぼした呟きも、モニタのアラームに消えた。 ピットが絶望に突き落とされた時、観覧席のメンバーが睨みつけていた巨大スクリーンを、見たかったバイクが走り抜けて行った。 ディミーは歓声を上げながら、アルテミスをぎゅうぎゅう抱き締めた。おかげでアルテミスはしゃがみこまずに済んだ。 ピットへ駆け下り、アレンの姿を確認したコトを告げたゴセは、メッカとニックにもみくちゃにされ、神のお告げをもたらした大天使のごとくありがたがられた。たとえ酒臭くても。 しかし、モニタの数字が死んだのは、データの送信機能がダメージを受けたからだったのだろう。という事は、あまり手放しに喜んでもいられない。マシンにどれだけの損傷があったのか未確認なのだ。 「大丈夫だ、安定して走ってる。さすがだなアレン。なぁ、カーラ」 操縦桿を握る手に、自分でも驚くほど汗をかいていたが、なるべく平静を装ってロイはカーラに声をかけた。だが、返事はない。ミラーで確認すると、カーラは気を失っているようだった。 「……何に重ねたんだか……」 ロイはカーラを起こさなかった。起こせなかった。カーラが重ねたであろうあのシーンを自分もなぞって、疼く胸の痛みを抱えながら静かに空を飛んだ。 ピットが待ち焦がれる中、アレンはノルマだけを走り切り帰還した。 「悪い、ジョー、マシンにくらった」 大きく肩で息をしながらアレンは開口一番に言った。 「良く無事に抜けたな、あの現場」 「運が良かった」 「謙遜すんなって! オレも負けてらんねぇな」 ジョーは、ばんとアレンの肩を叩いて労った。 「ジョー、データ送信も応急処置で復旧させたし、他のダメージも、走るのには問題ない!」 メッカの報告を受けて、ジョーはバイクに跨った。スロットルを吹かしながら、感触を確かめる。確かに異常はなさそうだ。 「サイン塔、良く見てくれな。それから無茶はしないでくれよ、こっちは何でも用意してるから、いつ入って来てもいいからな!」 「優勝フラッグ見るまで戻らねーよ」 「だから、無茶すんなって!」 メッカの言葉も聞き終わらないうちに、ジョーはスロットル全開で走り去った。 ニックはすでに、モニタを睨みつけている。メッカは、アレンに労いの言葉をかけると、奥で休むように促した。 アレンはゆっくりと歩きながら、胸のジッパーを下ろして腕を抜いた。そのまま裏へ出ると、大きく深呼吸した。走り出す前は、いろいろと雑念があったが、走っている時は集中できた。ただ早く走る事だけに没頭できた。充実していた。楽しかった。満ち足りた気分で青空を見上げていると、階段を駆け下りてアルテミスがやって来た。 「アレン! お疲れ様…!」 まだ、オーラーデ島でのぎくしゃくした気分を引き摺っているので、アレンの胸に飛び込んだりはできないアルテミスは、控え目に言った。 「ああ、ありがとう。レースはまだ終わってないけど、まぁ、俺に出来る事はもう終わったな」 アレンは微笑んだ。以前のような穏やかな表情をアレンがしたので、アルテミスの緊張は一気に緩んだ。更には奇跡の生還を遂げてくれた喜びも手伝い、涙ぐんでしまった。 「どうした?」 アレンは驚いた。 「アレン、無事で…良かった…」 それだけ搾り出すと、泣き出すまいと唇を噛んで黙った彼女を、アレンはそっと抱き締めた。 「ああ、ごめん、ごめん、心配かけたな。大丈夫だよ、怪我もしてない、大丈夫」 アレンの腕の中で、アルテミスは頷いた。 「前に…エジカマの人食い猛獣の森を、アリーを後ろに乗せて走った時に比べたら、今回なんて全然楽勝だ」 「………」 その記憶が無いアルテミスは想像してみた。アレンのバイクに乗った事はあるので、それを描きながら森の中を走ってみた。でも。それは自分とは重ならなかった。どうしても。どうしても…。 黙ったまま、しばらく抱き合っていると、アレンを呼ぶメッカの声がした。緊迫した声だ。 「ディミーと一緒にいな」 そう言うと、アレンはピットへ戻って行った。 二階へ上がったアルテミスは、なるべく大きいサイズのチームTシャツを用意しようと予備の箱を探した。が、どうも見つからない。 「ディミー、チームTシャツの予備って、どこにあるの?」 「え、その辺にない? ダンボールにまとめて入れてあるんだけど」 二人でたくさんのダンボール箱を覗き始めた。 ピットでは、三人が険しい表情でモニタを見ていた。 「くそ、やばいな、下がらねぇ…」 メッカが漏らす。モニタの中で、エンジンそのものの温度が平常範囲をオーバーしていた。その数字は大きくなるばかりだ。