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第15話  熱帯夜
 今日も一日良く晴れそうな朝だった。白い砂浜に朝陽を射す太陽が、真っ青な空ですでに眩しい。
 それなのにビーチハウスの男子部屋では、重い空気が生まれていた。空腹で目覚めた面々に、足りない顔があるのだが、それが不可解だ。ケンが呟く。
「ジョーならともかく、アレンが?」
「だって寝た形跡無いぜ…?」
ぴんと伸びた冷たいシーツを見ながらニックが答えた。
 この『グランレースとバカンス』の夏を過ごすようになって数年、一度もアレンが外泊した夜はなかった。パッと見・軟派なジョーの親友でありながら、アレンはパッと見も中身もバリバリの硬派だ。そのアレンが、こともあろうに恋人を同伴している夏に…? 不可解極まりない。
 
 ジョーだけは、充分思い当たる節があったので涼しい顔だ。昨夜の話のせいに決まっている。あのまま戻って来ていないのだから、アレンは相当堪えたはずだ。
――図星だったって事だよな。
密かにジョーは安堵した。一晩かけて冷静になったアレンは、マシな態度をアイツに取るようになるだろう。
 
 ジョーはさっさと部屋を出た。
「アルテミスと一緒に船で寝たんじゃねーの?」
ゴセも大あくびをしながらそう言うと部屋を出た。ああ、そうか、そうだよな、と皆ほっとしながら、なんだよアレンのやつ、三日しか独り寝もたなかったな、などと笑いながらゴセに続いた。
 
 ぞろぞろと廊下を歩き、リビングを見下ろせる階段の降り口へ辿り着くと皆一様に階下を見やった。
 リビングでは、女性陣がすでに朝食の準備に忙しかった。ワンピースでふわふわと円を描きながらくるくると動くアルテミスを発見して、男性陣は息を飲む。ただ一人ジョーを除いて。ジョーは、僅かだったが頬が緩んでしまった。茶色いフローリングに咲いた白い丸い花のように見えて、うっかり可愛いいと思ってしまったのだ。
「アルテミス、いるじゃないか…?」
サラに言われて、それでもゴセは
「じゃ、アレンもいるんじゃねーの?」
とあくまでお気楽だ。
 階段の上に立ったままの男性陣に気付いたミネルバが声をかけた。
「おはよう、男衆、御飯よ〜」
その声に引っ張られたように、男性陣はギクシャクと階段を降り始めた。皆、きょろきょろとアレンの姿を捜しながら、目の合った女性に「おはよう」と言う。
「よう、ボーズ」
アルテミスがキッチンへ戻るため、ジョーの後ろを通った瞬間、ジョーが声をかけた。
「おはようって言葉、知らないの?」
つんと返すと、キッチンへ入って行く。すぐにオレンジジュースの入ったピッチャーを持って出て来たところへ
またジョーが言う。
「ベッドはトランポリンじゃねーぞ」
「え! な、何で…」
何で知ってるんだろう…! さすがのアルテミスも言葉が出ず、真っ赤になってしまった。が、懸命に抵抗する。
「あんな時間にもう部屋に帰って来たなんて、さては振られたのね?」
「バーカ。オレ様を誰だと思ってるんだ?」
「スケベバカ」
「クソボーズ」
言いたい放題で微笑みを浮かべながら睨み合う。
  
 その時カーラは、降りて来た面々の中にアレンが居ない事に気付いて、まだ寝ているのだろうか、具合でも悪いのか? と一瞬にして不安になった。同じく気付いたディミーが言った。
「あら? アレンは?」
「ん? 下にいない?」
兄のゴセに逆に尋ねられて、へ? という顔になる。
「まだ降りて来てないけど……え、いないの?」
一瞬、リビングの空気が止まる。アレンが外泊したらしい…という衝撃がざっと渦巻く。
その流れをすぐに元に戻したのは、ミネルバだった。
「その辺で寝てるんじゃないの? 昨夜遅く浜辺にいたわよ」
「あ、じゃあ、探して来ます…」
小声で言うアルテミスに、ミネルバが明るく付け足した。
「御飯よって起こして来て」
薄く微笑んで、アルテミスは出て行った。その後姿を見送りながらディミーが
「そうよね、まさかアレンがね、ジョーじゃあるまいし」
「ディミー、また波に沈みてえ?」
と答えながら、ジョーはサラダのプチトマトを摘み食いし、浜辺を走る後姿を一度も見なかった。



