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第37話  リ リ
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 起床を知らせるアラームの音で目覚めたジョーは、気持ちの良い存在が居たはずの場所が空っぽなので、一瞬にして意識がはっきりとした。
 リリとすっかりいい感じで抱き合っていたのは…それは夢だ。現実ではない。なので、腕の中に居なくても当然だが、もぬけの殻とはどういう事だ? シーツを撫でてみても彼女のぬくもりは感じられない。ベッドを出てずいぶん時間が経っているということだ。
 
 ふと指先に何かが触れた。小さなリリの花のネックレスだ。華奢な鎖が途中でぷつりと切れていた。

 ジョーの胸にむくむくと疑惑が広がった。がばっと起き上がり、自分が裸でない事を確かめた。最悪の予想は消え、ひとまず安堵の息が漏れる。

確かにリリと愛し合う夢をみた。隣に並びながら抑え込んだ想いを、夢の中でまで制御することは出来なかった。愛おしいリリは従順で可愛かった。彼女を好きなだけ抱きしめて口づけて、何も気にすることなく愛の言葉を囁いた。本当に夢見心地だった。……無論夢だったのだが、感触は生々しくはっきりと覚えている。彼女の唇の柔らかさや小ささ、彼女の肌の温度や滑らかさ。
 
なぞっていて更なる疑惑が弾けた。
夢遊病者のようにそれらを実行したのではないか? このネックレスはその時に切れてしまったのでは…!?

 不安はあっという間に膨れ上がった。
彼女はどこにいるのか、こんなケダモノとは一緒にいられないとソファで寝ているのだろうか、泣いていたらどうしよう…!



 ジョーはリビングへ駆け込んだ。薄暗いリビングに人の気配はなかった。ソファも空だ。大きく渦巻く疑惑に胸騒ぎがざわざわと這い上る。
 ローテーブルの上にぼんやりと白い影を見つけた。手を伸ばすと紙だった。ジョーは窓辺へ行きブラインドを開け、冬の朝陽を当てて紙を読んだ。
『おはようございます。用があったので帰ります。祝勝会、楽しみにしてるね』
リリの書き置きを読んだジョーの疑惑は確信へと変わった。用があるのなら昨夜そう言うはずだ。ここに居られなくなったから出て行ったのだ。

ジョーはソファに倒れ込んだ。
傷付いて逃げて来た(であろう)彼女を、更に自分は傷付けたのだ。寝ぼけていたなど言い訳にもならない。
 あの夢の、どこまでを彼女にしてしまったんだろうと考えると居ても立ってもいられない。
その時リリはどう抵抗したのだろう。
……でも、オレがちょっとも起きなかったって事は、ぶったり叩いたりの抵抗はしなかったんじゃないか?もしかしたら受け入れてくれたのかも………
いや、だったら帰ったりしないだろ! 呆然となす術も無く耐えていたに違いない!

とにかく彼女を傷つけた事は確かなのだ。彼女にとっては最低で、自分的には最悪だ。もしかしたら、取り返しのつかない事になってしまったかもしれない……。考えていると気持ち悪くなった。

 しかしジョーは彼女に謝るべく電話を取った。





 大通りで簡単にタクシーを拾えたリリは、寮へ戻った。真夜中の寮周辺には、トニエントはおろか誰の人影もなかった。
 冷え切った部屋で、今まで我慢していた思いを解き放つと、ぼろぼろと泣いた。
ジョーには夢で抱くほどの女性がいた。マーディと呼びながらキスをして抱きしめて来た。マーディという名のその女性が、あの運命の女性なのかどうかは分らない。でも、私ではない人をジョーは想っているということがはっきりしてしまった。

 失恋確定。苦しい。ジョーの特別になれなかった。ジョーに私だけのヒトになってもらえなかった。
私はチームの仲間なだけで、ただの家政婦止まりだった。
首元にあったはずのネックレスもいつの間にかなくなっている。それがジョーとの関係を表しているかのように思えて一層悲しかった。涙はあとからあとから溢れて、枕を濡らして行った。


 結局泣きながらうとうとして朝を迎えてしまい、腫れ上がった瞼を一生懸命冷やしていると電話が鳴った。モニタにはジョーの名前。突然帰った事を、良くも悪くも気にしているのだろう事は分る。リリは覚悟した。携帯電話なので声だけ装えば乗り切れる。
「おはよう!」



