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第35話  星の海の記憶
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 昨日「ジョーが好きだ」とはっきり自覚したリリだったが、すぐに「ジョーには探しに行くはずの運命の女性がいる」という事実を知る事になった。その後は幽霊騒動で(ジョーのせいだが)その事について考える余裕などなかったが、自室で一人きりになると、じわじわとその重さが胸に広がって行った。
 彼は否定しなかったのだから、それは真実に間違いない。
自ら探しに行くほど大事に思う女性がいるなら、さっさと行けばいいのに行かないのは、行ける状態ではないからなのだろうか。
 それは、私の存在か?
またしても自分は彼の足枷になってしまったのか、という激しい悔いと、もしかしたら私といる方を選んでくれたのではないか…という儚い希望が交差する。そして強欲な気持ちを抱く自分に嫌悪感を抱いた。



 昨日はディミーと楽しく過ごせたと言っていた笑顔は本物だったので安心したミネルバだったが、その後のドラマチックな“ジョー達との偶然の合流”の話をするリリの声がちっとも華やいでおらず、むしろ沈んでいたので、これはジョーと何かあったに違いないと推察した。案の定、仕事中も空元気で笑っているかと思えば、ぼやっと心ここに在らずな状態の繰り返しだったので、午後の診療が途切れた数分の隙にミネルバはジョーに電話を掛けた。



 一方パーズンでは――――。
 昨夜ゴセが悪意なく投下した「運命の女を探しに行けよ」という言葉が弾けた瞬間に動揺したリリを見て「リリの方にも好意はあるのだ」と確信したメッカ達は、『ジョーには好きな人がいるのだ』と思ってしまったであろうリリの誤解を解くように、さり気なく且つ確実にジョーを誘導して行った。
 ジョーが否定しないままだったので、ディミーがあれから騒いでいた。という事にして、
「あれじゃぁ、リリもきっとそう思っるに違いないなぁ」と三人でガヤガヤ言うと、「そうかぁ?」と関心なさそうな声で返事をしたくせに、その後のジョーは明らかにそわそわしていた。
 更に午後には「リリの様子がちょっと変なんだけど、昨日リリと何かあった?」とミネルバから電話で言われてしまったジョーは、いよいよ居ても立ってもいられなくなり、何とパーズンを早仕舞いしてしまった。
 バイクで走り去るジョーを見送りながら、メッカ達は心の底から健闘を祈ったのだった。





 やっと終業時刻を迎えたリリは、更衣室で着替えながら自分自身に言い聞かせていた。
明日は家政婦としてジョーに会う。忘れがちだがこれは仕事なのだ。私情を持ち込んではいけない。今夜のうちに気持ちを落ち着かせておかないと、と思い至った瞬間ブレスレットが振動した。
 ジョーからだ。
 予想外の電話に全身の血がかっと逆流したように熱くなった。しかし出ることが出来ずに左手首をブレスレットごと右手で握りしめた。どんな声で話したらいいのかわからない。
 しばらく震えていた電話がやっとおとなしくなると、強烈な切なさに襲われた。出ることが出来ないくせに、切れてしまうとこの様だ。本当に我儘だ。
 だらだらと着替え終えて更衣室を出た。
 何の用だったのだろう。もしかして、明日の家政婦の約束が無くなるという連絡だったのだろうか。そうだ、運命の人を探しに行く気になったのかもしれない。
 どんどん気持ちは沈んでいく。
 職員出口へ向かって歩いているとまた手首が震えた。すっかり悪い予感で一杯になってしまっていたリリは、ドキドキしながら胸に手首を押し当てて、やはり出ることが出来ずにそのまま歩いた。外へ出たと同時に振動も止まった。静かな手首を下ろして小さくため息をつくと通りへ向かってとぼとぼと歩いた。

 冬の夕刻はすっかり夜の暗さである。歩道を照らす街灯と車のヘッドライトが、寒さに首を竦めて歩く人々を照らし出している。
 昨夜、マンションへ帰るジョーにマフラーを貸してしまったので、リリはマフラーの無い襟元を、右手できゅっと閉じて歩いた。寮へ着いたら…決心がついたら、私からジョーへ電話して、用件がなんだったのか訊こう…そう思っているとまたブレスレットが震えた。立ち止まって手首を見る。闇に浮かぶ小さなモニタにはジョーの名前が光っている。しばらく見つめていたが今回はなかなか止まらない。こんなに何度もかけて来るなんて、急用に違いない。やっぱり予定変更なんだ。とにかくそれを早く私に伝えてしまいたいのだろう…。泣きそうな気分に襲われたが、気力を振り絞って電話に出た。
「はい」
「お、やっと出たな! シカとするなんて見上げた根性だな、家政婦さんよ」
暗い気持ちだったのに、彼の声を聞いた瞬間リリは愛しい気持ちで一杯になってしまった。憎まれ口さえ愛おしい。
「家政婦は病院のお仕事が無い時だけです」
勢いに欠けるが、いつも通りに言い返すことが出来た。
「なるほどね〜。で、病院の仕事は終わったか?」
「たった今終わりました」
「じゃ、今からオレの家政婦な」
今から、とは、来いという事?とリリの気持ちがきゅんと跳ね上がった瞬間、いきなり腕が引っ張られて夜空がぐるりと回転し、次の瞬間、良く知った香りの中に座っていた。何が起こったのかと顔を上げると、隣で呆れ顔のジョーが自分を見ていた。
「ジョー…!?」
「おまえ、隙あり過ぎ。こんな簡単に誘拐されてどーすんだよ」
ジョーの車の中だった。ジョーに引きずり込まれていつもの助手席に座っていたのだ。信じられない。
歩道を歩くリリのすぐ横にジョーの車が停まっており、そこからジョーは電話して来ていたのだ。電話に集中していたので停車している車になんて気付かなかった。
「誘拐なんて、誘拐なんて、誰もしないから!」
「オレが今したじゃん」
「だ、だから、そんなのジョーしか……、ジョーしか……」