 アルテミスは、クルーザーへ向かって浜辺を一直線に走った。桟橋をひたひたと歩きながら声をかける。
「アレン…アレン、返事して」
ゆたゆたと揺れる船に、一人で乗り込めずに、声だけ掛け続けた。船体と桟橋へ打ち付ける波の音だけしかしない。不安がみるみる胸いっぱいに広がる。
何となく…何となくだが、心当たりがある。アレンが自分を…避けた理由に。避けたのではないかもしれない。でも。漠然と広がる重い思考……。
―――アレンは失望したんじゃないだろうか…私に……。あまりに海賊アルテミスとかけ離れていて…。
 いよいよ不安に飲み込まれそうになった時、がたんと音がしてデッキの上にアレンが顔を出した。
「アレン…!」
思わず叫ぶ。しかし、アレンは静かに
「……どうした?」
と尋ねた。
 目と鼻の先にちゃんとしたベッドのある部屋があるというのに、わざわざ船で一夜を過ごすなんて、おかしい行動だったという自覚はないらしい。この温度差は何なの…? と思いながら、それでも彼女は懸命に話しかけた。
「皆が…アレンがいないって…外泊したんじゃないかって…」
「ああ、そうか。…まぁ、外泊って言ったら外泊だな、これも」
「ここで、一晩…?」
「うっかり寝ちゃったんだな」
……うっかり? 本当にそれだけ?
どうかすると口にしてしまいそうになって、アルテミスはアレンに両腕を伸ばした。安心したい。今すぐに。
 自分へと差し伸べられた不安げな白い腕を見た瞬間、アレンの頭の中でジョーの声がした。
―――とりあえず、おまえを頼るしかねえよな。
“とりあえず。”
その言葉がまるで呪文のようにアレンの身体を縛り付ける。
「……アレン……?」
泣きそうな声に、アレンは我に返った。そして、彼女の腕を取ってデッキの上へと引き上げた。ぐらりと船が揺れて、デッキの端で二人は抱き合った。
 アレンの背中に回った手で、アルテミスはアレンをぎゅっと抱き締めた。アレンもアルテミスをそっと抱き締める。こんなふうに抱き締めるのは何日ぶりだろう。久しぶりに感じる彼女の柔らかな感触はやはり気持ちが良い。
「もっと強く抱いて……」
消え入りそうな声で彼女が言った。素直にアレンはぎゅうっと抱き締める。抱き締めながら、顎の下にある彼女の髪に顔を埋めた。短いくるくるとした髪が、海風にふわふわと舞ってアレンの頬を撫でる。
 その髪が、一瞬にしてさーっと長く長く伸びた。驚いて顔を上げるアレンを見上げるアルテミスの瞳は冷たく、悲しげに見える表情はかつて自分を拒否していた頃のものだった。
 動けず硬直していると、
「アレン…?」
と呼ばれた。はっとして瞬きをした途端、腕の中のアルテミスは元に戻っていた。髪の短い、不安で泣き出しそうな彼女に。
「どうしたの…?」
「………。なんでもないよ。戻ろう、朝食だろ?」
そう言うとアレンは桟橋へトンと降りて、デッキの上のアルテミスの手を取り、抱き止めて降ろした。
「行こう」
アレンは桟橋を歩き出した。アルテミスは一歩を踏み出せずにその背中を見ていた。背後に気配がしないので振り返ったアレンは、動かない彼女のそばへ引き返し、そっと手を取るとゆっくり歩き始めた。
 何故、船に篭ったのか……。聞き出す事の出来ないまま、アルテミスは砂浜を鉛のように重い気持ちで歩いた。





 バカンスの最終日、悔いの無いように遊び倒すメンバー達には、アレンとアルテミスの間に生まれた空気に気付く余裕は無かった。ディミーが、ゴセが、ニックやメッカが陽気な声で遊びの輪の中へ二人を誘う。「海賊アルテミスらしくしていられないから」という理由で、自分だけ加わらない事など出来るはずもなく、アルテミスも輪に入る。自分さえしっかりしていれば…、と留意しながら。
 しかし、気の良い仲間達と過ごす時間は、心地よく楽しい。知らず浮かぶ笑顔、こぼれる笑い声。そして、視界に入るアレンの―――……。
 アレンの表情は、何んとも判別し難い表情だった。決して怒っているわけではなく、悲しんでいるようでもない、でも、何を考えているのかさっぱり分からなかった。たった一つ彼女が今日一日かけて感じている事は“私が楽しんでいる時、アレンは本当は楽しくないんじゃないか”という事だった。とにかく、あの表情を浮かべさせているのは、この自分だ。
 