 スピーカーから流れたリリの声は明るかったが、ジョーは空元気だと聞き破った。
「ああ、はよ…。あのさ、おまえ、なにで帰ったの? タクシー?」
「うん、ごめんね急に。ぐっすり眠ってたから起こさなかったの」
「危ないじゃんか、夜中に女一人で歩いちゃよ」
と言ってから、いや、オレといる方がよっぽど危ないって思ってるかも…と自嘲するジョーに勢いはまるでない。
「大丈夫、タクシーすぐ捕まったから」
「そか」
「うん」
短い間の後、意を決したジョーが
「あのさ、……オレ、」
と言いかけた時、
「ジョー、ごめんなさい、バタバタしてるから、会った時でいい?」
「ああ、じゃ、後で」
「うん、後でね」
「おう」
電話は切れた。


(オレが何を話し出すか分ってたんだ……)
彼女は痛々しいほど空元気だった。
(あいつにそんな事させて…)
自分に腹が立って仕方がない。クッションを一つ蹴飛ばして大きく深呼吸すると、言い聞かせるように呟いた。
「とにかく、今日会って、しっかり謝って、そしたらはっきり告って、……なんかすでに玉砕っぽくね…?」
勢いは尻窄りになって、その後も哀れなジョーは奮起をみなぎらせては、しょぼしょぼと凹み…の繰り返しだった。





 寮を出て病院へ向かう道中、リリは背筋を伸ばしてカツカツと歩いた。万が一トニエントが声を掛けて来ても動じないように気を張って、なるべく人波の中を歩いた。
 幸いにもトニエントの姿を一度も見ずに診療室まで行くことが出来た。
 ほっとしてドアの鍵を開けていると、おはようと言いながら看護師が出勤して来た。
ミネルバから電話があって、今日はもちろん、明日も無理そうだから、明日は二人とも休みにしてくれという事だった。
「先生、擦れた声で、二人ともごめんなさいって言ってたわ」
「熱が下がらないなんて、心配ですね」
「疲れが出たんじゃないかしらね、出張からずっと働き詰めだったから。医者の不摂生ってやつね」
看護師は肩をすくめた。それから二人は急いで今日の予約患者へ連絡をし、その後に明日の予約患者にも連絡をして、全員の予約の変更が完了した時はお昼近かった。
 

 一息ついていると、トニエントの部屋の看護師が顔を出して、トニエントは公休を取っているので、自分たちも今日は早仕舞いだと嬉しそうに話して行った。リリは昨日の一件から今日の公休が繋がっているような気がして、ますます気分が悪くなった。ミネルバが回復したら今回の事はきちんと話しておこうと決意していると声を掛けられた。
「ミネルバ・エオバルト先生の診療室ですか」
振り向くと、頬のげっそりと削げた、くすんだ顔色の女性が立っていた。
「はい、そうです。でも申し訳ありません、本日は診療お休みさせて頂いてるんです」
「診療なんかいいの、ミネルバ・エオバルト先生はどこ?あなたがそう?」
「いいえ、違います…、エオバルト先生は今日はおりません」
生気のない瞳と不釣り合いな力で彼女はリリの腕をがっしと掴んで訊ねた。
「ねえ、ミネルバ・エオバルト先生はジョー・ハザウェイと知り合いって本当? ねえ、本当?」
腕を掴まれた上にジョーの名前が出てリリは驚いた。混乱して何も言えないリリを、彼女はゆさゆさと揺すりながら訴え続ける。
「お願い、教えて、彼がどこにいるのか教えて! ミネルバ・エオバルトって医者のところに彼が現れるって聞いたのよ! ねえ、アンタも知ってるんでしょ? ここで見た事あるんでしょ? ねえ、彼はいつ来たの? 今度はいつ来るの?」
騒ぎに気付いた看護師が奥から出て来た。
「こちらに掛るのは初めてですね。まず、お名前を伺いますから、さ、こちらへどうぞ」
看護師は彼女を刺激しないように柔らかく室内へと促した。
「私、私はイネス、イネス・ノリエガ、私はジョーのアネモネよ」
室内に入る彼女の後姿を見ていたリリは硬直した。『ジョーのアネモネ』と確かに聞こえた。アネモネは花の名だとリリも知っている。
「ねえ、知ってるでしょ? あのジョーよ、海賊ジョー、知らないなんて言わせない、あんなに素敵なジョーを知らない女がいるわけないもの、みんな、みんな、ジョーを狙ってるのよ、ジョーは私の、私だけのものなのに」
いよいよ興奮が高まった彼女は、もはや共通語を使う余裕がなくなったらしく、どこかの言葉でまくしたて始めた。リリはもちろん看護師もさっぱり理解できない。看護師は隣室のドクターを呼んで来るようリリに指示した。

