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第32話  フェアリーズ・トラップ
 晩秋と言うより初冬の日曜だった。それでも日中は日差しのおかげで暖かかった。ジョーの黒いバイクは緩やかなカーブやアップダウンをするりと超えて進んだ。
 タンデムシートのリリは右や左の景色を眺めていたが、時折、野生の小動物を見つけると興奮して、ジョーの腹に回した手で彼を叩き、動物の方を指さすのだった。

 澄んだ空気の中を愛車で走る、穏やかな休日。背中に感じる、存在。こんなふうに女と遠出をするのはジョーは初めてだった。

 今でこそ「海賊ジョーは女たらし」などと言われているが、コロニー・ヘッシュに居た頃の、平和だった少年時代のジョーは、男友達と遊ぶのが何より楽しく、それが全ての元気な少年だった。
 ちょっと気になる女の子がいても男友達優先。硬派と言えば聞こえは良いが、まったくのウブで奥手で、好きになられる事はしょっちゅう、告白も日常茶飯事、それでも本人は一度も恋をした事がなかった。

 地球へ降りてからのジョーは、高額な賞金が首についた海賊になるに至った出来事を転機に、硬派な少年だったとはとても思えないほどの変貌ぶり…それはもう周知の事。

 軟派なジョーは、後腐れの無い距離を保ちながらの来る者拒まずスタイルで、夜通し楽しく過ごしても朝陽が昇れば、消えて行く夜空と一緒に女たちの顔も記憶から消えて行く、その場限りの遊びだけだった。

 ―――コイツは遊び相手じゃない、チームの仲間なんだからな。
と、ジョーは考える。ディミーやミネルバ、ヒイナと同じ仲間なのだ。ただ、成り行きでこうなっているだけで…。

 成り行きで初めて部屋に入れたヤツになり、初めて泊めたヤツにもなり、初めてバイクの後ろに乗せた女になった。女だけれど仲間だから、当然二人きりでいながら間違いなんて起こらないし、乗りかかった船だから、仕事や寮に慣れるまでは毎日気になってはいる。

 それだけの事なのに、メッカの解釈によると、夢で抱いた女は、現実で惚れている女らしい。

(何言っちゃってんだか)
と思うのに、
(…そうなのか…? オレはリリに惚れちまってるのか……?)
と胸がざわめく。

 数週間前のジョーなら、きっぱりと否定できたのだが、今のジョーにその瞬発力はなかった。背中がぽっと温かく、とても気持ちが良い。自分にそっと、しかししっかりとくっついている彼女を思うと、胸の奥がじんわり熱くなる。

 それに「どうもコイツは可愛い」と気付いてしまったのも大きな要因だった。正確には、「可愛いと思っている事に気付いた」という事なのだが、今まで遊んで来たタイプとはまるで異なるので、なかなか「可愛いと思っている自分」に気付けなかった。

 それでもジョーは、ディミーやヒイナや、ミネルバやカーラまで引っ張り出し、可愛いと思うのは「仲間」の贔屓目なのだと考えようとしていた。
 「リリだけが特別に可愛いと思っている」と認めてしまったら、その瞬間からどうしていいかわからなくなってしまうからだった。

 今はっきりと分る事は、こうして走っていると背中がとても暖かく、頬が緩んでしまうという事。そして、胸の隅にいる笑顔のリラが薄ぼんやりとしている事だった。





 山間の整備された道を小一時間ほど走った頃に、ジョーはバイクを停めて、草むらの中へ入って行った。控えめな草花たちが陽光を求めて懸命に咲いている方へと歩いて行く。花を確かめながら歩くジョーにリリは声を掛けた。
「何か探してるの?」
「んー、いや…別にそんなんじゃないんだけど…」
と言いながら振り向いたジョーの胸に、小さな悲鳴を上げたリリが倒れ込んで来た。わけもわからず、ジョーはがっしと受け止める。
「ご、ごめんなさい」
「……おまえは、なんでそう、そそっかしいんだよ」
「違うの、足が何かに引っ掛って」
そう言いながら足元を見た彼女は
「あ! 見て、これ! 罠!」
「…罠?」
ジョーが見ると、何故だかアーチ状に結ばれている草に彼女のつま先が掛っていた。
「妖精よ!」
興奮した口調で突然リリが言い放った。
「…なんだって?」
ぽかんとジョーは訊き返す。しかしリリは嬉しそうに、
「悪戯好きの妖精が作ったのよ! あ〜〜〜、引っかかっちゃった〜〜〜」
おでこに手をあてて参った素振りをしながらはしゃぐリリを、ジョーは呆れながら
「……おまえ、脳みそ大丈夫か…?」
と言って一歩踏み出し、しかし彼女と同じようにつまずいて草むらに倒れ込んだ。見ると、ジョーのつま先も、草のアーチに引っ掛かっている。倒れたままのジョーの横に座り込んだリリは
「あ、ねえ、こっちにもある! あっちにも! ここできっと、妖精たちが遊んでたのね」
と笑っている。