 レース前の最後の宴会の間中、アルテミスはアレンの側から離れなかった。ずっと隣に座っていた。
だが、昼間抱えていた不安は一向に消え去ることは無く、むしろ側に居れば居るほど、それは増幅して行くように感じた。
 話しかければ応えてくれるし、微笑みかければ笑顔を返してはくれる。触れても振り払われたりしない。けれど……違う。昨日までと明らかに違う。
 アルテミスは、ついに耐え切れなくなった。
「アレン、私、部屋に行くね…」
「そうか、疲れた…?」
少し、と小声で返すとそっと立ち上がった。アレンも一緒に2階へ上がる。部屋の前まで送ると、
「ゆっくり休みなね」
と言い、軽くキスをしてアレンは廊下を戻って行った。
 後ろ姿が見えなくなると、彼女はのっそりと部屋に入り、ドアを閉めた。立っていられずへたり込む。小刻みに震えだした唇に拳を当てた。
……なんて寂しいキスなんだろう。
アルテミスはドアから逃げるように、自分のベッドへ駆け寄り突っ伏した。





 階段を降りたアレンは、宴会席を横切り浜辺へ出た。夜風はなく、昼間の熱がまだビーチに残っている。そのむん…とした空気がじっとりと不快にアレンにまとわり付く。まるでアレンを責めるように。そんな風に感じるなんて、後ろめたい証拠だ。アレンは深く溜息をついた。
 ビーチのベンチにカーラが座っていた。俯いたまま歩いて来るアレンに気付いたカーラは心臓が跳ね上がったが、努めてさり気なく声をかけた。
「元気ないじゃない?」
びくっとしてアレンは顔を上げた。カーラだとわかると警戒を解いて
「俺?」
と返事をした。
「彼女と喧嘩でもした?」
カーラは腰をずらして、アレンに座るよう無言で促した。アレンは素直にカーラの隣に腰を下ろす。
「してないよ、なんで?」
「あんまり一緒にいなかったじゃない、今日は」
するどいな、女の子って…とひやりとしながらアレンは笑いながら言った。
「はは、怖いな、俺カーラに一日中見張られてたのか」
「何言ってるのよ」
アレンの肩をとんと突いてカーラは動揺を誤魔化した。一日なんかじゃないわよ、バカンスが始まってからずっとよ。
 気心の知れた仲間の前で、アレンは遠慮なく溜息をついた。カーラは弱みを見せて貰ったような気分になりながら、
「大変ね、記憶が無いって。思い出がないんですものね、また一つ一つ作って行かなくちゃならない…」
と言ったが、アレンは何も答えず、暗い海を見ていた。
「あ、ごめんなさい、変な事言って。早く戻るといいわね、記憶」
カーラの気遣いに情けなくなったアレンは話題を変えた。
「カーラ、今年はあんまり海入らなかったな」
気付いてたの? どきんとする。「だって、アレンが一緒じゃなかったからよ」と言う台詞は飲み込む。
「去年、日焼けして散々だったのよ」
「そうか、去年は海に入りっ放しだったもんな」
言いながらアレンは軽く笑った。
ああ、アレンの中にもちゃんと残ってるんだ、去年のバカンスの日々。カーラは胸がきゅっとなった。
「楽しかったわよね」
「なんだ、今年は楽しくなかったみたいじゃないか?」
「そんなことないわよ。……楽しんだわよ」
慌てて取り繕ったが、切なくなってしまったカーラは口をつぐんだ。
 しばらく二人とも黙って、浜辺に染み出す仲間の宴会の声と、姿を見せない波の音を聞いていた。
今回のバカンスで、初めてアレンと二人きりになれたカーラは、どくどくと脈打つ鼓動に巻き込まれ、つい
「アレン、…」
と声をかけてしまった。
「ん?」
振り向かれて、アレンとまともに見つめ合う形になったカーラは、自分の鼓動に後押しされて自らを追い込んで行く。
 頭で言葉を選択する前に唇が動いた。声が出る一瞬前に、
「どう?」
ミネルバの声がした。顔を上げると、缶ビールを差し出しながらミネルバがすぐそこまで歩み寄っていた。
「いいえ、もういいわ。ありがとう」
「そう? アレンは?」
「俺もいいや、サンキュー、ミネルバ」
「早仕舞いねぇ」
笑いながら踵を返したミネルバを、アレンは立ち上がって呼び止めた。
「ミネルバ、あの…、ちょっと話があるんだけど………」
「…? なに?」
ミネルバが答えるのと同時に、カーラは立ち上がり、
「じゃ、ごゆっくり」
と、唇の端だけ上げた笑顔で二人に言うと歩き出した。
「悪いな、カーラ」
カーラの背中に詫びると、カーラは振り向かずに片手を上げて、
「どういたしまして〜」
と言いながら、ビーチハウスへと入って行った。
「何? 話って」
ミネルバに訊かれても、アレンはなかなか喋り出せない。
「少し歩きましょうか」
ミネルバに促されて、アレンは歩き出した。