 リリは、胸を何度も叩いて落ち着くようにと自分を諭しながら、隣の受付嬢へ理由を話した。幸い、午前の診療は終わっている時刻だったので、すぐに隣室のドクターは出て来てくれた。トニエントと違って地味で骨太な体格のドクターは、すっかり興奮して凶暴になっていた女性を傷つけないようにしっかり抱え込むと、精神安定剤を打つよう看護師に指示した。程なくして彼女はおとなしくなり、ぐったりと診療室のソファに沈み込んだ。
 その彼女の前に屈んで様子を診ているドクターに、看護師がそっとブレスレット型携帯電話を手渡した。ドクターは彼女の首元のネックレスにさり気なく触れて、手の中に包んでいた携帯電話をネックレスの小さなプレートに接触させると看護師に返した。看護師は足早に部屋を出て行った。
 その後彼女はドクターが何を訊いても一言も喋らず、ゆっくりと瞬きをして弱々しく呼吸をしているだけだった。

 ジョーの知り合いなんだろうか……。

でも、本当に知り合いなら、パーズンの事も知っているはずじゃないのか。ここでジョーの所在を訊ねなくてもパーズンへ行けばジョーには会える。

リリが一人でぐるぐると考えていると、看護師が戻って来て、
「GPSですぐそばまで来ていたそうで、もう間もなく…」
と、ドクターの耳元でそっと報告した。そしてリリに指示した。
「リリ、もうじきお客様が見えるから、廊下でお迎えして」
「お客様、ですか…?」
看護師はリリの傍へ寄ると
「彼女を迎えに施設のスタッフが来るの。宜しくね」
と囁いた。施設…。リリはすぐに納得した。女性は何がしかの施設で暮らしており、そこから無断で外出したに違いない。そこの職員が行方不明になった女性を探していたのだろう。
「分りました」
廊下へ向かいかけた時、女性が口を開いた。
「リリ。あなたの名前なの……?」
また共通語に戻っている。
「あなた、ヘッシュの人…?」
ヘッシュはジョーの故郷だ。この人はヘッシュ出身者なのだろうか…なら、先ほどのどこかの言葉はヘッシュ語だったのかも…。そう考えながらリリが「違う」と答えると、
「なんだ…」
と、女性はつまらなさそうに顔を背けた。そして、うっとりと空(くう)を見つめて歌うように喋り出した。しかしヘッシュ語なので意味は解らない。ところどころ聞きとれる言葉は「アネモネ」と「ジョー」と、そして「ラス・ポウナ」だった。
 誰の事をバカと言っているのか。一向に手の届かないつれないジョーか、理解してくれない周りの人々か。精神を病む程ジョーに心奪われている見知らぬ女。
 リリは複雑な気持ちに襲われながら廊下へ向かった。

 すぐに迎えは到着した。男性二人と女性一人のスタッフは「施設からいなくなってしまう事がしばしばあるので、GPS機能を埋め込んだネックレスを付けさせている」と言った。彼女はおとなしくスタッフに従い、去って行った。

 四人の影が見えなくなると、
「先週、俺のところに『私はムハッドの妻だが、どうして最近夫は帰って来ないのか』っておばあさんが相談に来たよ」
ドクターが笑いながら言った。ムハッドとは人気絶頂の若手の俳優である。
「彼女は重度の海賊ジョー信者ね」
看護師が溜息を付いた。
「そうだな、海賊ジョーに限りだったな。ライダーのジョーじゃないんだな」
「ライダーのジョーでもいいなら、バイク屋さんに行けばねぇ、とりあえず見れますものね」
確かにそうだ。ジョーのファンなら周知の事だ。
「リリ、あなたも気を付けてね。うっかりジョーと知り合いだなんて知れたら、ストーカーされたり恐喝されたりなんて事になるかもしれないから。知りません、で通してね。先生にももちろん、気を付けて頂かないとだわ」
リリがチーム・ハザウェイと知り合いであると知っている看護師は、リリの身を案じてくれた。リリは素直に「はい」と応えた。