ジョーに誘拐されたのだ。大好きな男が自分をさらいに来た。リリは真っ赤になって言葉が出なくなってしまった。

「とにかく車道寄りは歩くなよ。誘拐はともかく、ふらふらっと車の方によろけたら接触しちまうからよ」
ジョーはリリの頬の色には気付かず、わしっと彼女の頭を掴むように撫でると、車を発進させた。
「マフラー、悪かったな。寒かったろ」
「ううん…大丈夫…」
だから送ってやろうとわざわざ迎えに来てくれたのだろうか…とリリは思ったが、車は明らかに寮とは違う方へ向かって大通りを走っている。
「えっと…どこへ…」
「誘拐された女は、港へ連れてかれて船で外国に売られちまうに決まってんだろ」
何それ、いつの時代の話…と思いながら、
「じゃあ、もうジョーの家政婦できないわね」
「大丈夫、買い手がつかなくて売れ残ってるおまえを、オレがまた買って帰るからよ」
オレが買って帰ると言われて、特別感が一気に上昇する。話的には奴隷を買うような内容なはずなのに、ロマンスの味付けが濃くなった形で胸に広がる。それでも必死に文句をつける。
「じゃ、売る意味ないじゃない。っていうか、売れ残ってるだなんてまったく失礼な旦那様ね!」
「何言ってんだよ、オレは優しい旦那様だぜ? 例えば明日は家政婦さん勤労感謝デーだ」
「…え?」
「おまえの好きなように過ごしていいよ。行きたいトコがあるならお供するし、「どこにも行きたくない、も〜疲れちゃってるの!」ってんなら家ン中でダラダラしてもいい。ただしオレん家でな」
リリはバクバクする心臓を抑えるようにそっと手を胸に当てながらジョーの言葉を確かめた。どうやらしたい事に付き合ってくれるらしい…デートもできるという事だろうか。と思い始め、でも先週も仕事らしい事もせずに出かけたよね…と思い当たる。バイクでのツーリングだったが、二人きりで出かけて、手製のお弁当を食べ、野生の花々を楽しんで来た。あれはジョーが行きたい形だったから、今度は私の希望を、という事なのかしら。
「飯、ちょっと早いけどいいよな。デスカンソな」
ジョーお気に入りのあの店だ。以前にも不慣れな賄い仕事で凹んだリリに息抜きをさせたくて連れて行った事がある。旧時代のスペイン語で寛ぎという名のごとく、海賊ジョーにも寛ぎの時間を必ず提供してくれる店「Descanso」で、これから食事をするらしい。
「あのお店で御飯?」
「違う店がいい?」
「ううん、そうじゃなくて……」
突然、一緒に食事をする流れになっている事に驚いているのだが、そこに触れると、夢だったように消えてしまいそうな気になって、リリは話を逸らした。
「お仕事終わるの早かったんだね。それに車なんて珍しい……」
「あぁ、ちょっと用があってさ。仕事でこっちの方へ来て帰るとこだったんだけど、ちょうどおまえが上がる時間だなぁと思って。なのに電話しても出ねーし」
ジョーはさらっと誤魔化したが、もちろん仕事の用があったわけではない。『運命の女よりもおまえが大事なんだ』という事を伝えようと、行動を起こしたのだ。

 約束をしていないリリはバイク用の防寒着を着ているはずがないので、車が絶対に必要だった。パーズンを早仕舞いしたジョーは一度自宅へ戻り、わざわざ車に乗り換えてここまで来たのだった。
「電話は……着替えたりしてて気づかなかったの、ごめんなさい」
気付いてもすぐに出なかったくせに…とジョーは思った。二度目の電話までは、気付いていないから出ないのだと思っていた。三度目の電話は、歩道を歩いて来る彼女をルームミラーで見ながらかけたので、その一部始終を知っている。彼女はしばらく立ち止まってモニタを見つめていた。
 オレからの電話に出るのに躊躇したのは間違いない。
 ミネルバの話では、今日のコイツは見え見えの空元気で笑ったり、ボーッと考え込んだりだったらしい。昨夜の店での事を話すと、ミネルバもメッカ達と同じ事を言った。
 もしそうだとしたら、落ち込んでいて電話にすぐに出られないのだとしたら―――。アイツはオレに好意を持ってるってことだよな!
 そう気付いて舞い上がりかけた気持ちを必死に抑えて、彼女が真横に来た瞬間にドアを開けて引きずり込んだのだった。

 ところが実際に本人を目の前にすると、オレに運命の女がいようがいまいが、コイツはこれっぽっちも気にしてなんかいないんじゃないか…?という気持ちになって来る。

仕事で疲れているから今夜は一人で過ごしたかったかもしれないし、寮の部屋でやりたい事があったかもしれない。
 もしかしたらオレは、とんでもなく一人で暴走しているのでは……? と、ジョーは弱気になった。
「今夜、寮でやる事とかあった?」
「うん」
即答されてしまった。あぁ、やっぱりそうか…と溜息が漏れそうになった瞬間、
「明日、初披露するつもりだったメニューの復習をみっちりする予定だったのにな。もう失敗しても文句言わないでよね」
ジョーの溜息は笑い声に変わって漏れた。
「明日は家政婦じゃないんだから、次回に披露してくれよ」
ほっとして軽くなった気持ちが言葉にも映る。
「つか、オレは文句なんて言ったコトないだろ?」
「え、あるよ! 不味いからメリンダさん呼べとか」
「だっておまえ、あれはカレーが甘かったんだぜ? それにオレは不味いなんて一言も言ってないからな」
「確かに不味いは言ってなかったかもしれないけど、でも文句は文句じゃない」
「いーや、あれは文句じゃなくて真実だし、メリンダを呼べってのは提案だ」
笑ったり怒ったり言い合いをしながらデスカンソに到着した二人は、店内奥へ通されて誰の視線も気にすることなく夕食を取った。

