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第36話  止まらない想い
 月曜日。リリは朝から時計ばかり見ていた。壊れたのではないかと疑いたくなるほど数字の変化は遅かった。
 昨夜ジョーから「明日の食事会は祝勝会になったぞ」と連絡が入り、会えるだけでも嬉しいのに、更にめでたい席になったので楽しみで仕方ない。

 平静を務めているリリの横で、寒気がすると言っていたミネルバは、昼前には発熱してしまい、午後唯一の予約患者からキャンセルの電話が入ると、これ幸いと早退してしまった。
 主の不在で診察室は終うこととなり、看護師も午後少し居ただけで上がってしまった。一人残ったリリは誰に気兼ねすることなく時計を睨みながら、残務処理をして終業時刻を待っていた。

 時折、制服の上からリリの花型のネックレスの存在を確かめた。僅かな固さを感じるたびに胸が熱くなった。ジョーからの贈り物。最初で最後かもしれないけれど、特別な贈り物だ。ジョーが首にかけてくれた。思い出すとドキドキして頬が上気する。

「リーリさん」
不意に声を掛けられ顔を上げると、トニエントが入口に立っていた。
ジョーの事で頭も胸もいっぱいだったリリは、赤い頬のままアタフタと立ち上がって
「エオバルト先生は体調不良で早退してしまいました」
と対応した。
「うん、知ってるよ。僕はリリさんに用があって来たんだ」
トニエントは室内に歩を進めながら言った。
「この間さ、お騒がせしちゃった、記憶が戻ってご主人と揉めてるホリー・ベッチさんなんだけどね」
リリの胸に黒い影が流れ込む。
「……はい…」
「その奥さんと、新たにご主人の方もサポートしていかなくちゃならなくなってチームを組むことになった事、エオバルト先生から聞いてる…よね?」
「…いえ…」
何のことかさっぱりわからない。
「あれ、おかしいな。そのご主人担当チームが、メンタル・リハビリ科から二人、薬剤科から一人、生活指導科から一人、そして僕とリリさんの六人なんだよ。先週末に決まったから、てっきりもうリリさんにも話行ってると思ったんだけど、そうか、エオバルト先生、具合悪かったから話せなかったのかな」
「…あの、サポートチームに私ですか…? 私、受付ですが…」
「大事だよ、受付。すべての入口だよ」
真面目な顔をしてトニエントに言われ、窓口の受付を軽んじた自分を反省したリリは、
「すみません」
とすぐに謝った。トニエントはくしゃっと笑顔になって、
「でね、早速だけど、今日診療終わってから初回打ち合わせしたいんだ」 
「え、今日、ですか?」
「うん、19時から。他のメンバーはOKだって言ってるけど、リリさんは? 急だけど都合つくかな」
他のメンバーは全員OKと言われ、リリは断れない空気に追い込まれた。突然の残業である。仕事なのだ。
「…わかりました、大丈夫です……」
「良かった、じゃあ、第3会議室ね」
にっこり笑うとトニエントは出て行った。その後ろ姿を見ながら、リリはがっくりと項垂れるしかなかった。





「そっか、わかった」
パーズンの休憩室でジョーは言った。
「ごめんなさい…」
耳の中のイヤホンから聞こえる彼女の声が、沈んでいるのが唯一の慰みだ。ジョーは気を取り直して優しく言った。
「仕方ねーよ。仕事じゃん。でも…オレ、明日は残業確定だから……また仕切り直しだな」
「…はい…」
「あのさ、今日、会った時に言おうと思ってたんだけど…」



事務室の奥でブレスレットに口を寄せていたリリの鼓動がどきんと跳ね上がった。
「家政婦の仕事な、あれもう終わりでいいぜ。もう十分働いてもらったからさ」
「え……、」
跳ね上がった鼓動は不穏なリズムに変わり、ざわざわと胸が騒ぎ出した。言葉がすぐに出ない。しかしジョーは
「また連絡する。とにかく残業、会議だっけ? 頑張れ! じゃな」
と、そそくさと電話を切ってしまった。
無言になってしまったイヤホンを耳に入れたまま、リリは呆然と立ち尽くした。