 ふと、ジョーは思い出した。
―――これはね、妖精の国への入り口なのよ。小さくなる魔法をかけてもらえたら、ここから入って行けるの。だからまず、その魔法使いを探さないとね!
「……ああ……、母さん、メルヘン少女だったっけな……」
思わずジョーは母国語で呟いた。突然、聞きなれない言葉がジョーの口から流れて来て、リリは訊き返した。
「なに?」
「……お袋がおまえみたいなコト、言ってたなぁって思い出したんだよ」
「お母さんが…?」
「妖精の国の入り口だってさ」
「ステキ!」
リリの目がらんらんと光る。
「まったく、同類だな」
また母国語で呟くジョーに、リリはムッとした表情で言った。
「ねえ、私の分らない言葉、私の前で使っちゃイヤ」
即座にジョーは、以前、目の前でアレンとリリに月語で会話された事を思い出した。自分もしておいて良く言うぜ、と、つい喉元まで出かかった時、
「なんか悪口言われてるような気がしちゃうの、ラスポウナみたいに」
そう言われて、また妙な気分に襲われた。ヘッシュ語なんて知らないくせに、この言葉だけは発音も完璧に使えるとは…。
(悪口どころか、正反対の言葉だぜ…)
と思いながら、
「バーカ」
と言って立ち上がった。
「もう、ジョーったら!」
「ちゃんと共通語で言ったじゃん」
まだしゃがんでいる彼女へ向けて、自然と手を出していた。その手を一瞬だけ見つめてからリリは自分の手を重ねた。お互いにぐっと力を入れて握り合う。でも、引っ張り上げたあとは、離れてしまう手。繋いだままで歩く勇気と口実がどちらにもなかった。





 見晴らしの良い小高い場所で昼食にした。結局、彼女は弁当を作った。朝、寮の脇の待ち合わせ場所に迎えに行くと、大きなリュックを背負った彼女が立っていた。出発そのものが早いので、そうとう早起きしたに違いなかった。彼女の力作は旨かった。紅葉こそは疎らになってしまっていたが、清々しい初冬の青空の下で食べる彼女の手作り弁当は格別だった。それとなくジョーの好みが並んでいる。すでに把握しているのか。頬張りながらニヤつく。
「ねえ、さっき、何のお花を探してたの?」
「いや、探してたって程の事じゃねーよ。最近、見てないなぁって思ってさ」
「何の花?」
「んー。ユマリア」
ジョーの両親が、お絵描きオムライスに描いていた花の名だと、リリは分った。
「最近って、地球では見てないってこと?」
「ん…。あれは改良モノだったからなぁ」
僅かにジョーの口が尖る。これはかなり残念がっているサインだ。
「行こうよ、ヘッシュ」
突然、明るく言われて、ジョーはぽかんと彼女を見た。
「ジョーの指名手配ってもう取り消されてるんだよね? 帰ったって捕まったりしないんだよね?」
「……そうだけど…」
「じゃあ、何の問題もないじゃない、他で探してるより確実だもん、行こうよ!」
行こうよ、とは……。いくらでも意味深に取れる提案に、ジョーは返答の言葉を失い、ただ彼女を見つめた。
そこでようやくリリは、自分の使った言葉が図々しかったと思い当たり、訂正にかかる。
「い、行って来てみなよ……。ね?…」
しかしジョーは逃がさなかった。
「確かに、あった場所に行くのが確実だよな。言い出したのはおまえだからな。もし、行くような事になったら最後まできっちり付き合えよ」
それは、一緒にジョーの故郷へ行くという事か……。胸がドキドキし始めた。言い出しっぺだからという理由なのだと言い聞かせようとしても、どうしても特別な誘いのように感じてしまう。
「………しょうがない、行ってあげるよ、一緒に」
わざとおちゃらけて答える彼女の頬を、ジョーは左右にひっぱりながら
「偉そうじゃねーかよ、あ?」
と言った。