冷却がされていない事を示している。 「冷却層が剥がれたか、ヒビでも入ったか……」 メッカが推測する。ニックが打ちひしがれて言った。 「 俺、見落としちまったのかな……! でも、でも、確かにさっきは何ともなかったんだぜ」 「何ともなかったし、データも正常値だった。走り出してから異常が発生したんだ、ニック」 メッカが冷静に言った。アレンはモニタから目を逸らさずに訊ねた。 「下がる見込みは?」 「上がる一方だ」 メッカの答えを聞いたアレンは即決した。 「リタイアだ」 すぐさまメッカは、サイン塔へ流すコマンドを打ち始めた。ニックはダメもとで、インカムからジョーへ呼びかける。 「ジョー、ピットへ戻ってくれ! 帰って来てくれ、ジョー!」 チームTシャツの予備が入っている箱を探して、アルテミスが階段を降りて来た時、今までとは桁違いに大きな爆発音がして、建物そのものもびりびりと揺れた。 どれだけの大きな事故なのかと思ったアルテミスが、表を見ようとピットへ目を向けると、メッカがキーボードを打ちながら叫んでいた。 「おかしい、コマンドが送れない、どうなってるんだ?」 インカムを手に表を見ていたニックが真っ白な顔で振り向いた。 「サイン塔が爆発した……!」 メッカもアレンも軒先まで走り、サイン塔を見上げた。しかし、見上げた先にサイン塔はなかった。黒煙を吐き出す支柱だけを残して、サインの出る電光掲示板の部分はどこにもなかった。 遠くから続けて数回、爆発音がした。メッカはあわててキーボードを打つ。しかし予感は的中、コース上に設置された6基のサイン塔、全てがコマンドを受け付けない、つまり機能していなかった。 「そんな……どうやってジョーに伝えればいいんだ! 爆弾に跨ってるって!」 いつも冷静なメッカの取り乱しように、事の深刻さが迫ってくる。 「サイン塔があんなになって、とりあえずピットに戻って来るかも…」 苦し紛れだと思いながら、ニックにはそれしか思いつかない。だが、アレンは言い切った。 「いいや、あいつが見てるのは、目の前を走るバイクと、その先にある優勝フラッグだけだ」 「持ってあと1周だ!」 データモニタの数字を指で押さえながらメッカが吐いた。 裏口から飛び出したアルテミスは、今さっきジョーと見たブリッジを目指して全力疾走した。 ――爆弾に跨ってる ――持ってあと1周 頭の中をニックとメッカの言葉がぐるぐると回っていた。 ブリッジでジョーにサインを伝えられれば、彼はそのままピットへ戻って来るんだから間に合うはず。 それしか彼女にはなかった。 転がるように走って辿り着いたブリッジにも観覧客は溢れていたが、その人垣を掻き分け、強引に橋の中央の前列へとアルテミスは割り込んだ。周囲の人々は驚きながらも、彼女の殺気だった勢いに怯んで文句は言えずにいた。 橋の欄干に乗り出し、ブリッジ前のストレートに入ってくる直前のヘアピンカーブを見た。カーブに入る手前に数台のバイクがいたが、あっという間にカーブを回りブリッジの下を走り抜けて消えた。視界に入ったバイクが橋の下を通過するまでは、ほんの数秒だ。 絶対にジョーを見落せない。アルテミスは強く唇を噛んだ。猛ダッシュと極度の緊張のせいで、鼓動は早鐘のようだ。何台目かをやり過ごした後に、彼女はジョーを発見した。 ヘアピンカーブに入る直前、ジョーがシトダウンを使ってエンジンブレーキをかける音が聞き取れた。カーブを抜けると、ブリッジの目の前、ストレートの始まりだ。もう数秒後にはジョーは行ってしまう。 ――チャンスはこの一度きり。 アルテミスは着ていたチームTシャツをばっと脱いだ。突然、下着姿になった彼女の周囲の人波が半径2メートル程引いた。 しかし、彼女は目の前のストレートの始まりしか見ていない。 陽炎に奪われそうになる影を、決して見失わないように、彼女は睨み付けた。 左膝を擦る程バイクを倒しながら、地を這うようにジョーのバイクが現れた。 彼女は、両手にしっかりとロゼ色のTシャツを掴むと、ぐいと前方に突き出した。 ジョーのバイクは滑らかな体重移動で立ち上がり加速して来る。 「ジョーーーーーーーーー! 戻ってーーーーーーーーー!」 彼女は喉も裂けんばかりに絶叫しながら、ばっさばっさとTシャツを振った。 一陣の風のようにジョーは橋の下を走り抜けて行った。彼女の絶叫は、ジョーのバイクの音にかき消され、誰にも聞こえなかった。 腕が抜けるほど振ったTシャツは、ジョーのバイクが走り去った瞬間に、彼女の指からばっと逃げ出し、風に乗って青空へ舞い上がり、どこかへ行ってしまった。 