 家政婦業が終わりという事は、もうジョーの家に行かないという事だ。
 毎週末に会う理由が…口実が無くなってしまった。

 自分とジョーの繋がりは、たったこれだけの小さな物だったのだとリリは思い知った。
ささやかな『特別』のつもりだったが、とうとうジョーの部屋に入る資格を失ってしまった。

(何て細い繋がりだったんだろう……)
一昨日のウクジャタウンでの時間が遥か遠い昔のような気がした。指先に感じる襟元のネックレスの存在すら過去の形見のようで、リリは唇を噛んで涙を堪えた。





 夜の7時少し前。リリは第3会議室のドアをノックした。
「どうぞ」
中からトニエントの声が応えた。失礼しますと言いながら、リリはドアを開けて中へ入った。部屋の中にはトニエントが立っているだけだ。トニエントはにこにこしながら歩み寄って来た。
「お疲れ様! あれ、まだ制服だったんだ。着替えておいでよ」
「…あの…、他の皆さんはまだなんですか…?」
違和感を感じながらリリは訊ねた。
「お腹空いてるよね、パスタ料理は好き?」
「え…、打ち合わせは…?」
パスタ料理屋へ移動して会議なの…? まさかそんな…。…いよいよおかしいと思い始めたリリに、トニエントは悪戯っ子のように笑って言った。
「ごめん、全部ウソ」
「…え……」
「リリさんとどうしても二人っきりで話したかったんだ」
リリは一瞬、貧血になりかけたが、怒りと恐怖がごちゃ混ぜになったおかげで脈拍が上がり、倒れずに済んだ。
「失礼します」
くるりと反転しドアへ向かうリリの腕をトニエントは掴んで懇願した。
「待って! 嘘ついたことは謝るよ! ね、リリさん、一緒に食事に行こうよ! 」
「いいえ」
「気兼ねする相手はいないんだよね?!」
フリーの女なら誰でも靡くと思っているのか! 思わずリリは返した。
「好きな人はいます!」
その人と食事に行くはずだったのに! 増々怒りが大きくなる。
「でもまだ彼氏じゃないなら、僕も同じスタートラインに立てるよね!」
リリは全精神力を注いで冷静に務めた。
「トニエント先生、私はまだ一ヶ月の新人で、しかも素人ですけど、先生は立派なお医者様だと尊敬しています」
「本当? うわぁ、ありがとう、嬉しいな!」
「でも、好きとかではないですから」
「これからなるかもしれないよ?」
笑顔で言い切るトニエントに嫌悪感が湧き上がり、とうとうリリは強く言い返した。
「彼以上になんて誰も好きになりません!!」
トニエントの腕を払いのけて猛然とドアへ向かうリリに、しつこく彼は叫んだ。
「リリさん!」
「もうこんな事、二度としないで!!」



 更衣室に駆け込んだリリは、コートとバッグを掴むと、着替えもせずに飛び出した。
トニエントが追い駆けて来そうで、少しでも遠く病院から離れたかった。
 病院から近い寮へこのまま帰るのも躊躇われて、リリは小走りに通りを急いだ。


(やっぱりミネルバさんに確認すれば良かった…)
高熱で寝込んでいるミネルバに電話するのをリリは躊躇ったのだった。 
それを見越しての作戦だったに違いない。なんて卑怯な男だろうか…! こんなふうに騙して食事に誘っても承諾すると、本気で思っていたのだろうか。

 ジョーとの祝勝会キャンセルは、全くの無駄だった。次はいつ会えるかもわからなくなってしまったのに。もしかしたらもう二度とジョーと食事会なんて出来ないかもしれない……! 悔しくて悲しくて涙が零れた。

 今からでも会えないだろうかと、ジョーに連絡を取ろうとしたリリは、しかしそこでジョーの応対を想像してしまった。
――好意を寄せてくれてるなら、週末自由になった事だし、ガンガン会ってゲットしろよ! オレもちょうど運命の女を探しに行くから、お互い頑張るってコトで。