 ジョーは、このままリリをマンションへ連れて帰りたかったのだが「一緒に居たいから泊まって行けよ」という本音に代わる尤もらしい理由が思い浮かばずに悩んでいた。
 今夜の一番の目的『誤解を解く』事は、いくら無関心でいてくれる店だといっても、さすがに他人の耳がある場所ではしたくなかった。

食事が終わる頃には、寮へ送って行く道中に切り出すしかなさそうだ…とジョーは諦めていた。しかし目の前のリリは本当ににこにこと楽しそうで、この状況で『運命の女より・・・』説を自然に話し出す自信は今のジョーには全くなかった。





 冷たい冬の夜風に縮こまりながら車に乗り込んだリリが言った。
「ここからだとジョーのマンションの方がずっと近いよね。申し訳ないわね」
申し訳ないけれど寮まで宜しくお願いします、という意味で彼女は言ったのだが、これはジョーにとってまさに天から降って来た救いの一言になった。食いつきを押し殺して、ことさら軽く、ポンと返した。
「だよなぁ、じゃ、オレん家でいっか。今夜も明日の朝も大して変わんねーしな」
「え」 
「よし、帰るぞ」
車は走り出した。

 リリは目の前で揺れるオレンジ色のテールランプを見つめながら、ドキドキうるさい胸を押さえて考えを巡らせた。

 明日迎えに来る手間が省ける。目覚めのコーヒーが飲める。それだけの事よ。

 ジョーの部屋に泊まるなんて彼にとって特別な存在みたいに勘違いしそうになるけれど、こんなに簡単に泊めるのはそれはつまり、何とも思ってない証拠だ。

 それでも私は、一緒に居られる時間が長くなってすごくすごく嬉しい。仕事上がりに拾ってくれて、御飯を一緒に食べようと思ってくれて、泊まっていけと言ってくれて。家政婦だからなのだけれど、それでもとっても幸せだ。

 だから欲張っちゃだめだ。運命の女性より特別でいたいとか……。


「じゃあ、宜しくお願いします。お部屋に着いたらすぐにコーヒーをお淹れしましょうね、旦那様」
「おう」
寮へ送れと言われたらどう説き伏せよう…と思いながらもまるで名案が浮かばなかったジョーは、すんなりリリが受け入れてくれたので万歳したい気分だった。これで部屋で落ち着いて話が出来る、切り出すのが難しいのは変わらないが、自室なら時間もチャンスもたくさんあると安堵した。

 二人の思惑を乗せた深紅の車は、街の彩りをボディに流して走って行った。





 リリの淹れたコーヒーの香りとジョーの煙草の香りが広がるリビングは暖かかった。昨夜、寮の部屋でわざわざ煙草を吸わせたほど、リリはこの香りが気に入っているのだと思い知らされたジョーは、ようやく喫煙場所を室内に戻した。ところが、開放的な場所で吸うようになって一ヶ月以上、すっかり習慣になってしまっていて今更室内で吸うのは実は何となく居心地が悪かった。
 それでも彼女の淹れてくれたコーヒーは旨い。そして目の前には彼女がいる。湧き上がる充足感に、つい任務を忘れそうになるが、ポーカーフェイスの下で必死にどうやって話し出そうかと考えていると、
「ねえ、明日の事ですが……」
遠慮がちに、でも笑みを浮かべてリリが話しかけて来た。
「ん」
「行きたいところが、あります…!」
「どこ」
「今日ね、食堂で後ろに座ってた看護師さんたちが話してるのが聞こえたんだけどね、確かウクジャタウンって言ってたと思うんだけど、そこにあるプラネタリウムに行きたい、です」
「プラネタリウム?」
「うん。すごく綺麗なんだって。でね、宇宙を飛ぶ感覚が超リアルなんだって! ジョー、知ってた?」
「知らないな。どこだっけ?」
「ウクジャタウン…」
「ムクジャ?」
「違うわよ、ウクジャ」
「一回、両方言ってみ」
「……バカにしてる……疑ってるのね」
「バカになんてしてねーよ、おら、場所調べるんだから言ってみろって」
「………ウ・ク・ジャ・タウン。ムクジャタウンじゃありません…!」
むくれた顔も可愛いくて、つい口元が緩む。そもそもムクジャタウンなんて存在しない事をリリは知らないし、気付かない。
「…やっぱりバカにしてるじゃない…」
「してねーって。ウクジャタウンな」
ますますむくれるリリが可愛過ぎて、とうとうジョーは吹き出しながら端末でウクジャタウンのプラネタリウムを検索した。1件ヒットした。信じられないとばかりにブンむくれていたリリだったが、これか?とジョーが呟くとパッと期待に満ちた表情に変わった。
「ふーん。全30室の個室型プラネタリウム…」
リリは膝立ちでとっとっとっ…と移動し、ジョーの横へ座って画面を覗き込んだ。
 彼女の吐息がジョーの手の甲にかかる。真剣に画面に見入る彼女はそんな事には気付かない。
「多分、これだと思う。けど、これじゃなかったとしても、ここに行きたい。いい?」
振り向いた彼女の顔はとても近い。ジョーはうっかり固まりかけて、『煙草を吸う』所作を利用して脱出する。
 
 振り向くと、ジョーの顔が目の前にあって「あっ」と思った瞬間、リリは固まってしまった。なのにジョーの方は何も気にしておらず、吐き出した煙に目を細めながら画面を見ている。
 そんな彼に見とれてさらに動けなくなる。

 「よし。勤労感謝デーはここで決まりな」
ポーカーフェイスの限界が来たジョーは、端末を閉じて体勢を変えた。リリの顔が離れた。
「じゃぁ、あれだな、ゆっくり起きて、適当にどっかで飯食って、でソコに行きゃいいよな」
「うん」
元の位置に戻ってコーヒーを啜りながら答えたリリは、膨れ上がってしまったジョーへの気持ちが苦しかった。