 ビーチハウスへ入り、宴会を突っ切って、加速する勢いで階段を上がる。
 カーラは混乱していた。何を言おうとしていたんだろう………! まさか「好きだ」と言おうとしていたとは思わないが、限りなく近いような事を、アレンにそう取られてしまいそうな事を口にしようとしていたのではないか……? 何の段取りも無く、勢いに任せて……!
  自分の浅はかな行動に唖然としながら、しかしその反面、切なさで一杯になる。行き当たりバッタリの告白さえ、私には許されないのか。こんなにずっとアレンを思って来たのに。
 こみ上げて来るものを押さえようとして、喉が痛い。ちょっとだけ嗚咽が漏れそうになった瞬間、どうにか間に合って女子部屋へ滑り込んだ。
 ぱたんとドアを後ろ手に閉めると、一息嗚咽がこぼれた。涙が目の縁に膨れ上がり、今にも頬にぼろりと落ちそうだ。あぁ、一人になれて良かった…と思った時、雲が流れて顔を出した満月が、部屋の中に月光を送り込んだ。みるみる輪郭を現す物達。
「カーラ?」
ベッドの上で身体を起こした影が呟いた。嫌な予感がして凝視していると、その影は今一番見たくない女に変わった。しかも彼女は泣き顔だった。ぐちゃぐちゃに泣いていたらしい。今も涙が頬を濡らしている。
 カーラの理性がブツリと千切れた。
「何してんのよ……」
ローガーナの言葉で呟く。無意識の呟きだ。もちろんアルテミスには解からない。
「え…?」
「何であんた、泣いてるのよ!」
今度はしっかりと共通語を使ってアルテミスに投げつけた。突然怒鳴られて、アルテミスは訳が分からず返事も出来ない。
「私は認めない! あんたが海賊アルテミスだなんて絶対に認めない! あんたはそうやって、泣きたい時に平気で泣ける、情けないただの女じゃない! 泣いて、しがみ付いて、アレンの優しさに付けこんで! 海賊アルテミスの仮面を被って、アレンを騙してるのも一緒よ!」
アルテミスには息が止まる程の衝撃だった。
「アレンが好きなのは、あんたじゃない! あんたがアレンの恋人だなんて私は絶対に認めない! アレンの側にいることなんか絶対に許さない!」
カーラは涙声で大暴走して行く。
「消えなさいよ! 私達の前から消えて!!」
とうとう破壊的な最後の一撃を放つ。
 それをまともに受けたアルテミスは、どんと弾かれたようにベッドからずり落ち、震えながらもバルコニーへ飛び出すと、そのまま外階段を転がるように駆け下りて行った。

 アルテミスがバルコニーへ飛び出したと同時に、カーラもドアを開けて廊下へ飛び出し、猛烈な勢いで階下へ駆け下りると、キッチンの勝手口から表へ出た。

 慌しく階段を駆け下りたカーラが、宴会を避けるようにキッチンへと駆け込むのを、チョコレートに手を伸ばしたジョーはたまたま見た。ほとんど同時に、宴会の輪の奥に座っていたロイが黙って立ち上がり、そっとキッチンへ消える。チョコレートを口に放り込み傍観していると、カーラの後を追ってロイも勝手口から外へ出て、すぐに二人は暗闇へと溶けて行った。
 騒々しいねぇ〜、お姫様はご機嫌斜めか? と思いながら、ふと、ジョーは気付く。そういえば女子部屋にはさっきアイツが上がってったっけ…。アイツと何かあったのか?…と漠然と感じながら、カーラたちが消えて行ったのと反対の浜へ何気なく顔を向けたジョーは、闇に同化する一瞬前の、僅かな儚い白い影を見た。