 勝手に想像して絶望したリリは、結局連絡を取れないままひたすら彷徨い歩いた。





 気付くとジョーのマンションのそばにいた。人波に押されて乗ったバスがたまたまブーナシティ行きで、そうとは意識しないままにちゃんと見知った名前の停留場でバスを降り、ふらふらと歩いているうちに、見慣れた道を選んでいたらしい。目の前にそびえるマンションを見上げて、リリは込み上げる気持ちに突き動かされ、エントランスへ入って行った。

 教わっていた番号を打ち込む。エントランスのガラス扉は左右に開いた。エレベーターホールへ向かう。3基のエレベーターは常に1階に待機している。最上階まで行くエレベーターに乗り込んだリリは一気に目的フロアへと到達した。
 降りた目の前の壁の一点を見つめた。今でも自分の瞳の虹彩が認証されて開錠出来るのか不安だったが、アイリスロックはいつも通りにすぐに開錠され、壁は左右に裂けた。
 まだ自分はジョーに近い場所にいる。
そう思えて嬉しい反面、それももうすぐ終わるのだと思うと、どうしようもなく切なかった。

 ジョーの部屋のエントランスが現れた。右側のスペースにバイクはなかった。もしかしたらすでに帰宅したジョーに会えるかもしれない…と思いながら上がって来たリリは落胆した。
(パーズンのみんなと祝勝会してるのかな…)
そう思いながら、以前見かけたジョーの友人達も浮かんだ。肌を露出した肉感的な女友達も。

 リリは、玄関ドアを背にしてへたへたと座り込んだ。
涙が溢れて止まらない。ジョーに会いたくて仕方ない。
誰も来ないジョー専用のエントランスで、リリは泣いた。


 しばらく泣いていたリリはすっかり冷えてしまい、仕方なくよろよろと立ち上がった。ジョーはここにはいない。いつ帰って来るかもわからないし、こうして私が突然いたら困るかもしれない。とにかくここを出ようと思った瞬間、手首のブレスレットが振動した。ジョーという文字が浮かんでいる。リリはかじかんだ手で受話ボタンを押した。
「お、早ぇじゃん! もう寮に帰ってんだろ?」
明るい声がブレスレットのスピーカーから飛び出した。
「え、…あ……、ううん、まだ…」
まさか、あなたの部屋の前にいますとも言えずに口ごもった。
「え! まだ会議中?」
もう10時になるぜ!とジョーは驚いているが、そんなもの、最初からなかったのだ。まったくもって腹立たしい。
「ううん、そうじゃないけど……ジョーは今どこ?」
「ん? 家」
リリは固まった。
「え…嘘…」
「なんだよ、ウソって。本当だって」
(言えない場所にいるの? ……私になんか気を遣う必要ないのに。どこにいようと自由なのに)

 でも……。

溢れる涙で声が震えてしまうので、言葉を返せずにいると、
「今帰って来たトコだよ。つか、おまえこそどこにいるんだよ」
ブレスレットのスピーカーと同じセリフが、背後から聞こえて来て、リリは振り返った。
まさに壁が開いて、エレベーターから降りて来たジョーがバイクを押しながらエントランスへ入ったところだった。
帰ろうとしていた矢先のジョーの帰宅にリリは息を呑んだが、ジョーの方こそ、驚いて立ち止まった。
「え!?」
こんな時間にどこにいるんだと不安になり始めたら、目の前に現れたのだ。
「おまえ…、え?」
更にジョーは驚いた。りりは顔をぐしゃぐしゃにして泣いているではないか。
「!…どうした…」
まさかの鉢合わせでパニックに陥ったリリにうまく誤魔化す余裕はない。消えるのが一番だ。
「お、お帰りなさい、じゃ!」
ジョーの脇をすり抜けようとしたが、無情にも壁は閉じてしまった。開錠しようにもアイリスロックはジョーの背後だ。
「待てよ!」
バイクのスタンドを立てたジョーに腕を掴まれてしまい、リリは喚いた。
「勝手に来てごめんなさい、もうしないから、帰るから」
顔を伏せ必死に腕を抜こうともがくリリに、しかしジョーも必死だ。
「待てって、なぁ、どうしたんだよ、」
「ほんとにごめんなさい、ジョーには関係ないから、」
関係ないと言われても、目の前で泣きながら喚かれては放っておけない。
「でもなんで?!」
リリは何も考えられずに叫んだ。
「ごめんなさいぃっ」
「わかった、わかったから」
泣き顔を隠すように頭を下げた姿勢でじたばたしているリリを、ジョーはぎゅっと抱きしめた。
「言いたくないなら言わなくていいから、だからもう泣くなよ」
髪を撫で、背をさすりながら、ジョーはリリを抱きしめ続けた。