 沈黙の間が出来た。切り出すには絶好のタイミングじゃないか、とジョーは思った。しかし最初の一言が難しい。分らない。言いたい事は「昨日ゴセが言ってたけど、運命の女なんて、もう関係ないんだぜ」という至ってシンプルな一言だ。でも突然それだけを言うのはとてもおかしいので悩むのだ。もし「だってオレはおまえが好きなんだから」と付け足せるなら、話は簡単だ。でもダメだ。告白なんて出来るわけがない。受け入れてもらえる可能性は全く分からないのだ、断られたら今のこの関係すら失ってしまう。

 緊張のあまり呼吸がうまく出来なくなって酸欠になりかけた時、バスタブの湯が溜まったチャイムが短く鳴った。
結局ジョーは何もできずにリリに促されるままバスタイムへ突入してしまった。


 湯に浸かりながらジョーは考えた。メッカ達が言っていたが、確かにディミーは運命の女とやらを見たいと騒いだのかもしれないが、必ずしもリリも同じとは限らないじゃないか。ミネルバの言っていた「ぼんやりした様子」も、全く関係のない事が原因だったのかもしれない。
(結局アイツは一度もこの話に触れて来ないじゃないか)
そこでジョーは、触れて来ない理由を考えてみた。

@避けている。
Aどうでもいい。
Bそもそも覚えていない。


 @にしては今夜のリリは機嫌が良過ぎる気がする。無理しているようにも見えないし、わざとらしさも無い。
という事で、ジョー的にはかなり凹むがAかBの線が濃厚だ。そして推察通り、その後もいつもパジャマ代わりに借りているジョーのシャツを着たリリは、ジョーが見る限り常に笑顔だった。
 結局ジョーは、その笑顔をわざわざ遮ってまで明らかに不自然な話題を持ち出す事は止めた。

 自然に伝えよう、とジョーは思い至った。明日を目一杯「大事なのはおまえだ」という態度で過ごせば、きっと伝わるんじゃないか…と自分に言い聞かせた。
 
 ようやくリリへの態度に決着をつけたジョーは、大きな天窓の星空を眺めながらリラを思った。
リラではない大事な存在が出来てしまったオレをリラはどう思うだろうか。
 あの星空のどこかにいるリラ。三度目の奇跡の再会があったら運命の相手になるリラ。最後にした誓いのキスは拒まなかったリラ。
――もしかしたら女海賊アルテミスだったかもしれないリラ。
――そして今頃は記憶を失くしてリリと名乗っているかもしれないリラ。
 怒った顔も泣いた顔も笑った顔も可愛かったリラ。でも記憶の中のそれら全ての表情は、なぜかリリと重なりやすい。

――でもリリはリラではない。

 リラが好きでなくなったのではない。ただ、リラを想う時、どうしても意識を奪われてしまうのだ。遊びですら対象外のボーズだったはずのリリに。





 「ジョーがベッドで寝ないなら、私は今から寮に帰る」
タクシーを捕まえてでも帰ってしまう強さで言われ、観念したジョーはベッドに入った。先週と同じくリリの左側へ横になり、今夜も我慢大会か…と覚悟したのだが、リリとこうして並んでいる事の喜びの方が大きくて、嬉しくて幸せで全く辛くなかった。遠慮して背を向けるリリに、隙間が出来て寒いから背中合わせは禁止と言い、二人で上向きになった。ジョーが小さなタブレット型端末を掲げて、それをリリも眺めながらプラネタリウム周辺の店を物色したりした。リリの声が耳元でする。嬉しそうな楽しそうな、時に独り言のような呟きは甘い吐息交じりだ。ジョーはまさに夢見心地だった。そして、本当の夢の世界へも、ジョーは彼女より先に落ちた。

 リリは彼の手からタブレットをそっと取り、冷えてしまった腕を毛布の中へ戻した。規則正しい音に耳を澄ます。ジョーの寝息をこうして聞ける幸せ。やがて失ってしまうこの幸せを、一人そっと噛みしめていると涙が零れた。ジョーが運命の女性を探しに旅立つ日はいつなんだろう。せめてそれまでは、こうして近くにいたい。家政婦としてでいいから、一日でも長くジョーのそばにいたい。

 私がリリではなくなる日と、ジョーが旅立つ日は、どちらが先に来るのだろうか。どちらも永遠に来なければいいのに。
 リリは枕に流れているジョーの髪の一筋にこっそり口づけて、大切な思い出になる明日のために、涙を拭いて目を閉じた。





 バイクではなく車の鍵を手にしたジョーが、しげしげとリリを見て言った。
「なんでヒラヒラなんだよ」
「仕事帰りに誘拐したのはどなた?」
リリにしてみればこんな素敵な一日は、通勤用ではなく、せめてもう少し気の利いた服で過ごしたかったので、恨めしい顔で言い返した。しかし、実はスカート姿のリリと出かけてみたかったジョーは内心大喜びだった。通勤用も何も関係ない、とにかく可愛いったらない。

 柔らかな冬の日差しの中を、リリを乗せたジョーの車はウクジャタウンへ向かった。





 町の巨大パーキングへ車を停めると、遅い朝食を取りにカフェに入った。
 今日のジョーは変装をしていないので、店員にも周りの客にもすぐに知れてしまった。ジョーは慣れた態度で悠々としているが、リリは今更ながらにその知名度と人気の高さに驚きを隠せなかった。海賊ジョー(あるいはライダー・ジョー)だと気付いた人達の全てが、連れの女を見て不思議そうな顔をした。浮名を馳せている男の相手には見えない、およそタイプの違う女だったからだ。
 あれは恋人ではなく知り合いだろう、と人々の勝手な妄想が役に立ち、リリは焼きもちを焼かれずに済んだ。……はずだったのに、ジョーの表情やしぐさの端々にリリへの愛しさが滲むので、それこそ驚愕と嫉妬の視線が痛いほどにリリに突き刺さった。

 ウクジャタウンは病院のある町からずいぶん遠いので、まず勤務中のリリへまで影響は出ないと考えた上での、変装無しだった。
 『海賊ジョーが女連れだった』という噂は問題ない。その女のパーソナルデータさえ知れ渡らなければ、彼女の姿を見られてもジョーは構わなかった。むしろ可愛いリリを自慢したくて仕方ない気分であった。