 反射的に立ち上がったジョーは、キッチンとは反対側の裏口から浜へ飛び出した。
嫌な予感がした。と言うより、ほとんど確信だった。
 
 全力疾走すると、目の前の闇に白い影がぼうっと浮かんだ。寄せては返す規則正しい波の音に、ばしゃばしゃと不規則な水音が混ざる。
「おい、ボーズ!」
ジョーは慌てて声をかけた。夜の海へ走りこむなんて尋常ではない。
 だが不幸中の幸で、波が足に絡みついた彼女のスピードはがくんと落ちた。おかげであっさりと彼女に追いつけたジョーは、ざぶざぶと波を蹴散らし彼女に近づいた。彼女は、泣きじゃくりながら何かを叫んでいる。
「どこ行くってんだよ! おい、待てったら、ボーズ!」
ジョーは彼女の腕を捕らえた。彼女は振りほどこうともがき、切れ切れの息の中で泣き叫ぶ。
 ジョーの胸はぎゅっと痛んだ。だが、それが何の痛みなのかを分析している余裕はない。
 何とか彼女を抱え込んでなだめようとしたが、彼女はジョーの腕の中で暴れ、呪文のように理解不能の言語を発している。ムーンベース語ってヤツか、と忌々しく思いながら、ジョーは少々強めに――彼女が身動き取れなくなるくらいにはきつく、彼女を抱え込んだ。 
「何言ってっか、解かんねえよ、共通語使えって! なぁ!」
まるで壊れたプレイヤーのように彼女の口から月語は途切れない。
(涙と海水で声が枯れちまうぞ。つか、月語はアレンにしか通じねえじゃねーか、オレには何も伝わらねーぞ!)
どうしても彼女をなだめ切れないジョーは、情けなさも手伝って不快感が頂点に達した。
―――そんな言葉は使うな!
そう思った瞬間、ジョーは左手で彼女をさらに抱き寄せ、小さなあごに右手を当ててぐいと上を向かせると、その顔に覆い被さった。
 
 唇を塞がれた彼女は月語を吐き出せなくなった。それどころか呼吸さえもままならない程、ジョーはしっかりと彼女の口を塞いでいた。
 ジョーの唇から自由になろうと身をよじってみるが、どんなにずれてもジョーの唇は追いかけて来て、また覆われてしまう。
 強く強く抱き締められながら、絶対に離れないキス。キス、とは呼べないかもしれない。とにかく彼女の唇を覆う。ジョーの唇を受ける以外の一切を許さない、絶対的な強引なものだった。

 やがて彼女の唇からは、呼吸を求める喘ぎ声が漏れ出すだけになった。酸素を取り込もうと彼女の胸は激しく上下している。それに気付いたジョーは、彼女の肺が膨らみやすくなるように腕を少しだけ緩めた。唇も少し隙間を作って様子を見る。
 どうやらすっかり月語は引っ込んだようだ。ジョーは唇を離した。

 真上を向かされ容赦なくジョーの唇を受け止めさせられていた彼女は、伸び切っていた喉を縮めて、ようやく俯くことが出来た。軽い目眩と共にジョーの胸へと顔を埋め、肩で大きく息をする。
 呼吸が楽になり始めるのと反比例して、むせび泣きが大きくなって来た。ジョーの胸に俯いたまま、ただただ泣く。
「泣くなよ……泣くなって……」
困ったジョーは、抱き締めたまま彼女の背中そっとさすってみる。
 むせび泣く声の中に、またあの月語が混ざり始めた。弱々しく何事か呟いている。ジョーは、もう一度、彼女の顔を上へ向かせると、今度は唇を塞ぐことなく、はっきりとした口調で言った。
「聞いてやるから、オレに解かる言葉で言えよ、ボーズ」
「………」
漏れ出す月語が止まった。
 