アルテミスは欄干に上半身を乗せ、背中全部で大きく呼吸をしていた。吸っても吸っても頭は酸欠のようだ。ジョーが走り去った路面を、大きく見開いた目で睨み付けたまま、じっと待った。 彼女が待ち望んだアナウンサーの声がスピーカーから響いた。 「おおっと、マシンが! あれは、22番のチーム・ハザウェイのピットだぜ! 戻ったマシンが、いきなり炎上だー!」 アルテミスの身体が硬直した。石の様に固まった中で、心臓だけが破けそうに動いている。 お願い、お願いと頭の中で祈り倒す。 「ハザウェイの姿、確認だー! 不死身のライダー、ジョー・ハザウェイ、健在〜!」 ジョーのファンらしい観客達から、歓声が上がる。 アルテミスは、顔を伏せて、そのままずるずるとしゃがみ込んでしまった。 上半身、下着姿で、しゃがみ込んだまま動かない彼女を、遠巻きにしていた人々の中から、二人組みの女性が 「大丈夫ですか…?」 と声をかけ、自分の上着をアルテミスのむき出しの背にそっとかけてくれた。 豪快に噴出した炎は、しかしすぐに鎮火できた。消火器を手にしたニックが 「ああ、良かった、間に合って本当に良かった、良かった」 と涙交じりで繰り返すが、ジョーには届かない。泡だらけになったバイクの回りをガツガツ歩くことで、ピットに戻った途端に試合終了になってしまった怒りを何とか押し殺していた。 「やっぱり、俺があのクラッシュを抜けた時にやっちまってたのかもしれない」 アレンの言葉が、ジョーの怒りを解き放った。 「わかんねえ、わかんねえけど、くそっ! アレンのせいじゃねえ! ケンのせいでもねえ! もちろんメッカやニックのせいでもねえ! あーーーー、ちっくしょーーーー!」 吼えるジョーに、メッカが言った。 「ジョー、マシンと一緒に炎上しなかっただけでもラッキーだったじゃないか」 「ほんとだよジョー! でも良くわかったな、やっぱり跨ってて熱かった?」 「あ? 何が!」 怒りにじっとしていられないジョーは、泡だらけの愛車の前を行ったり来たりしている。そんなジョーを見ながら、メッカがぽそりと訊ねた。 「……じゃあ、なんでピットインしたんだ?」 あんなに優勝フラッグを見るまで、つまり、ノルマを走り切るまで戻らないと豪語していたジョーが、タイムロスを覚悟のピットインをしたのは何故なのか、ニックもメッカも、そしてアレンも不思議に思った。 答えを待ってジョーを見つめる三人を尻目に、我に返ったジョーはピットを見渡した。慌てて二階も覗くが探している顔は見当たらない。 「どうしたんだよ、ジョー?」 アレンの声を背に受けたが、答える間も無くジョーは裏口から走り出した。 ブリッジの中央には、異様な人だかりが出来ていた。レースはまだ続いているのに、そこにいる人々は明らかにレースを見ていない。 すみませんと言いながら、ジョーは突き進み、やがてしゃがみ込んでいる小さな人物に辿り着いた。 やっぱり……!とジョーは全身が熱くなった。更には、無造作にかけられた見かけぬ上着の下から、白い素肌の肩が覗いているのに気付いて、彼女が今どんな格好なのか、そしてその理由をもすぐに悟り、やる瀬無い思いでいっぱいになった。 ジョーはライダースーツのジッパーを下ろして腕を抜くと、下に着ていたTシャツを脱いだ。そして、彼女に掛けられていた上着の換わりに、自分のTシャツで彼女の背を覆った。ジョーは人垣に向かって、 「すみません、これはどなたのですか?」 と声をかけた。おずおずと女性が名乗り出たので、上着を手渡しながら礼を言った。 「どうも…、本当にどうもありがとうございました」 あられもない姿の彼女を隠してくれた恩人に、ジョーは深く頭を下げた。 それからアルテミスの横にしゃがみ込むと、そっと声をかけた。 「ほら、着ろよ……」 しかし、アルテミスは顔を伏せたまま動かない。仕方が無いので、ジョーは彼女の頭からずぼっとTシャツを被せた。身体を折って小さくなっている彼女は、大きなジョーのTシャツにすっぽりと入ってしまった。そのまま動かないので、ジョーは袖口から腕を突っ込み、中にある彼女の腕を引き抜いた。そうして両腕を抜いても彼女は顔を上げない。 「顔出せって…なぁ…」 促してみたが頭はシャツの中から出てくる気配が一向に無い。ジョーは彼女の腕をつかむと、ゆっくりと立ち上がらせた。そしてシャツの裾をくいくいと引き下ろした。 ようやく現れた顔は、涙でべちゃべちゃになった頬に髪の毛がやたらめったらに張り付いていた。