 一緒に行くと言った。ヘッシュに、オレの故郷に。

 たちまちジョーは想像した。あの広大な庭にリリと立つ自分を。色とりどりの花々に溢れた庭園を、コイツはどう思うだろう、リリの花もたくさん咲いている。喜んでくれるだろうか。

 ジョーははっとした。家を飛び出して以来、再び帰る事はないと固く思っていたのだ。それなのに、今、あっさりと帰ったシーンを想像していた。こんな事は初めてだった。
 どうしてなんだ? と焦る自分を置き去りにして、リリと歩く故郷の想像が暴走する。それはとても甘美で、抵抗するのが難しい。
 本当に、こいつと行けたら……今日みたいに。
 きっときっと楽しいだろう。そしてオレは、故郷へ来た事を、良かったと思えそうだ………。





 午後、リリはずっと考えていた。
―――ジョーの故郷へ一緒に行く。
言葉のあやだと思ってはいたが、でも本当に行けたらどんなだろうと想像した。
それはとてつもなく楽しかった。
元貴族の花園はそれはそれは素晴らしいだろう。
だがそれよりも、ジョーが過ごした庭を一緒に歩くなんて、そんな事が本当になったら、それはとても光栄なことに違いない。大事な思い出の場所へ入ることを許された、特別な存在のような気になってしまう。でも、特別って『固い友情』? 
それは…分らない…どんなつもりでジョーが一緒に来いと言ったのかは、ジョー本人しか知らないこと。
堂々巡りの想像は、こうしてまた頭に戻る。言葉のあやだったのだ。それでももし本当になったら……





 ふと、顔を上げたリリは、少し離れた場所で、花々の中に佇むジョーを見つけた。足元を色取る草花たち。
その瞬間、前にもこんな風に誰かを見た記憶が頭の中で弾けた。あれは誰だったのか…? 名前などは思い出せない。顔は……ジョーに似ている気がする…! 金髪でスラリとしていて、こちらを見た顔の綺麗だったこと…! 何かを探しているように俯きながら歩いていた人影…。
 リリの心臓がどくんと跳ねた。思わず立ち上がり、ジョーへ向かって走り出した。
 転がるような勢いで駆け寄り、ぐっと腕を掴んできたリリにジョーは驚いた。
「どうした? 妖精のバケモンでも出たか?」
「ううん、違う…。なんかね、こうして花の中に立ってるジョーをね、前にも見た様な気がしたの。デジャヴって言うんだよね、こーゆーの」
「…デジャヴは怖かねーぞ」
ジョーの言葉で、初めてリリは自分が震えていることに気付いた。リリは、記憶の中のジョーに似た人が、あまりに儚げだったので、ジョーも消えてしまうんじゃないかと焦っていたのだ。
「デジャヴってのは夢か気のせいだって話じゃん。オレよく花背負ったポスターとか描かれるから、だぶったんじゃねーの?」
ジョーはそう言いながら、自分の腕をつかんでいるリリの手を、そっとぽんぽんと叩いた。
「……そうだったよね。花とフリルの貴公子だっけね……ぷっ!」
リリは噴き出した。
「笑ってんじゃねーぞ、このクソボーズ」
多分、海賊アルテミスとしての記憶の断片なのだろうと、ジョーは思った。しかし、まだジョーは気付かない。V145・コロニー“コーナ”で、遠くから自分を見ていて、目があったとたんにバイクに乗って走り去った女が、目の前にいるリリであり、リラであり、海賊アルテミスなのだということに。