 目的のプラネタリウムはタイミングが良く、待たずに案内された。小さなドアがいくつも並んでいるうちの一つを店員は開けて室内へ入った。続いて二人も入る。僅か3メートル四方の小さな部屋は、床も壁も天井も、ぐるりとクッション性の高い材質で出来ていた。店員は手首に巻くタイプの小さなリモコンをジョーに手渡した。明らかに海賊ジョーだと分って興奮していたが、自粛して騒がずにドアを閉めて出て行った。
「さてと」
ジョーはリモコンを手首に装着するとボタンを押した。宇宙をイメージしたのか透明な印象の音楽が流れ始め、室内が急激に暗くなった。それと同時に小さな光がちらちらと瞬き出す。
「あ……星だ…」
リリが嬉しそうに言う。あっという間に星空に囲まれていた。足の下にも星があるので、宇宙にいるといった感じか。投影の効果でいつの間にか奥行き出来ていて、本当に果ての無い宇宙空間にいるようだ。思わずリリは手を伸ばす。
「で、次がこれか?」
二つ目のボタンを押すと、僅かに足元が振動して体が浮き始めた。各個室ごとに重力制御が出来るのだ。すっかり無重力になり二人とも髪が広がっていた。ジョーを見てリリは笑った。
「すっごいよ!」
「おまえだって爆発してるくせに」
そう言い返しながら、ジョーはリリの足を後ろから払った。軽く押されただけで、リリは足を前に投げ出した状態で仰向けに回転し始めた。
「やだ、ちょっと!」
無重力の空間でリリはゆっくりと回る。逆さまになってもスカートが捲れたりはしないが、角度によっては見えてしまいそうで慌てて手で押さえた。
「もう!」
リリはジョーの肩につかまって回転を止めた。二人の上下が逆になっているのでジョーにつかまりながら体勢を並べた。リリが落ち着くのを待って、ジョーは次のボタンを押した。
「高速移動だ」
四方の星々が一斉に一定方向へ流れ始めた。動いているのは映像の方なのだが、まるで自分が飛んでいるような錯覚に陥る。
「待って待って!」
置いて行かれそうな不安に駆られ、リリはジョーの腕にしがみついた。
もう天地も分らなくなってしまった。方向を変えたりしながらひたすらに宇宙空間を飛ぶ。
「すぐそこが壁だなんて信じられないな」
「本当に宇宙にいるみたいだよね! 星の海にこうして浮かぶなんて滅多にできないよねぇ……!」
「宇宙服着なきゃ絶対にできねーって」
「あ、そうだよね、じゃぁ今日は身軽でラッキーね!」
目の前を眩しい彗星が横切った。美しい尾を引いて遠くへ行ってしまったが、すぐに流星群がやって来た。その数の多さにぶつかりそうでジョーにしがみ付く。さすがに放熱はしていないが見るからに熱そうに燃えたぎる恒星に近づいてみたり、超新星の周りの鮮やかなガス雲の中を飛んだりした。
 リリは本当に楽しそうだ。なのでもちろんジョーも楽しい。ジョーが機嫌が良いので、リリは嬉しい。幸せだ。
 星の海をジョーと飛んだ、この幸せな体験を忘れたくない。いつでも思い出して浸りたい。
「ずっと覚えていたいなぁ」
うっとりしながら、つい口が滑った。
「“人間は忘却の生き物”ってな」
ジョーが言った。
「じゃぁ、ジョーは忘れちゃうの?」
「何言ってんだよ、オレは万能な生き物だぜ」
「…無能な生き物で悪かったわね」
「いや、絶対に忘れられない強烈な出来事があれば忘れないんじゃね?」
「どんな…?」
ジョーはぐいっとリリを抱き寄せた。無重力なのでリリは勢い余ってジョーの胸に張りついてしまった。どぎまぎしながら離れようとしたが、ジョーの手が顎に伸びて来て上を向かされた。ジョーが自分を見下ろしていた。無数の輝きが映り込んで星の海のような碧眼が自分を見ている。なんて綺麗なんだろう…!と思っていると、それがゆっくりと下りて来た。近付き過ぎた瞳は、ジョーに覆い被られて真っ暗になっているリリしか映していない。
―――キスだ。
唇がジョーの吐息を微かに感じた瞬間、額に衝撃が走っていつの間にか上に戻っていたジョーの口が言った。
「キスされちゃうかと思ったらデコピンだった星の海。どうだ、記憶にしっかり刻まれただろ?」
ジョーは悪戯成功とばかりに笑っている。
「……ありがと……この痛みと共に、きっと絶対に忘れないよ…」
リリは額に指を当てて恨めしく答えた。
「オレも忘れねーよ、危うくボーズにキスしちゃうとこだった星の海、だ」
リリはうっかり涙が滲みそうになってしまったが、ちょうど終了時間を告げるブザーが鳴って室内が戻り出したので、意識を切り替えて涙を引っ込めることに成功した。
星々を消しながら照明が明るくなると天地が分り、自分たちが真横になっていた事に笑った。床面に足を着けてから重力を戻した。髪を撫でて適当に整え部屋を出た。