ジョーの心臓がぎゅっと縮む。 この顔は…こんな顔をさせたのは、オレなんだろう。なんだろうじゃなくて。オレのせいだ。 ジョーは罪悪感で一杯になった。どうしていいか分からず、とにかく頬に張り付いている髪を一筋一筋つまんで戻してみたりした。 「……うそつき……」 彼女がぼそっと呟いたので、ジョーは手を止めた。 「え?」 「……サイン塔、壊れた……」 「あ、あれは…壊れたっつうか、壊された――」 ジョーの胸を拳でぽかっと叩いて、彼女はジョーの言葉を遮った。もう片方の拳も、ジョーの胸に当てる。ジョーがそのまま黙っていると、彼女はぽかぽかぽか…と両手でジョーの胸を叩いた。叩いている彼女の頬を、新たな大きな涙の粒が滑り落ちて行くのが見えたジョーは、 「でも、おまえのサイン、オレ、ちゃんと見ただろ?……」 と気弱に言い返してみた。それを聞いたアルテミスはジョーの胸を叩くことを止め、拳を胸に押し当てたまま、堪えきれずに「うーーーー」と声を漏らして泣き出した。 ジョーの胸に顔を埋める事無く、拳で距離を保ちながら、それでも堪えきれずに泣く彼女を、ジョーは迷う事無く抱き寄せた。自分が泣かせてしまった女の背をそっとさすりながら、ジョーは真剣に囁いた。 「サンキューな、Tシャツ振ってくれて……」 何が何だかぐちゃぐちゃで分からなくなっていたアルテミスの顔は、ジョーの胸に触れていた。Tシャツを脱いでいるので、素肌が直接触れている。体温と汗を感じる。鼓動が聞こえた。頬の下で、どくんどくんと速いリズムが脈打っている。 (生きてる……生きてる……) ひたすら願ったジョーの生。その証を、アルテミスは頬や掌で存分に感じ取った。 自分の両腕の中に、すっぽりと納まっている彼女がどうしてもとてつもなく愛おしくなったジョーは、顎の下にある彼女の頭に鼻を埋めることを我慢できなかった。 上空で旋回するセスナから、一人高見の見物をしていたロイは、アルテミスの突然のストリップにも充分驚いていたが、そんな彼女を迎えに駆け付け人目もはばからず堂々と抱き締めているのがまったく意外な人物だったので、 「………ぉゃぉゃぉやおやおや〜〜〜〜?」 と、大声を上げるほど驚いた。そして、ふぅ〜ん…と、大空の中で一人胸にしまい込んだのだった。 周囲のざわめきが大きくはっきりして来た。どうやら、目の前にいるのはチーム・ハザウェイの、もしくは、海賊ジョーだと気付き始めたらしい。さらには、抱き締めている女は誰なんだという声も囁かれ始めた。まごまごしてはいられない。冷静さを取り戻したジョーはそっとアルテミスに耳打ちした。 「ピットに戻るぞ」 そして、彼女を抱き寄せていた腕を外し、ライダースーツの袖に腕を通して着込むと、周囲を刺激しないよう、何食わぬ素振りで歩き出した。 去りかけたジョーの背中に、ファンらしき少年が叫んだ。 「ジョー!」 この一声をきっかけに、黄色い歓声が上がり、わっと人垣が押し寄せて来た。 「走れ!」 ジョーはアルテミスの手を掴むと、走り出した。 手首を掴まれ走り出しながら、アルテミスの脳裏に同じような光景が一瞬蘇った。それは、アルテミスとジョーが、初めて出会って、街中を走り回った時のもの。 はっきりと思い出せないながらも、アルテミスには充分な衝撃だった。 前にも、こうしてジョーと走ったことがあるのだろうか? つまり、海賊アルテミスと海賊ジョーが……? でも、それなら何故、ジョーはその話をしてくれないのだろう? 以にも会った事があるのかもしれないと思い始めると、結局はそこへ行き着いてしまう。 ふと、手首を離したジョーが目の前からふわりと飛んだ。スロープをショートカットして飛び降りた彼は、アルテミスを見上げて両手を広げ 「来い!」 と言った。アルテミスは一瞬の躊躇すらなく、ジョーの胸へと飛んだ。ジョーはしっかりと彼女を受け止めると、再び手を掴んで走り出した。 大きな背中。光に透ける金の髪。見たことのあるような。 ――でも、どうでもいい。 海賊アルテミスが、誰とどこで何をして、何を思っていたかなんて、もう私には関係ない。 私は私。 今、ジョーと走っているのは、私。 アルテミスはこのまま青空へ飛び立てそうな、晴れやかな興奮で体中が一杯になった。 |
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第16話 グランレース END | ||
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