 空に星が瞬く頃、すっかり冷たい空気になった中をバイクはマンションへ帰って来た。彼女を後ろに乗せたまま。
泊まる話ではなかったので、リリは所在無げにおずおずとバイクから降りた。
「あ、寮に送るんだったっけ」
ジョーは今気付いた風を装ったが、本当は分っていて連れて来たのだ。
 背中にずっと感じている温もりを手放したくないと、どうしようもなく思ってしまったのだ。今までのジョーだったら、寮まで送るのが面倒くさくなったとか、いろいろろと自分に言い訳をしていたものだが、今夜の彼は、もう理由なんてどうでも良かった。とにかくまだ帰したくない。一緒にいたかった。
「明日、何か予定あった?」
「明日は、ジョーの家政婦でしょ…?」
「あー、そっか」
明日の予定も無論知っていた。(どうせ明日もここで過ごすんだから、今夜から居ても同じだよな)と、勝手に都合良く考えて連れて来たのだが、内心恐る恐る最終確認する。
「家でやりたい事とかあった? なら送ってくぜ?」
そう言われてリリは、今から寮まで送ってもらうと、ジョーが帰宅して休むまでに小一時間はかかってしまうと考える。この寒い中をまたバイクで走らせるのは申し訳ない…と。やりたい事など特別にはない。週末はジョーの家政婦業に費やす事にしているのだから。それに、まだジョーと一緒の時間を過ごせる事が、とてつもなく嬉しい。
「明日の家政婦のお仕事の準備があったぐらい」
「準備? おまえがいれば他に何もいらないじゃん」
「………」
ジョーは何も間違った事を言ってはいないのだが、リリはうっかりドキンとしてしまう。
(勘違いしちゃダメ、家政婦の事を言ってるだけなんだから)
言い聞かせながら、平静を装って答える。
「そうだよね、エプロンもあるしね」
「んじゃ、泊まりでいーな」
ジョーは、エレベーターのボタンをポンと押した。扉が開く。大義名分を掲げてようやく一緒にいる時間を獲得した二人は、エレベーターに乗り込んだ。



 部屋の空気は、外程ではないがやはり冷えていた。ジョーはすぐに暖房を入れた。電気を使った弱い暖房だ。

 昔、地球を苛め抜いて、とうとう住めない星にしてしまった人類は、太陽系内の宇宙に散らばるしかなかった。数百年を経て地球が再び人類が住めるほどに回復した時、「地球に優しく」を肝に命じた僅かな人類は地球へ降りた。
高度文明とエコ生活をうまく調和させながら徐々に人口は増えて行った。
 あれから百十数年、地球に優しいエネルギーの電気を、地球に負荷をかけない量だけ生産し、皆で少しずつ使っている。
 ジョーの住んでいる高級マンションも例外ではない。冷暖房は弱い。それでも、各人が工夫して暮らせば何の問題も無かった。


 暖房のモーターが動き出す音を確認したジョーが、ジャケットを脱ぎながら振り向くと、リリは部屋に入った所で、もじもじとリュックを下ろしていた。その、お客様的な態度がジョーの気持ちを尖らせる。
 
 三週間前までは住んでいたくせに。
 その後も毎週末、来ているくせに。

「あの…、コーヒー、淹れようか?」
ようやくジャンパーを脱ぎながら、健気にリリが言う。リリのコーヒーは魅力的だが「あくまでも家政婦だからここにいるんです」と言っているようにも取れて、ジョーはますますムッとなる。そのジョーの心情はリリにとっては理不尽だ。むっとしながらもジョーだって分っている。 
「今日はおまえ、家政婦じゃないんだから、気にすんなって。でもまあ、せっかくだから、一息入れるか。おまえもな」
「うん」
ぱっと笑顔になって、リリはキッチンへ入って行った。
 キッチンの中では、先ほどのもじもじは消え、てきぱきと動いている。勝手知ったる自分のキッチンのように。

 ジョーの気分は回復した。キッチンの彼女を横目で見ながら、バスルームへ向かったジョーは、バスタブにバブルバスを垂らして、お湯の蛇口を回した。湯気と共に勢い良くバスタブへ落ちる湯は、たちまちたくさんの泡を作り出した。ほのかに漂い始める花の香り。リリの花の香りに似ている。たまたまバブルバスが切れたので買いに行った先で見つけたのだ。バスルームに広がる香りを確認して満足すると、ジョーはリビングへ戻った。