 受付のあの男性店員にリモコンを返却すると、サインを懇願された。ジョーはリリを振り返ったが「仕方ないね」と目で笑っている。
 普段から『チーム・ハザウェイのジョー』のファンには、余程の事が無い限りジョーは応えていた。自分は確かにチーム・ハザウェイのライダーだ。しかし、海賊ジョーではない。そもそも、海賊って何だよ?と、指名手配中にも釈然としなかったのだ。勝手に偶像化されて不愉快だったし、更には断りもなく商品化して儲けている奴もいて、本当に海賊ジョーというレッテルは嫌いだった。
 今回は『海賊ジョー』のサインを欲しがっていた。断りたいところだったが、何よりリリを楽しませてくれた店だ。不本意ではあったが、感謝の意味でジョーは応じることにした。無論「海賊」などと一文字も書かないが。
 ジョー達が室内にいる間に用意したのであろう厚紙にさらりと書くと、集まって来ていた従業員達は大歓声を上げた。
 数人の女性従業員はやはりリリを見ていた。きっと、彼女なのだろうか、そうだとしたら相応しいか、と値踏みしているに違いない…とリリは思った。ちょっといたたまれない気分だ。違いますよ、彼女じゃないですからがっかりしないでください。と思いながらにこっと笑ってみた。その引き攣った弱々しい笑顔に、女性従業員たちは「あぁ、やっぱり彼女じゃない」と安心し「そりゃそうよね…」と優位に立ったかのように、真っ黒な睫毛をばしばしと瞬かせてデラデラと光る唇の端を上げて笑顔を返して来た。
 従業員一同からの感謝の言葉を受け流すように挙げたその手で、傍らに立っていたリリの手を取ったジョーは歩き出した。
 「また来てください」とか「ありがとうございました」の男性の声の他に、ざわざわとした女性のどよめきも上がった。

 リリはどうしていいかわからず、何も言えないまま歩いた。何度か街を二人で歩いたことはあったが、手を繋いで歩くのは初めてだ。

 どういうつもりでジョーは手を取ったんだろう。もしかしたら私がちょっと凹んだのに気付いちゃったのかしら。
 隣を見上げてもジョーは澄ました顔で前方を見ている。手が熱い。
「宇宙飛行は御満足頂けたでしょうか」
不意にジョーが訪ねた。
「え、あ、うん、もちろん、すごく良かったよ! ……ジョーは?」
「あぁ、面白かった。たまには宇宙もいいな」
「……しばらく宇宙へは…行ってないの?」
ジョーの口ぶりから、ついリリは訊ねてしまった。
「ああ、しばらく行ってねーなぁ。ま、行く用もないしな」

―――あるんじゃない?  運命の女性を探しに宇宙へ………。

頭の中でそのセリフが弾けたが「ああ、そうだったな」と言われるのが怖くて、飲み込んだ。

 もしリリが、運命の女とやらを探しに行かないのかと訊いてきたら、そうしたら「行かない」と言える…!と、ジョーは思った。だがリリは黙ったままだ。
(やっぱりコイツはオレに運命の女がいるとかいないとか、まるで気にしてないんだな……)
地面にめり込みそうな気分に襲われたが、左手には彼女の手がある。手を握っているのに拒まれていない。もうそれだけで良しとしよう…とジョーは健気に気持ちを立て直した。





 緑地帯の公園に沿って、たくさんの露店が並んでいた。かろうじてテントを張った店から、ただ台の上に商品を並べている店まであり、品物も雑貨小物から家具に至るまで実に様々な光景だ。
 キラキラした小物を並べたテーブルを前にした若者が、ワイヤーをくねくねと曲げながら黙々と製作している姿にリリは見入った。若者は器用に子犬の形を作り上げ、ブローチに仕上げて目の前で待っていた女性に「まいど!」と手渡した。女性は「カワイー、スゴーイ」と歓喜しながら友人たちと人波に紛れて行った。
 リリの様子を伺っていたジョーは、店主の若者へ声をかけ紙とペンを受け取るとさらさらと何か描き手渡した。
「なになに? 何を作ってもらうの?」
リリは興味津々で訊ねた。
「まぁ、待ってろって」
十分ぐらい掛ると言われ、ブラブラと他の露店を物色する。ドリンクワゴンを見つけて、ジョーはレモン、リリはオレンジティーをホットで注文し、木漏れ日の下のブロックに座って湯気を吹きながら飲んだ。ジョーは煙草を取り出し火を点けた。やっぱり良い香り、ジョーの香りだ、とリリはじんわり幸せを噛みしめた。

 しかし。うっとりジョーの顔を見ることもできないほど、他人の目が多かった。海賊ジョーに気付いた人々は、必ず驚き興奮して立ち止まってコソコソと盗み見たり、不躾にジロジロと見たりして来た。しばらくすると、ようやく連れの存在に気付き、また騒然とする。ひとしきり「あーでもない、こーでもない」とざわめいて、やがてそっと、あるいはさらに興奮し、立ち去る……というパターンだった。

(アレンの時よりずっと好奇の目が激しい……)
リリはジョーの苦労に胸が痛んだ。こうなると知っていたら、家でゴロゴロする方を選んだのに……と後悔した時、
「悪いな…」
少し眉を下げてすまなそうな顔をしたジョーが小さな声で囁いた。一番迷惑している本人に謝られてリリはすぐに言葉が出ず、ただ首を横にふるふると振った。
「休みの日に、しかも昼間っから、こんな場所へ来るなんてしたことねーから、オレもびっくり」
ジョーはおどけた口調で言った。
「今まではどう過ごしてたの?」
「休みの日はぁ、ま、起きるのは昼過ぎだろ」
「え!?」
「で、出かけるのは夕方からだよな。飯食いにっつーか、呑みに出かけるって感じ?」
わざとらしく肩をすくめてうふっと笑いながら言う。
「うわ、不健全!」
ジョーの仕草に笑いながらリリは返した。
「一人暮らしの男なんてそんなもんだって」
言い切られて、そうなんだ…と納得しかけた時に、
「たぶん」
と付け足され、リリは吹き出してしまった。
「もう、適当なんだから!」
あはははと笑うリリを見て、ジョーはほっとした。無神経な視線のせいで、楽しめていないんじゃないかと思い始めていたのだ。もともとコソコソ変装するのが嫌だったのだが、こんな事ならつまらない意地など捨てて変装すれば良かったと後悔した。リリを楽しませる事が今日の目的なのだ。そして「オレにとってリリこそが大切な存在なんだ」と知ってもらう事だったのに。
 あまりにもリリが愛おしくて、プラネタリウムではもう少しでキスしてしまうところだった。星の海に浮かんでいるなんて非日常のロマンチックなシチュエーションだったのも拍車をかけた。
 しかし、プライベートビーチの夜の海とは違うのだ。あの時の彼女は、キスで呼吸を奪われたことなど覚えてもいないほどに正気を失っていたのだ。でも今日は、あの星の海では彼女は正気だったのだからキスする理由は無いし、強引にしようものなら今の関係も壊れてしまうだろう。
 難しい。慎重に、でも気持ちはさり気なく確実に伝えなければ。