 昼食後、看護師と二人で少し念入りに掃除をしたが、それでも午後3時前には上りとなった。看護師は
「明日は朝寝坊できるわね」
とにこにこして更衣室を出て行った。
 一人残されたリリは、ロッカーの私服に手を伸ばし、ため息を付いた。昨日の朝これを脱いだ時は、夜の祝勝会に思いを馳せてこの上なく幸せだった。なのに、こんな気持ちで着る事になるなんて…。
 リリはブレスレットを撫でて気持ちを整えると、ジョーへ電話を掛けた。





 「え、もう?」
ただでさえ突然のリリからの電話だったのに、更にはもう自由になったと言われ、ジョーは動揺して立ち上がった拍子に足元の工具類を蹴飛ばしてしまった。金属音が響く。焦って背後を確認した。誰もいない。
「あ、そうか、うん、分った、いや、オレももうじきに上がるから」
ドアぎりぎりに身を潜め聞き耳を立てていたメッカとニックは目を丸くした。まだ3時っすよ!?とニックはメッカにぱくぱく言ったが、メッカはニヤニヤしながらしいっと返した。
「図書館? ああ、教会のか、分った、じゃ、1時間で行く。や、無理なんかじゃねーよ。おう。じゃな」
ジョーは電話を切ると深呼吸をした。あと40分あればとりあえず仕事にキリがつく。病院そばの教会へは余裕を持って20分だ。そう計算しながら、ジョーはリリの電話が嬉しかった。実は午前中にミネルバから連絡が入って「まだ体調が戻っていないので今日は早仕舞い、明日は休みにした」と聞いていたのだ。ミネルバに「昨夜の電話の用件は何?」と訊ねられたが、熱が下がらず弱々しい声だったので、リリの一件を話すことは流石に躊躇われ「回復したらな」と誤魔化したジョーだった。
 仕事が早く終わったリリが、そのまま電話をくれた事が、会う時間を早めてくれた事が嬉しかった。

 「よし!」
くるりと向きを変えこちらに向かってくるジョーに気付いて、休憩室内のメッカとニックは大慌てでドアから離れた。バンッとドアを開けて入って来たジョーは言った。
「なぁ、悪ぃんだけど、オレ今日早上がりさせてもらっていいかな」
間一髪、新聞を掴んで立ち読みしている風を装ったメッカが
「おー」
と新聞の向こうから一言返した。
「今やってるヤツは切りつけてくからさ」
「そうか? いや、いいぜ、後はやっとくぜ?」
新聞から顔を出して言うメッカに続いて、ニックも、
「そ、そうだよ、俺、手空くし。気にしないで行きなよ」
とっくに空になっているコーヒー缶をあおりながら言った。
二人の声色がいつもと違うのが引っ掛かったが、のんびりしているわけにはいかないので、
「でも、もうちょっとだから、やってくよ。サンキューな」
と言い、ジョーはピットへ戻った。
 そうしてばりばりと仕事をし、予定通りに切りをつけた。


 バイクに跨りヘルメットのバンドを締めたジョーにメッカが突然言った。
「ジョー、素直が一番だぜ、正直にな」
「え……」
きょとんとしているジョーの背をばんと叩いてメッカはうんうんと頷いている。ニックもジョーの腕をぽんぽんと叩いた。ケンは口を真一文字にして親指をぐっと立てた。
 盛大に応援されている……。
いつの間にか何もかも知られているのか!? と愕然としたが、しかし冷やかしたり相手を詮索したりといった興味本位ではなく、ただうまく行くようにと思ってくれている気持ちが伝わって来て、ジョーは嬉しいやら恥ずかしいやら、照れ笑いを浮かべた。そして、
「いって来る」
とだけ言うと、漆黒のボディを光らせてパーズンを出て行った。
「しっかり言って来いよ…!」
メッカは祈った。