 リビングはコーヒーの香りに満ちていた。いい香りだ。キッチンへ入る。ちょうど食器棚からカップを出そうとしているリリの背後に立ち、彼女の頭の上を越えて、大きなガラスのコップを取り出した。
 背後から突然にゅっと手が出て来たのでリリは驚いた。
「なあに?」
「ん? 花」
ジョーはコップに水を入れるとキッチンを出て、リリのリュックに入れて持ち帰った花をコップの中で水切りし、切られた茎を拾い出してから花を挿した。白い花びらの中央が淡い黄色の控えめな花だったが、それでもジョーのシンプルなリビングには充分な明るい差し色になった。
「良かった、しおれてないね」
コーヒーを運んで来たリリが、嬉しそうに言う。当然である。ヘッシュのジョーがそんなヘマをするはずがない。ちゃんと切り口に水分を与えながら持ち帰った。すぐ横にしゃがんで花を眺めているリリにジョーは訊ねた。
「ほんとに病院に持ってくの?」
「うん。窓口に置いたら綺麗だもん。………だめ?」
「いや、ダメってわけじゃないけど……。ミネルバに訊かれるぜ?」
リリは、はっとした。容易に想像できた。
――まあ、可愛い花、どうしたの?
リリは頭の中でぐるぐると返答を考えた。まず、一番シンプルな真実を口に出してみる。
「……『ジョーと出かけて、摘んできたんです』……?」
ジョーの顔を見ながら言う。
「…まんまじゃん」
「…だめ?」
 
 大きな灰紫色の瞳が、目の前で自分をじっと見ている。部屋が温かくなって来たからか、頬はほんのり朱い。可愛いと思ってしまう。今日ずっとヘルメットを被っていた頭は、いつものふわふわ感がなくてぼさぼさしているが、それすら可愛い。可愛くて目が離せない。

 ジョーがじっと黙ったまま自分を見ているので、呆れているのだとリリは思った。慌てて違う言葉を考え始めたが、
「いんじゃね。ミネルバだし」
と言いながらジョーはコーヒーカップを持って立ち上がった。

 そのまま煙草を掴んでテラスへ向かった。リリもカップを持って後を追う。
後ろから付いて来たリリにジョーは、
「寒いぜ?」
「コーヒーが温かいから」
大丈夫、と笑いながらベンチの端に腰を下ろした。
 
 ジョーの横顔が、ライターの炎に照らされて浮かび上がる。陰影が深く美しい。ジョーったら、なんて綺麗なんだろう、と思ってしまう。綺麗なんだけれど、それは決して女っぽいという事ではなく、むしろこうして煙草を咥えている姿などは、男らしくてドキドキしてしまう。
 目が離せずに見つめていると、ジョーが振り向いた。じっと見ていたのがバレそうで、焦ったリリはとにかく何かしゃべり始める。
「あの花の名前は、ウインターコスモスだよね、コスモスじゃないけど、似てるからコスモス」
「……。良く覚えてるじゃん」
「うん! 花言葉は?」
「………」
ジョーはすぐには答えずに、視線を外してコーヒーを啜った。ウインターコスモスの花言葉を、頭の中で確認する。とんでもなくロマンスに満ちた類だ。
 しかし今日のジョーは、素直にそれを教えたくなった。
「『淡い恋』。…と、『もう一度愛します』…」
 恋だの愛だの、遊びの席で散々言い慣れて来た言葉だが、今は最もプレイベートな場所だし、リリは遊び相手でもないので、さすがにリリの顔を見ながらは言えずに、紫煙を空へ吐き出しながら言った。
 ジョーの口から「愛します」などという言葉が出て来て、リリはドギマギしてしまった。花言葉を言っただけなのに、バカみたい…!と思いながらも、ドキドキは止まらない。
「ふうぅん……すごいね、ロマンチック」
何とかそれだけ言うとコーヒーを啜る。ジョーもじわじわ湧いて来る照れ臭さを誤魔化そうとコーヒーを飲みながら返した。
「まあ、花言葉なんて大半がそんなもんだ」
「そうなんだ…」
ふと、思いついてリリは訊ねた。
「ねえ…、リリの花言葉は『幸せになるように』だよね?」
ジョーからこの花を貰った時「おまえが、この先ずっと、幸せでいられますように」と言われたので、リリはそれが花言葉だと、何となく思っていたのだ。
 