 ジョーの胸に埋まったリリは、ジョーの匂いに包まれた。
家政婦は終わりと言われ彼の特別ではなくなり、あんなに悲しくて、寂しくて、絶望していたのに、そしてそれらの状況は何一つ変わってはいないのに、ジョーがいるだけで満たされてしまう。


 ジョーの腕の中でジョーを感じながら、逃げることを諦めて取りあえず落ち着いたリリは、涙で濡れてしまったジョーのジャケットを、自分のコートの袖で拭き始めた。そんな彼女を見下ろして、ジョーはゆっくりと訊ねた。
「……何があったんだよ…」
リリは顔を上げずにジャケットを拭き続ける。
「おっかねぇデジャブ?」
一昨日のウクジャタウンでの記憶のフラッシュバックをジョーは連想した。しかしリリは無言で首を横に振った。
「…じゃあ…なに?……」
さすがに、このまま黙っていると、ジョーに心配を掛けてしまうと悟ったリリは、ようやく口を開いた。
「仕事で…ちょっと……落ち込むことがあって…」
これだけ泣いていたのだから『ちょっと』なはずはない、とジョーは察して胸が痛んだ。余程のヘマをやらかしたに違いない。可愛そうに。
「…そっか、悪かったな、すぐに聞いてやれなくて…」
ジョーに謝られて、リリは慌てて言い足した。
「ううん、私が勝手に来ただけだから」
「なぁ、勝手に来たからって怒るわけねぇじゃんか。前に怒ったのは、休めって言ったのに来たからだぜ?」
言いながら、思わずリリの頭を撫でる。
「……うん……」
大きな手に優しく撫でられる気持ち良さを、しばらくリリは味わった。
「あのさ……。明日、祝勝会できるぜ。…って、言おうと思って電話したんだけどさ…」
「え? だって、明日は残業確実だって……」
「それ、今、片づけて来た」
「じゃ、今までパーズンにいたの…?」
「そ。メッカとニックも付き合わせて」
「そうだったんだ…」
心が晴れてゆく。
「で? おまえの都合は?」
「うん、大丈夫」
嬉しい。笑みが浮かぶ。
「よし、じゃあ、明日こそ祝杯だ」
「うん!」
リリは、まだ潤んでいる目を細めて、満面の笑みで了解した。その可愛い笑顔を見て、やっと安堵できたジョーは、またリリを抱きしめてしまった。

 我に返ったジョーは、愛しさが爆発してしまった態を隠そうと、じっとしているリリの頭や背をぽんぽんと優しく叩いた。
「ありがとう…もう、大丈夫…」
慰められたと解釈し、微笑んでジョーの腕の中から出たリリの手を、思わずジョーは掴んでいた。
「とりあえず、中入ろうぜ。冷え切ってるじゃんかよ」
「え…」
「おまえ、飯食ってねーんだろ? オレも超腹ペコ。あれ作ってやるから付き合えよ」
リリの返事などお構いなしに、ジョーは彼女の手を掴んだまま、部屋に入って行った。