 ワイヤーアクセサリーの露店へ戻ると、店主は立ち上がって出迎えた。緊張した面持ちで出来上がった品を差し出す。手にしたジョーは出来栄えに感心して大いに褒めた。そしてリリに渡す。彼女は驚いて言った。
「私に…?」
「それ、女物っす」
何も言わない(実は照れて何も言えない)ジョーに代わって、店主が精一杯の笑顔で答えた。リリは掌に乗っている小さなネックレスを見つめて歓喜の声を上げた。
「これ、リリね!」
「俺が描いたまんま。すげーな、マジで」
「ああああ、ありがとうございます!」
ジョーに褒められ、店主は卒倒しそうだ。代金を支払ったジョーを店主は呼び止め、もう一つ作品を持ち出した。ずっとライダー・ジョーの大ファンで、ジョーをイメージして作った作品がいくつもあるのだと言う。その中でも自信作だと言ってペンダントを差し出した。ワイヤーが幾重にも捻じれながらゴツゴツした十字架の形になっていて、中央に青い石がはめ込まれている。
「貰ってやって下さい! その代わりってわけじゃないんスけど、サインください! お願いします!」
上着を脱いでTシャツ姿になると、裾を持ってぴんと張った。どうやらシャツの前面に書いて欲しいらしい。作品を気に入ったジョーはすぐに首にかけ、マジックを受け取るとTシャツに大きくサインした。
 店主と握手までし終えたジョーが振り向くと、リリはまだ掌の上のネックレスを感激して見つめていた。ジョーは仕方なくそれをリリの首へかけ、うなじで留め金を繋げた。
 目の前で憧れのジョーとその彼女(だと思い込んでいる)が、自分の作品を二人揃って着けてくれている光景は、彼の人生の中でトップ3に入る大事件の座を最期まで貫いた。ジョー達が行ってしまうと、店主は露店仲間からもみくちゃにされ、皆が一様に「ライダー(あるいは海賊)ジョーに彼女がいた」事について騒いだが、どこの誰なのか全く分らない謎の女の子だった。




 その後二人は、ショップストリートでウインドウショッピングをしたり、軽めのランチをしたり、小さなアトラクションパークのハイタワーから暮れゆく町並みを眺めたりして、夕食もウクジャタウンの店で取った。
 今日は一日中ウクジャタウンで過ごしたな、と笑いながら駐車場へ向かって賑やかな通りを歩いた。

 センター広場を横切る時、リリは化粧室へ寄った。鏡に映った首元には、繊細なワイヤーで作られたリリが光っている。中央に小さな小さな紅水晶を抱いている。ジョーがくれたリリの花のアクセサリー。幸せ過ぎて眩暈がしそうだった。
 リリが広場へ戻ると、キャーキャーと騒いでいる人だかりがあった。騒がしいなぁと横目で見ながら、リリはジョーの姿を探した。が、すぐに「ジョー!」「こっち向いて、ジョー!」という言葉に気付き、声の方を振り向いて愕然とした。人だかりの奥にひょこっとジョーの金髪が光っている。人だかりはジョーのファンだ。ジョーはとうとう暴走したファンに囲まれてしまったのだ。
 どうしよう……と焦ったリリは、しかしその人だかりに突入もできず、ジョーを呼ぶこともできず、うろうろするばかりだった。
 背の高いジョーは、金糸の毬が右往左往するのを楽に見て取れた。猛然と人波を掻き分けて脱出を始めたジョーに触れた女性たちが歓声を上げる。
 どうにか転がるように飛び出したジョーは、そのままリリへ突進し、
「走れ!」
と言って彼女の手首をがっと掴むと走り出した。背後で悲鳴が上がる。その悲鳴は遠くならない。追い駆けて来ているのだ。
「マジかよっ」
ジョーは早目に撒いてしまおうと、すぐに角を曲がり、また曲がり、何度も曲がった。

 ひたすら彼の背中を見ながら走っていたリリの頭の中に、同じように前を走る大きな背中が浮かんだ。誰なのかは判らない。でもその映像は今目の前を走っているジョーの背中と重なる。良く似た状況だ。 

 これはアルテミスの記憶だ。

 アルテミスの記憶の出現は「リリの消滅」に結び付き、リリにとってはとてつもない恐怖だ。こうしてジョーといる事も出来なくなるという事なのだ。

 追っ手を撒きながら、建物と建物の隙間に入り込んだジョーは、リリを隠すように抱き込んで、通りの様子を背中で伺った。やがて喚声と足音はジョー達を通り過ぎ、遠くへ霧散した。

 ようやくほっとしたジョーは大きく深呼吸しながら、腕の中で苦しそうに息をしているリリに囁いた。
「ほんと悪い、こんな走らせちゃって」
それには答えずに荒い息遣いのリリは言った。
「私とジョーだよね、今ここにいるの」
「え?」
意味が分らずジョーは訊き返した。
「ジョー…!」
背中にあるリリの手が強くジョーを抱いた。
「今走ったのは、私とジョーよね」
途切れがちな言葉は、悲鳴にも似た緊迫感がある。しがみ付いて「私とジョー」と何度も呟いた。

 アルテミスの記憶がオーバーラップしたのか…と、ジョーは察した。そしてそれを恐れているようだ…と。
 病院で倒れた経緯を知っているので、リリの思考は容易く推察できた。きっと自分が消えてしまいそうな恐怖に駆られているのだろう。何とかそれを取り除こうと彼女の背をさすりながらジョーは言った。
「大丈夫、ここにいるのはオレとおまえだから、なあ、ほら、オレだろ?」
ジョーは彼女の頬に手を滑らせ、撫でながら上を向かせ、彼女の瞳を覗き込む。百聞は一見に如かず、だ。