 病院の近くにある、ジョーに連れられて行ったあの教会には、図書館が併設されていた。デジタルデータの他に、現物の古い書物もたくさん所蔵している公立図書館である。
 ロープーウェイで海の上を渡り教会の裏へ上ったリリは、冷たい潮風に首を竦めながら足早に教会へ入った。石の壁に囲まれた廊下の空気はほわっとぬるく、リリはほっとして強張っていた両肩を下ろした。階段を三階まで上がり図書館へ向かう。平日夕方の図書館は利用者もまばらだった。もう少し経つと学校帰りの学生達がやって来るのだろう。
 リリは一つのブースに座ると、パネルを触ってリリの花を検索した。すぐに可愛らしい画像が現れた。画像の下に開花時期や育て方などの詳細が書かれている。こうしてきちんとリリを調べるのは初めてだ…と思いながら、リリは読んで行った。
 原産はヴィーナスエリアのコロニー『ヘッシュ』。花言葉は『ありのままのあなたを愛する』。
「え…?」
リリは驚いた。『幸せでいられるように』ではないのである。
(ジョーがそう言ってくれていただけで、花言葉じゃなかったのね……)
それにしても、リリの花言葉はとんでもなく甘美だ。本当にこの言葉をジョーが贈ってくれたのなら…と思わずにはいられない。

 だがそれは儚い夢だ。あの時のジョーは、花の名前すら忘れていたのだ。大きな花束の中から、適当に抜いて(或いは他の覚えている花は花言葉が適切ではなかったので)私にくれた花なのだ。

 モニター上の「ヘッシュ」という文字を指でなぞっていたら新しいページが開いた。『コロニー/ヘッシュ』のページだ。たくさんの項目の中に『花文化』というタイトルを見つけたリリは開いてみた。 リリはそこで初めて「ヘッシュの人々は求愛の際に花と花言葉を贈り、受け入れられると、その花の名で相手を呼ぶ」という風習を知った。
(だからだったんだ……)
リリは愕然としながらも、ジョーがかたくなに自分を「リリ」と呼ばないのは、このルールがあったからだと納得した。
 いくら求愛したわけではなくても、贈った花の名前で呼ぶのは嫌だったのだろう。
「言ってくれれば良かったのに……」
思わずぽつりと呟いた。呟きと一緒に涙が零れた。
 ジョーがそんな風に思っているとも知らずに、ジョーに貰った花の名をつけて浮かれていた。きっとジョーは迷惑だったに違いない。
 ジョーに申し訳ないと心底リリは思った。そして同じくらい悲しかった。本当にリリという名前を気に入っていたのだ。あの花も大好きだった。

 でも、もうリリと名乗るのは止めるべきだ。これ以上ジョーに不快に思われたくない。ジョーが来たら謝ろう。

 これからジョーに話す事はどれも重大で辛い事ばかりなのに、一つ増えてしまった。

 恐らくジョーの方は、早朝の電話からして昨夜の件について話して来るのだろう。
「マーディ」と呼ばれながら愛されかけた昨夜を思い出すと苦しい。

 涙を止められなくなってしまったリリはバッグとコートを抱えて廊下へ出た。窓に手をついて深呼吸をした。窓ガラスの冷たさが掌に広がる。落ち着こうと何度も深呼吸をした。これから話そうとしている事が、頭の中でぐるぐると渦巻いた。
 うまく話せるだろうか。最後まで泣かずにいられるだろうか。ジョーの負担にならないように乗り切れるだろうか。
 とてもじゃないけれど無理…と弱気になった瞬間、窓の外をバサバサバサッ…!という騒音と共に鳩の群れが横切った。リリの心臓は痛いくらいに跳ね上がった。群れは灰色の空に大きく円を描いて再び戻って来ると、教会の広場へ降りた。鳩を追っていたリリの瞳に、バイクに跨ってこちらを見上げているジョーが映った。
 いつの間に……!
リリは全身がかっと熱くなった。鼓膜の奥で自分の脈拍が響いている。