 もう入れないかもしれないと思っていたジョーの部屋の香りに、思わずリリはそっと深呼吸した。そして、
「コーヒー、淹れるね」
と言ったが、
「おまえもう家政婦じゃないんだから、そんなこと気にしなくていいんだぜ。まあ、飯出来るまでそこでのんびりしてろよ」
――家政婦じゃない。
ずしりと重く沈む言葉だった。
「……そっか…」
薄く笑いながらリリはコートを脱いだ。突然、制服姿になったリリにジョーはびっくりした。
「何、おまえ、その格好……?」
「あ……、うん、急いでて……」
ただでさえ可愛いリリの、更に可愛い制服姿にジョーの胸は高鳴ったが、すぐにその真意を察した。着替えもしないで立ち去るほど嫌な事があったに違いない。そして病院のそばの寮には帰りたくなくて、ここに来て泣いていたのだ。オレの部屋の前で!


 ほんの数秒で、原因は男だとジョーは確信した。
 あのカーラと対等に言い合う女が、女同士のいざこざぐらいで逃げ出すはずがない。
 怖い思いをしたのだ。そして寮にも怖くて帰れないのではなかろうか。


 キッチンからしていた音が途切れたので、リリは振り向いた。ジョーはカウンター越しにじっとこっちを見ていた。彼の表情を見て、着替えていない理由をうっかり正直に言ってしまって失敗したとリリは気付いたが後の祭りだ。ジョーはゆっくりとキッチンから出て来た。 

――泣き腫らしてピンク色の目。
ジョーは切なさと怒りでぐちゃぐちゃになりそうだったが、打ちのめされているだろうリリに負担をかけないよう懸命に言葉を選び、口調を柔らかくすることに努めた。
「病院で……何があったんだよ」
リリの顔からすっと笑みが消え、そのまま視線を伏せた。
「“ちょっと”なんかじゃねーだろ? なぁ、話せって」
じっと待つが、リリは動かない。どうしても言いたくないようだ。

 もしかして、口に出すのも恥ずかしいような事をされかけたのでは…とジョーは思い至り、見えている範囲でしかないが彼女の着衣を確認した。破けたり汚れている様子はなさそうだ。
 でも、あの大泣きぶりを考えると、無理矢理抱きしめられたり、無理矢理キスされたり……。

 怒りが爆発しそうになってしまい、ジョーは何とか想像を中断した。
「やっぱ、言いたくねえ?」
ついさっき、言いたくないなら言わなくていいと言った手前もあり、強制はできない。
ジョーは大きく一つ溜息を付いて、
「わかった、言わなくていいって言ったのに悪かったな。でも、……、おまえは………、……、チーム・ハザウェイの仲間なんだからな。何かあったら、オレ達がいるってこと忘れんなよ」
リリの重荷にならないようにと、あえて仲間感を盛った。
俯いたままのリリは、ゆっくりと頷いた。
「よし、じゃ、おまえ先に風呂入っちゃえ。オレ飯作ってるから」
そこで初めてリリは顔を上げ、ジョーを不思議そうな顔で見た。
「お風呂…?」
「今夜は泊まれ。明日の朝、車で病院に送ってくから」

今夜だけは絶対に寮には帰さない。ジョーはこれだけは譲らないつもりだった。

「…いいの…?」
「え?」
「だって私、もう家政婦じゃないのに…」
「ンなの関係ないだろ」
リリの言葉の真意を知らないジョーは、リリに夜着を放ると湯を張るように言って、キッチンへ戻った。



 バスルームへ入ったリリは、まずは安堵した。寮に帰らずに済んで良かった。
しかも、まさかジョーの部屋に泊まれるとは思っていなかったので嬉しかった。
『仲間』だからの恩恵なのだ。はっきりとジョーも言っていた。

 リリの花の香りの泡に沈みながら、この風呂に入るのも今夜が最後かもしれないとしみじみ思った。
さすがに恋人が出来たら、たとえ仲間でも女は泊めたりしないだろう。
止まっていたはずの涙が、一粒二粒と泡の中へ落ちて行った。