 夜空の雲が気紛れに満月を出したので、急に辺りは明るくなった。涙の溢れる彼女の瞳は、月光を受けてきらきらと揺れた。その濡れた宝石のような瞳が、まっすぐにジョーを捉えた。
 まるで、今、初めて気付いたかのようにアルテミスは呟いた。
「……ジョー…?」
ジョーはほっとした。彼女が正気に戻ったのだ。オレの顔を見て、オレの名前を言った。
「ジョー…!」
みるみる彼女は泣き顔になる。今度の泣き顔は、闇に向かってメチャクチャに叫んでいるものではない。大丈夫、オレに向かってのものだ。
「どうしたよ?」
なるべく穏やかに。細心の注意を払いながらジョーは訊ねた。ぼろぼろと涙が流れ落ちる彼女の頬を拭う。
「私は誰? 私、アルテミスじゃない、アルテミスになれないの。皆だって私の事、アルテミスだなんて思ってない、ジョーだって、、、」
そうでしょう? と言おうとしたが、悲しみの波が来て言葉にできない。俯いて肩を震わせながら、押さえようとする口元から泣き声が漏れる。
「アルテミスじゃなくていいじゃねーか!」
ジョーの一言に彼女は驚いて、一瞬呼吸を止めてジョーを見上げた。ジョーは面白くなさそうに口をへの字に結んで、アルテミスを見下ろしている。
「…だって…、だって、アルテミスじゃない私は、ここにいる資格ないって、ここから消えろって―――」
カーラの強烈な一撃を思い出し、アルテミスの目からはまた涙が溢れ落ちる。
 
 ジョーの頭の中に、鮮明に図式が出現した。
カーラだ。そうか、カーラはアレンが好きだったんだ。思い返せば今年のカーラの様子はいつもと違っていた。アレンが女を連れて来てしまったからだったのか。その女に暴言を吐いたなら、それは八つ当たりだ。
 
 勝手口から飛び出して行ったカーラと、後を静かに追ったロイ。その光景を頭の中でなぞっていると、波に足を押されたアルテミスが耐え切れずに腰を落した。波間にぺたんと座り込んでえぐえぐと泣いている。月明かりで彼女の髪が銀色に光っている。柔らかくて丸い銀色の玉のようだ。
――こいつのせいじゃないのに。
ジョーは、そっと銀色の玉に手を乗せると、
「過去なんてどうでもいいのにな」
と、彼女に聞かせるわけでもなく、ぽつりと言い、彼女の正面に膝をついてしゃがみ込んだ。
「なぁ、過去よりも、今とか、これからなんじゃねぇの、意味があるのは」
頭に置いたままの手をぐりぐりと動かして、彼女の顔を上げた。涙と海水でぐしゃぐしゃの顔で、彼女はジョーを見つめた。
「おまえはさ、このオレ様に頭突きするは、砂に埋めるは、憎まれ口ばっかたたくはで―――、……ちょっと並べてみただけでもとんでもねぇ女だな。とにかく、海賊なんかじゃない、ただのとんでもねぇ女。それが、今ここにいるおまえってわけだ」
アルテミスは黙ったままじっとジョーを見た。ジョーは、いろんなモノでぐちゃぐちゃになっている彼女の頬を拭いながら、一番理解して欲しいと願って来た言葉を投げた。
「そんなおまえのまんまで、おまえが居たいところに居ればいいんだよ。“居るべき”なんかじゃなくて」
アルテミスの呼吸は、急速に落ち着いて行った。時折まだしゃくり上げてしまうが、涙は細々と流れるに変わった。その涙も、溢れる側からジョーが拭う。
 
 しばらく、波の音だけに包まれていたが、やがてゆっくりと立ち上がったジョーは、アルテミスを引っ張り立たせ、手を引いたまま波の中をざぶりざぶりと歩き出した。
 波に足を取られて、アルテミスはよろよろと歩みが重かった。ぐらりと傾くたびに、ジョーの手もぐいと引かれる。ジョーは、無言で彼女を抱え上げた。昼間、脇に抱えたのとは違う、ぶすっとした表情ながら、両手で抱き上げた。
「あー、重てっ」
「あの、降りるからっ」
「嘘だよっバーカ、おとなしくしてろっ!」
降りようと動いた彼女を今一度しっかり抱えて、遠浅の波打ち際を確かな足取りで歩き切り浜へ上がった。