 広場の石畳に群れていた鳩を追い立ててしまうように、ジョーのバイクは教会前に到着した。バイクのエンジンを切ってスタンドを立てメットを脱いだジョーは、たまたま見上げた先の窓の中にリリを見つけて驚いた。こちらに気付かない彼女は、空を見上げていた。広場へ戻って来た鳩と一緒に、彼女の視線も降りて来た。

 視線が交差した。 

 こちらを見下ろしている彼女の表情は、はっきりとは見て取れないが笑顔ではないことは分った。これから人生初の告白をすると言うのに、状況は極めて険しい。萎えそうな気持ちを奮い立たせながら、緊張で強張った表情のままジョーはリリを見つめた。

 耐え切れなくなったのはリリの方だった。

―――ほんのちょっぴりだったけれど特別だったジョーを、これから永久に失うのだ。
イヤだと思った瞬間、リリは駆け出していた。


 まるで逃げるように窓の奥へリリが消えたので、ジョーは教会の中へ駆け込んだ。階段を大股に駆け上がる。微かだが、走る足音を聞き取った。リリだと直感したジョーは迷わず足音を追った。途中すれ違った数人に、全力疾走を驚かれたりしかめっ面をされたりしたが気にしていられない。小さな愛しい足音は、やがて儚く消失してしまったが、その時には彼女の向かった先をジョーは確信していた。



 小さな礼拝堂へ辿り着いたジョーは、大きく深呼吸をして呼吸を整えながら、ゆっくりと室内へ歩を進めた。人影はない。だが、いる。絶対にここにいる。ジョーは天井を振り仰いだ。こちらを見下ろしている自分が映っている。そして、中央奥にある講壇の裏にしゃがんでいる彼女も映っていた。ステンドグラスから差し込む七色の光が金糸の頭を彩っている。
「罰当たりなトコに隠れてんなぁ…。天井、鏡なんだぜ…?」
天井の中でリリがこちらを見下ろした。鏡を通してお互いを見た。居た堪れないのだろう、講壇の陰でリリはまた顔を伏せてしまった。
「オレ…、おまえに言わなきゃなんない事があるんだよ…だから逃げないでくれよ…」
そう言いながら講壇まで歩いたジョーは、机越しにあのネックレスを下げた。

いよいよ引導を渡されるのかと絶望したリリだったが、何かが頭に触れている事に気付き顔を上げた。
「オレさ、これが切れちまうようなコト……おまえにしたんだよな…?」
無くしてしまったと思っていた大事なネックレスだった。ジョーの部屋に落としていたのか…と、切なさが募る。

「言い訳は…しない…、反省してる。悪かった。本当にごめん。でも、もう二度とあんな、あんなのは、しないから」
リリの気持ちを無視した行為は絶対にしない…と言っているつもりのジョーであるが、「あんなうっかりミスはもう無いから」とリリは受け取ってしまう。戻って来たネックレスをそっと胸に押し当てて、
「うん、分ってる。私はいいから、…か…彼女のために、あんな間違いしちゃダメだよ」
「……え?」
「…彼女の夢見てて、寝ぼけちゃったんでしょ」
ジョーは言葉に詰まった。やっぱり寝ぼけてあれやこれやしたのだ…!自分の仕出かした事に再び打ちひしがれながら、しかしリリの言葉に引っ掛かった。
「彼女?」
「マーディさん、、、昨夜も名前いっぱい呼んでたじゃない、マーディって…」
唇をかんだのに涙が一気に溢れてしまったリリは、慌てて口元を押さえた。

 ようやくジョーは、リリがとんでもない勘違いをしている事に気付いた。あの醜態を許してもらえない上に、そんな誤解をされたままなのは耐えられない。
「ちょっと待てよ、おまえ勘違いしてる、マーディってのはさ、」
そう言いながら講壇を回り込んだジョーは、リリが泣いていたので衝撃を受けた。こんなに傷付いているのかと罪悪感でいっぱいになったが謝り倒すしかない。
 がばっと立ち上がり逃げ出そうとするリリの腕を掴んで
「本当にごめん、嫌な思いさせて悪かった、全部オレのせいだ。でも彼女なんていないっ、マーディってのは名前じゃなくて“オレの”って意味だ」
顔を背けてじたばたしていたリリがおとなしくなった。
「マーディはヘッシュ語で、オレのって言葉で……、見てたのは、おまえの夢だ」
とうとうジョーは白状した。どうか彼女が迷惑だと思いませんようにと願いながら。
「…もう家政婦はおしまいって」
「オレの家政婦ってことじゃなくて…!」
どう言ったら伝わるんだ、と弱気になった瞬間、背中をばんっ!と叩かれた感触と共に、メッカの言葉が脳裏に浮かんだ。―――素直が一番。正直に。
「仕事だからじゃなくて、ただ……一緒にいてくれよ」