 リリの入浴を音で確かめたジョーは、素早くミネルバの携帯に電話した。
電話に出たのはサラだった。ミネルバは今、高熱で寝ていて電話に出られないとサラは言った。
「風邪かよ、珍しいな」
とジョーが返すと、
「そうなんだよ、珍しく仕事も午前中で切り上げて早退して来てさ、俺、非番で良かったよ」
ジョーの想像は激しく膨らむ。
「急用じゃなければ、明日以降の折り返しでいいかな」
「ああ、もちろん。じゃお大事に」

 電話を切って、込み上げてくる怒りを苦労して飲み込んだ。
リリを怖がらせた奴は、ミネルバの不在を狙ったに違いない。卑劣な野郎だ。
 ジョーの知る限り、リリは病院内で少なくとも数人からは「可愛い」と噂されていた。ディミーがイケメンの医者に言い寄られているとも言っていた。――確かミネルバの同僚だとリリは言っていた。

 ジョーは漠然とだが、原因はそいつのような気がした。ミネルバと同じメンタル科の医者なら、日々の中でリリとの接触も多いだろうし、リリが寮住まいな事も知っていて不思議はない。



 風呂を済ませたリリは、ジョーのパジャマの上下をだぶだぶと着てリビングへ戻って来た。
裾も袖口も折っているのが、これまた可愛らしい。しかし今夜のジョーは、リリが可愛く見えれば見えるほど、卑劣野郎を許せない思いが増すのだった。
 その気持ちは極力隠して、テーブルにオムライスの皿を並べた。ジョー唯一の渾身の手料理だ。薄焼き卵は綺麗な黄色の薄膜に仕上がっている。
 またこれを食べられるとは…と、リリの気持ちは上昇した。
「やっぱり上手だね、ジョー。すごくキレイ」
ところが、ケチャップでリリの花が描かれている皿はジョーの前にある。リリのオムライスには何の花だか分らない絵が描かれていた。
「逆?」
「今日はおまえがそっち」
ジョーの意図が分らぬまま、取りあえず訊ねる。
「これは何の花?」
「リンドウ」
「リンドウ…は、どういう気分?」
「“正義”。――食え」
ジョーはリンドウの花言葉で最も大きな意味合いの「悲しみにくれているあなたを愛する」は口にせず密かに込めた。その想いをリリに飲み込ませたい。コイツがオレの愛で一杯になるように。

 余計な事を口走ってリリを傷つけてしまうよりはと、ジョーは黙ってオムライスを口へ運んでいた。
 会話が無いのは自分のせいなのだとリリは理解していた。それだけジョーに心配をかけているのだ。
 リリはいよいよ決心して口を開いた。
「今日ね…」
ジョーは目線を皿から上げてリリを見た。ジョーと視線がぶつかったリリは、うまく話し切れるようにと一度だけきゅっと口を結んでから話し出した。
「今日のね、残業だった打ち合わせ会議ね…、会議なんかじゃなかったの。私、勘違いしちゃったみたいで」
話が読めないジョーは言葉を選びながら訊ねた。
「でも、会議って言われたんだろ?」
「…うん…そうなんだけど、それ、冗談だったみたいで。私だけ信じちゃって」
目の前のリリは、伏し目がちだった顔を上げて本当にバカみたいと笑ってまで見せた。その弱々しさがジョーの胸の内側をざらりと撫でる。
「…会議じゃなきゃ、何だったんだ?」
トニエントに食事に誘われた事は、リリは言いたくなかった。ジョーは勘が鋭いので告白された事まで気付いてしまいそうな気がしたのだ。良かったじゃないかと勧められでもしたら立ち直れない。絶対に気付かれないようにしなければと思うあまりに、気負って妙な明るさを漂わせてしまう。
「何でもなかったの、会議室行ったら、あれ?って」
「“あれ?”?」
「嘘だった、ごめんって」
所詮リリに作り話はできないのだ。“自分の勘違い”と言っておきながら嘘を付かれた真実を話してしまった。
「…それは勘違いじゃねーだろ…?」
「あ…、でも…、……、冗談を本気にしちゃったから……。ジョーとの祝勝会も…延期にしちゃうし…、なんかもう、つくづく情けなくって、ほんとに嫌になっちゃって、それで、……」
それであんなに大泣きをしていた…と言いたかったのだろうが、彼女は「迷惑かけてごめんなさい」とだけ言って頭を下げた。
でも祝勝会は明日出来ることになって良かった、と控えめに微笑んでリリの話は終わった。