 ハウスから離れた椰子の下まで来ると、ジョーはアルテミスを下ろした。
「まったく、おまえと服のままで海に入るの二回目だぜ」
「……うん、……ごめんなさい……」
「素直に謝ってんじゃねーよ、キモイだろ」
「ごめんなさい…」
ジョーはアルテミスの隣に腰を下ろすと、両足をぽんと投げ出した。砂の中へ踵を潜らせると温かかった。昼間の熱が篭っているのだろう。夜の海で濡れたのに浜辺で寒く感じない。闇は熱気を帯びている。今宵は熱帯夜らしい。
「ジョー……ありがと……」
「………あ?」
何が。と言う代わりに海を見つめたまま言う。もちろん意味は百も承知だ。
「海から引き戻してくれて…」
涙こそ止まったがすっかり泣きはらした目で、彼女も海を見ながら言った。
「オレの大事なプライベートビーチで、溺死事件なんて勘弁だからよ」
「大丈夫、生きてる。ちゃんと足あるし」
へへ、とようやく彼女は笑った。
 短くて小さな笑い声だったが、ジョーは振り向いた。目が合う。また彼女は笑った。泣き笑いのような、照れ笑いのような。生きている証の足をさする。
「おまえ、何、流血してんだよ」
貝殻で切ったのだろう、脛から足首まで流れている細い一筋を、気紛れに顔を出した月光が照らした。
「え? あ、ほんとだ…」
鼻を啜りながら確かめる。
 ジョーは、額に巻いていた帯をするりと解くと、彼女の脛に当てた。
「あ、汚れちゃうよ…」
慌てて彼女は申し訳なさそうに言うが、ジョーは無言で血を拭う。
……なんだかすごく優しい……。
アルテミスはそう思いながら、俯いているジョーの顔を見た。月光に照らされ、長い睫毛が影になっている目は、なんて綺麗なんだろう。その美しさにドキドキする。ドキドキし始めたことに慌てて、視線を上に移動させた彼女は、露になったジョーの額を見て思わず口走った。
「ジョーったら…、私とお揃いね…?」
「よりにもよってな」
ジョーはそのままの姿勢で返事だけした。
 ジョーの額には、自分と同じように傷痕が走っていた。アルテミスは無意識のうちに手を伸ばして、傷痕にそっと触れた。ジョーは構わぬ風で、帯を彼女の足に巻き始めた。
「どうして……隠してるの…?」
「見たくないから。………おまえはどうして見ていられる?」
「私は、これ、どうして付いたか知らないもの…」
「……だよな」
切り口に当たらない場所で帯を結び終えると、ジョーは顔を上げて言った。
「誰にも言うなよ」
アルテミスは胸がきゅっとなった。本当は知られたくなかったんだ。見られたくなかったんだ。私と違って。罪悪感に包まれそうになった時、不敵な笑みを浮かべてジョーが補足した。
「オレ様の額は神秘のベールに包まれてるんだからな」
一瞬ぽかんとしてしまったが、すぐにアルテミスもつられて返す。
「分かった、第三の目があるって正式発表しとく」
「それじゃ化け物だろ! 神秘なんだ、オレは!」
「じゃあ、第二の口が―――」
「てめえ、もしバラしたら、第二の口でお前を喰っちまうからな!」
「へ〜、食べれるもんなら食べてみたら?」
なんだか違う意味にも取れると、言ってから気付いて、アルテミスはジョーから視線を外した。
「……、いや、まずそうだし、絶対腹壊すからやめとく」
ジョーにしては歯切れの悪い切り返しになった。
お互い黙って海を見る。
「カーラの言った事は気にすんな。ただの八つ当たりってヤツだ」
なんでカーラだと分かったんだろう…と、アルテミスは不思議に思いながら、ジョーを見た。
「本人も多分、分かっちゃいるんだろうけどな。出てったし。さすがにすぐには帰って来ないだろ。ロイが一緒だから心配要らねーし」
「…そうなんだ…」
「まったくなぁ、ロイもどこまで時代遅れ何だか…。カーラがアレンを好きなのには気付かなかったけど、ロイがカーラを好きなのは、なんとなく分かるじゃん?」
「え、そうなの…?」
「――、まぁ、おまえはまだ日が浅いからな。何年も側であれこれ世話焼いて、他の男に夢中になってるのまで見守ってるなんて、まったくどこまで律儀なんだかな。ロイもさっきのおまえと同じだ。過去に縛られてる。カーラはもうお姫様じゃない。ロイもカーラも、ただの男と女だっつーの」
「………」
ただの――。アルテミスの頭の中でさっき波間で聞いたジョーの言葉が蘇る。
“海賊なんかじゃない、ただのとんでもねえ女”
その言葉は改めて、静かにゆっくりと、そしてじんわりと彼女の心に染み渡った。