 リリは、まさかの展開に順応出来ず、ジョーを振り向けないでいた。一生懸命にジョーの言葉を整理しようとするのだが「マーディさんの代わりじゃなかったらしい…。それどころか、もしかして好きだと言われているのでは…」という希望が芽生えるそばから、今まで積み重ねて来た気持ちの置き方が「そんなわけない」と踏み潰してしまう。

 リリの手から銀糸がするりと抜け落ちた。カシッと小さく響いて床に落ちたネックレスは、ステンドグラスの零れ日を受けて光っている。屈もうとするリリの腕をジョーは放した。リリはしゃがんでネックレスを拾うと、そっと掌で包みながら言った。
「リリの…本当の花言葉、さっき知って……違ってて、びっくりした……。でも……いいなって、思った。すごく、いいなって…。ヘッシュの人の、花の使い方も知ったよ…。だからジョーは…リリって呼ばないんだって、やっと分っ――」
「呼びたいけど、呼べなかったんだ。おまえが受け入れてくれないと、贈り主のオレは…」
顔を上げないリリの正面にジョーもしゃがんだ。ネックレスを握りしめている彼女の手をそっと取ると、呼吸を整え、
「おまえを、この花の名で呼んでいいか…。オレは呼びたい」
声を絞り出したジョーは、弱々しい生き物のように、判決を待った。手が震えているのが分る。彼女の手にも伝わってしまっているだろうが止められない。ジョーは彼女の手にそっと唇を押し当てた。

 リリは、これは夢なんじゃないかと痺れかけている頭で考えた。ジョーに好きだと言われたようだ…あの素敵な花言葉を「贈ったから受け取れ」ってことだよね…。

―――『ありのままの あなたを 愛する』

ずっとジョーが言って来てくれた言葉、「そのまんまのおまえでいいんだ」。ジョーはずっとずっとそう言いながら傍にいてくれた。
 リリって呼ばれたい、ジョーにこそ呼ばれたかった花の名前。今、それが叶う。返事をしようと開いた口から、
「私、もし記憶が戻ったら、今度は今の事、全部忘れちゃうかもしれないんだって。こうして、リリだった事……ジョーと…過ごした日々の事とか……、ジョー…、ジョーも……」
言うつもりではなかった言葉が流れだし、リリは混乱した。
 でも…! やっぱり避けては通れないということなのだ。その残酷な現実は結局は無くなってはいないのだから。
 涙が溢れる。

「だから?」
静かにジョーが言った。
「…だから、私の事は……愛したりしないで…」
「おまえは? おまえも、誰も愛さないのか?」
もうとっくに愛してしまっているジョー本人に目の前で訊かれて心が千切れそうだ。
「私は、こっそり…片思いするから」
それだけしか言えずに涙を拭った。
「おまえ、今、片思いしてんの…?」
「………」
「誰に?」
「………」
「オレにって言ってくれよ……」
「………」
否定も肯定もせず、溢れる涙でぐちゃぐちゃになりながらひたすらジョーを見つめる事しか出来ないリリを、ジョーは抱き寄せた。
「オレにも一緒に背負わせろよ……不安とか、恐怖とか、悲しい事とか」

愛さないでと言いながら、立ち去らず目の前にいるリリ。それが彼女の答えだ。

「来るかどうか分らない“いつか”のために、おまえを諦めるなんてオレは嫌だ。できない。
もし……、もし、たった一日だけでもおまえをリリって呼べたら、オレはもう、一生幸せだから」
腕の中の彼女を強く抱きしめた。
「ジョー…!」
リリがぎゅっとしがみ付いた時、鐘楼の鐘がカー……ンと鳴りだした。
鐘の音に包まれながら、ジョーは彼女の耳元で、初めて名前を呼んだ。

第37話  リ リ   END
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