 ところがジョーを見上げるリリの目の前には、ジョーに重なって黒い影になった誰かの顔が降りて来た。あっと思う間もなくその影に唇を覆われた。キスされたのだ。
 ジョーといるのに! ジョーじゃない人にキスされるなんて悲し過ぎる。ジョーじゃなきゃイヤだ。
 リリはぎゅっと目を閉じて再びジョーの胸に顔を埋めると、映像を追い出さんばかりに頭を振りながら口走った。
「ジョー、キスして!」
必死に彼女をなだめようとしていたジョーは、一瞬意味が分らなかった。しかしリリが押し殺した悲鳴のような声でキスしてと繰り返すので、意を決して彼女の顔を上に向かせて、まるで初めてするみたいにぎくしゃくと彼女へ口づけた。そっと押し当てただけで離れると、彼女はまた胸に顔を埋めた。
 ぎゅうとしがみ付くリリに何度も自分の名を呟やかれて、理性とか判断とか最善策といった単語達は全て吹き飛んでしまったジョーは、彼女に口づけた。たった今したようなキスではなく、もう二度と離れることはないかのような熱くて重いキスだ。
「ジョー…」
と呟くそばから本人に塞がれて行く。まるで「呼ぶ必要はない、こんなに近くにいるのだから」とばかりに。ジョーが唇を伝ってリリの心に沁みて行った。

 ジョーを感じることが出来て恐怖はなくなったリリだったが、切なさはすぐには消えない。
涙の味に気付いたジョーは、キスを止めた。泣きじゃくり始めたリリを抱きしめた。頭を撫で、背をさすり、髪にキスしながら、彼女が落ちつくのをじっと待った。

 そうしているうちに、ジョーはある事に気付いた。
 たった今、リリがオーバーラップさせていた『アルテミスの記憶』は、オレがリラと体験したあのシーンじゃないのか?
 初めてリラと会ったコロニーで、追いかけて来るファンから逃げて街中を走った。こうして狭い路地裏へ逃げ込んで、騒ぐリラの唇をキスで強引に塞いだあのシーン。

 もし、コイツがリラだったとして。自分の事も覚えてないのだから、オレの事も覚えてなくて当然だ。

 冗談なんかじゃなく、本当にリリはリラかもしれない……。ならオレの今の気持ちは誰に向けての物になるんだ?

 ジョーは混乱した。リリを好きだと思っているこの気持ちは、結局はリラだからということになってしまうのだろうか?
 リリではない誰かへの気持ちだったと知ったらリリは……しかもオレは「おまえだけを見ててやる」とリリに言ったのに……!

 ジョーはアレンと同じようにリリを失うのではないかと想像した。恐怖に身体が強張り出した時、胸に埋まっていたリリの顔がゆっくりと離れた。
 我に返ったジョーは、
「……落ち着いたかよ…?」
と訊ねた。
「うん……」
リリは小声で頷いて頬を拭った。落ち着いたらしいリリとは対照的に、ジョーは動悸が激しさを増す。今またリリをかき抱きたい衝動を、拳を握りしめ堪えていると、携帯電話が着信を知らせた。ジョーはもっそりと電話をポケットから取り出した。

 ジョーが話している間に、リリは涙でぐじゃぐじゃになった顔にハンカチを当てたりしながら、今起こった出来事をなぞった。 
 切羽詰まったとは言え「キスして」とは、とんでもない事を口走った。でもジョーはそれに付き合ってくれた。熱帯夜の海と同じように、助けてくれた。優しいジョー。あの夜も、今日も。

―――キスに私と同じ種類の愛が無くても欲張らない。付き合ってくれただけで幸せ。

 もちろんこれは強がりだ。でも強がらないと立っていられない。

 電話を切ったジョーが振り向いて、大きく一つ溜息を付いて言った。
「これから最終の船に乗ることになった」
「え、これから船?」
「ん……」
「……お仕事…?」
“運命の女性に会いに行く”事に結びつけてしまう自分を嫌悪しながら確かめずにはいられない。
「え? ああ、そうだよ、仕事。前から……欲しかったモンが……もしかしたら先方が承諾してくれるかもって、でも明日の早朝しか時間がねぇって……って、何のコトかさっぱりだろ」
ジョーは苦笑いを浮かべた。苦い気持ちの理由は、こんな状態のまま切り上げなければならなくなった事だ。更には明日もリリと過ごす事が出来なくなり、また来週を待たなくてはならなくなってしまった。
「大変だね、でも、良かったね。……だよね?」
ジョーはリリの気遣いに気付いて、ようやく気持ちが柔らかくなった。
「ああ、そうだ。良かったよ。メッカも吠えてた」
電話の相手はメッカさんだったんだ…と、リリはそっと安堵した。
 ジョーはリリの手を取った。表通りへ向かって歩き出しながら、
「急なお開きになっちゃって悪いな」
「ううん、すごく楽しかったよ、今日。ありがとうございました」
素直にリリは礼を言った。
 賑やかな歩道を手を繋いで歩いて駐車場へ向かった。





 寮の手前、一つ角を曲がったいつもの場所でジョーは車を停めた。
「…なぁ、明後日、なんか用事ある?」
「月曜日…? 仕事だよ」
「その後」
「何もないよ…」
「じゃさ、飯に付き合えよ。これからする商談が成功したら祝杯、ダメだったら慰め会」
そう言われて一瞬リリは、それはチーム・ハザウェイと一緒? それとも二人きり…? と考えたが、ジョーと会えるならどちらでも構わないのですぐに返事をした。
「うん、お付き合いしてさし上げます」
ジョーはほっとして
「じゃ、病院に迎えに行くな。バイクだから暖かいカッコして来いよ」
「うん」

 後ろ髪を引かれる思いをリリは笑顔の下に、ジョーはハンドルを握りしめる手に隠して、月曜日の約束を心の支えに別れた。


第35話  星の海の記憶  END
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