(ただの女でいいんだ………。海賊アルテミスに近づかなくていいんだ……)
そよそよと吹いて来る海風に向かって顔を上げた。気持ち良い。気分も良い。膝を抱えて座りながら、全身から緊張が解けて行くのを感じた。いつからこんなに私は緊張していたのだろう…。軽く驚く。
(でも、もういいんだ)
いまだに泣きはらした顔だったが、嬉しくて笑みが浮かんだ。ジョーのおかげだ。良い人だ。問題もあるけど、と思いながら、ジョーを見る。すると、海を見ながらジョーが言った。
「先に入れ。外階段から上がって、シャワーに直行しろ。あ、深く切ってそうだったら、ミネルバに診てもらえよ」
「……うん」
彼女は立ち上がった。明日はいよいよグラン島へ移動する。今夜は早仕舞いしたいのかもしれない…と思った。
けれど「じゃ」とは去れず、ジョーの横に立ったまま掛ける言葉を捜した。するとジョーが言った。
「バラすなよ」
額の傷痕のことだ。
「分かってるわよ。一応借りもできたしね。こんなスケベバカが命の恩人だなんてね」
軽くなった気分のまま、憎まれ口をつい叩く。
「おまえの命もスケベでバカってことだな」
「最悪。清らかなまま死んだ方が良かったかも」
「そうかよ、ならお望みどおり投げ込んでやるよ」
ジョーは立ち上がると、アルテミスをがっと抱え込んだ。もちろん先ほどのような『両腕で抱き上げる』なんて紳士的なやり方ではない。
「きゃー、ばかばか!」
アルテミスは、昨日みたいにブン投げられないように、ジョーの背中にしっかりと腕を回してしがみ付いた。彼女の肩を掴んだりして、引き剥がそうとしていたジョーだが、「やだ、やだ」と叫びながら、ますますぎゅうぎゅうとしがみ付かれて、力が出なくなってしまった。
「おまえ、なんてバカ力なんだよ」
「え…」
彼女の腕が緩んで、ジョーを見上げた。ものすごい至近距離だ。慌ててジョーは視線を外して、彼女の腕から逃げた。
「本気にしてんじゃねーよ、バーカ」
「だって、昨日の朝は本当に放り込んだじゃない」
「あれは、おまえ、自業自得だろーが」
なんで自分が焦っているのかが理解できずに、ジョーは苛ついた。
「ほら、行けって」
アルテミスは黙ってジョーを見た。満月の光の中で、一瞬見つめ合う。お互いの目をじっと見る。月光に照らされ不思議な光を放つ相手の瞳。
 ジョーは何故か自分だけが居心地が悪いようで落ち着かない。彼女は至って冷静に見える。ますます居心地が悪くなる。
「行けよ」
そう言い放して、ジョーはそっぽを向いた。しばらくもじもじしていたアルテミスだったが、
「うん、じゃぁ、先に行くね。ジョー…」
「なに」
振り向かずに答える。ちょっと待ってジョーが振り向かないと悟った彼女は、
「ほんとにありがとね…。おやすみなさい……」
と言って、背を向け歩き出した。砂に埋もれてしまう足音を耳だけでは追い切れなくて、そっとジョーは顔を上げた。彼女の小さな背中が見えた。
 ふと、彼女が振り向く。目が合う。内心ぎくりと動揺しつつも表情は変えずに、手をしっしっと動かして、行けと促す。彼女は素直にこくこくと頷いて、さくりさくりと歩いて行った。そしてまた振り向く。ジョーはしっしっと促す。彼女は頷いて歩き出す。こんな事を、満月の下、何度も繰り返して、とうとう彼女は部屋の中へと消えて行った。
 点いたばかりの部屋の明かりがすぐに消えて、彼女が無事にシャワーへ行ったのだろうと考えたジョーは、深い溜息と共に座り込んだ。前髪に手を突っ込む。するりと髪に手が入って、帯をしていない事を思い出した。それと一緒に、たった今までここに居た彼女とのあれこれをなぞる。
(あいつは覚えちゃいねんだな。正気を取り戻したきっかけなんて)
ぎゃーぎゃー騒ぐ女の口をキスで塞ぐなんて事は、ジョーにとって日常茶飯事だった。実際、リラにも簡単に実行した。もちろん確信犯なので楽しむ余裕もあった。
 だがさっきは……。楽しむとか余裕とか、そんな次元じゃなかった。オレもかなり必死だったらしい。必死…?
ああ、違う違う、訳の分からない月語がめちゃくちゃ煩かったんだ、そうだ。オレは月語が嫌いなんだよ。
 自分の気持ちに一段落付けて、ジョーは満月を仰いだ。どうして月語が嫌いなのかまでは、疑問にさえも思わずに。

第15話  熱帯夜  END web拍手 by FC2ぺた
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