会議室には何人いたのか、そいつらはそこで何をしていたのか。
現れたリリに、一体何を言ったのか、何をしたのか。
そもそも嘘で呼び出したヤツは誰なのか。


これらたくさんの疑問を、リリに訊くことは出来そうにないと諦めたジョーは
「迷惑なんかじゃねーよ、ばーか」
とだけ言った。
「…うん、ばかです…」
しゅんと項垂れたまま頷いている。さすがに今夜の彼女は言い返して来ない。
正直に全部話してくれないリリに、苛立ちと寂しさと不変の愛しさを込めて、
「ラス・ポウナ」
とジョーは言った。『ばか』と言われたと思っている彼女は
「はい」
と素直だ。
「ボーズのくせに遠慮とかしてんじゃねーっての、この超ラス・ポウナ」
「…」
「超々ラス・ポウナ。すっげーラス・ポウナ。地球一ラス・ポウナ」
「…わかってるってば…」
俯いているリリの唇が尖っていそうだ。
「ホントかぁ?」
「分ってるよ?」
ついっと上がった彼女の顔の中で、予想通り唇は可愛らしく尖っている。
「宇宙一ラス・ポウナだからな」
彼女を見据えながらジョーは念を押した。



 バスタブの泡の中でリリの話をなぞっていたジョーは、嫌な仮説に行き当たった。
(相手を庇ってるんじゃないか? 嘘を付かれて呼び出されたけれど、告られて、まんざらでもなかったとか…)

怒りや嫉妬ではなく焦燥感がジョーの胸に広がった。

どうやって告ればいいのか分らないとかグダグダ言ってもたもたしている間に、肝心のリリが誰かを好きになっていたとか、あり得ない話じゃない。

 実は今夜、予定通りに祝勝会をしていたら、ジョーはリリに「これからは家政婦だからとかじゃなくて、ただ、一緒に週末を過ごしに来てほしい」と言おうと思っていたのだ。そのために「家政婦」という枷を外して、フェアな状態にしたところだったのに、遅かったのか……。

 ズルズルと泡の中に沈んで行きながら、しかしまだ大泣きしていた経緯が残っている事に気付いた。ざばっと立て直す。たった今考えた仮説は当てはまらないじゃないか!
病院を飛び出すほどの、寮に帰りたくないほどの、オレの部屋の前で大泣きするほどの出来事があったじゃないか。

何があったのかは分らないが、とにかくあいつはオレの所へ来たんだ。

他に行く所が無かっただけかもしれない、習慣で来てしまっただけかもしれない、それでも嬉しい。
「好きだ」と言ってしまいたいほど嬉しい。

でも今、告白するのは卑怯だ。まるで弱みに付け込むようじゃないか。リリが落ち着いてから、だ。

ジョーは、どうか手遅れにならないようにと願った。



 その夜ジョーは、リリとすんなり一緒にベッドに入った。我慢できなくて手を出してしまうかもしれないなんて不安は微塵もなかったのだ。そんな次元にはいなかった。傷付いてここへ来てくれたリリを大事に思う気持ちで一杯だったのだ。
 ジョーはベッドの中で、昨日の商談でのメッカの豪快っぷりや、今日の残業時のメッカとニックの面白い会話を話したりした。
 ジョーの低く柔らかい声はリリの耳に優しく染み込んだ。時折リリのくすくすと笑う声が混ざる。寝室の静かな空気に二人のひそひそした話し声が溶けて行った。
 リリの笑い声を聞いて、ひとまず安心したジョーは、彼女の存在を隣に感じる幸福を味わいながら眠りに落ちて行った。

 彼の寝息を聞きながらリリも思いがけない幸福を味わっていた。でも今が幸せなほど、近づいている別れが辛かった。こんなふうにジョーのベッドで眠るのは今夜が最後かもしれない。

 数日前までは、誰も好きになってはいけないと思っていたのに、好きでもいいと許した途端に、欲しいとまで思っているなんて、なんて欲張りなのだと呆れてしまう。
 欲張りだし、自分勝手だ。いつ別人になってしまうかもしれないのに。

 ぐずぐずと涙の出て来てしまったリリは、そっとベッドを抜け出してリビングへ行くと、コートに包まり涙が止まるのを待った。
 躰が冷え切ってしまうとベッドに入った時にジョーを起こしてしまうかもしれないので、懸命に気持ちを切り替え、鼻をかみ、寝室に戻った。

 ジョーは眠っていたが、寝返りを打ったのか移動して手前側にいた。リリはベッドの足元から反対側へ上がった。ジョーを起こさないようそっとそっと潜り込む。ベッドの中はジョーの体温で暖かい。でも背を向けているジョーは横向きなので、背中が寒そうだ。そっと毛布を手繰り寄せて隙間を埋めていたら、もぞもぞとジョーがこちらに寝返った。
 顔が近い。とドギマギして、でも目を逸らせずに見つめていると、閉じられていた彼の瞼がゆっくりと開いた。起きてしまった。
「あ、…ごめんなさい、」
謝っている最中に、ジョーの腕が延びて来て抱き寄せられた。リリのこめかみに当たっているジョーの唇から馴染みのない言葉が零れた。途切れ途切れの言葉たちは、恐らくヘッシュ語だ。ジョーは寝ぼけているようだ
「…ジョー…?」
リリは顔をあげてジョーを呼んでみた。その瞬間ジョーの唇が呟きと共に降りて来て、リリの唇は塞がれてしまった。
「ジョー、」
リリは重なっている唇に僅かな隙を作ってジョーに呼びかけた。が、返事はない。ただ唇が追って来るだけだ。そのキスは、今までと違う熱を帯びてリリの唇の上を彷徨い貪った。
 どうしよう、と思いながら、今ジョーが見ているであろう夢を考えると居ても立っても居られない。一体誰とキスしている夢を見ているの?!
「マーディ…」
はっきりと聞き取れるマーディという単語がジョーの唇から何度も漏れた。ジョーは目を閉じたまま、マーディと呟きながら唇を重ねた。リリの頬を包んでいた右手は、細い首をなぞりながら下りて、そしてずれて開いた襟元から素肌の上に滑り込んだ。
 初めてそんなところに触れられて、リリの鼓動はいよいよ苦しいほどに速くなった。鎖骨を過ぎてジョーの大きな手が下がって行く。――マーディと呟きながら。

 まだここを出て行く前、ジョーに言われた言葉が蘇った。
「一緒になんて寝たら、超イイ女の夢見て寝ぼけたオレに襲われるかもしれないぜ」と言っていた。「誰かの身代わりに襲われちゃったらイヤだろ?」と。
これがきっとそれなんだ、とリリは思った。
今ジョーは私じゃなくて、その女性にキスしていて、その女性に触れているんだ。マーディはきっとその女性の名前なんだ。
 首の角度に無理があったらしく、ジョーの唇が離れた。呼吸が楽になった事もあり、また深い眠りに落ちて行ったジョーの手は動かなくなった。
 リリはジョーの右手をそっと胸から持ち上げて、毛布の中へと戻した。
 ジョーの寝息を聞きながらその寝顔を見つめていると、涙が溢れて止まらない。彼を揺り起こして「好きなの」と言ってしまいたい。

 私をみて。私にキスして。私を欲しがって。
 他のヒトじゃなくて、私を……。
 私は、ジョーが欲しい――。


 リリはまたベッドを抜け出すと、リビングのローテーブルに書き置きを残し、着替えて静かに部屋を出て行った。

第36話  止まらない想い   END
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