 ジョーは今度こそ返答に詰まった。
確かにそう言いながら彼女に花を贈った。でもそれは、リリの花言葉ではない。
 ジョーがまた黙ったままなので、間違えてしまったのかとリリは焦った。
「あ、『幸せでいるように』だっけ?……えと、でも、幸せを祈っているって内容の言葉だったよね?」
 ジョーこそ焦った。そんなに突っ込むな…! と願いながら、どう切り抜けようかと考える。ラスポウナの時のように、適当な事を言って誤魔化してしまおうか…と思ったが…。
 
 リリの花を気に入っているのに、その花言葉を間違って覚えているのは、あまりに可愛そうだ…と、ジョーは思ってしまった。

「花言葉は、迷ってたおまえにちょうど合ってたから……」
「迷ってた…?」
「『私は誰』とか」
「あ…うん…」

レース前夜の海での事をリリは思った。
暗い波間に沈んでしまいそうな心も躰も、ジョーが何度も引っ張り上げて救ってくれた。一緒にびしょ濡れになって、わめき散らしてただろう私を、根気強くなだめてくれた……。
 
 ジョーのがっしりとした胸に抱きしめられている感覚がフラッシュバックする。
 波に邪魔された足の重み。海水が目に沁みた痛み。ジョーに強く抱えられた束縛感。酸素不足で遠のく意識。胸が潰れそうになって、頭が痺れて、息ができなくて……。
 リリの追憶は初めてそこで立ち止まった。

 ……どうして呼吸が出来なかったんだっけ…?

 花言葉をどう切り出そうかとジョーが躊躇していた僅かな間に、リリははっきりと思い出した。―――あの夜、悲しくて悲しくて取り乱していた自分を、どんなふうにジョーが落ち着かせてくれたのか。
 
 呼吸が出来ないほど、ジョーに塞がれていた。意識が遠のくほど、長い時間。
月明かりの海の中で、ジョーと私は……………


 手が震えてコーヒーカップが滑り落ちそうになった。
「あっ」
小さく叫んで両手で包み直した。ジョーが振り向いた。つられてリリも振り向いてしまう。目が合う。いつも通りのジョーだ。唇を重ねた仲だとは夢にも思っていなかったさっきまでと、何も変わらないジョーが自分を見ている。うっかり唇を見そうになって、慌てて視線を外した。
「冷えたんじゃねーの?」
カップを落としそうになった理由を勘違いして、ジョーは彼女の手を片手で無造作に包む。
 視界の中に突然入って来たその大きな手は、難なくリリの両手をカップごと覆ってしまう。
 重なった手を見つめるリリの心臓は、ドッドッドッド…と痛いぐらいに急加速した。ジョーの耳にまで届いてしまいそうだ。
「…そうかな…」
と、動揺を押し殺して何とか返事をしてみる。
「先に風呂入っちゃえよ」
「うん、ありがと、じゃ、そうするね」
ジョーの手が離れたので、リリは立ち上がった。
「パジャマ、どれ使ってもいーぞー」
「ありがと」
ジョーの顔を見ることが出来ずにリリは室内へ入った。
 バスルームへ行く前に寝室へ寄って、先々週にやはり突然泊まる事になってジョーが貸してくれたシャツをクローゼットから探し出した。
 一瞬、いったい私はここで何をしているんだろう、と思う。 

 ジョーのシャツをパジャマ代わりに着る。
 ジョーの部屋に泊まる。
 手に触れられる。
 キスを―――…………。

 きゃーーーーーと心の中で叫んで、バスルームへ飛び込んだ。
泡のバスタブの中へ躰を沈める。落ち着こうと言い聞かせる。
 
 あの夜の海で…、ジョーは取り乱している私の口を塞ぐためにキスした。多分、暴れていた私を抑えていたから手は使えなかったんだ。
 効果的だったよね、酸素不足でぼーとなっちゃって、おとなしくなったんだろうから。
 そうか……つまり……。あれはキスなんかじゃない。ただ、喚くのを止めさせる手段。
 
 客観的に見られた途端、彼女の胸に勢いよく湧いた感情は、涙になって溢れ出た。
(ジョーにとって、唇を重ねることなんて、たいしたコトじゃないんだ)
初めてパーズンで会った時も、ヘルメットが取れなきゃキスできないぜと笑っていた。
彼女でもなんでもない女とも平気でキスできちゃう人なんだ。だって私にキス(ただの手段としてだが)してからもジョーの態度は以前と何も変わらない。
 本当にジョーにとっては何でもないコトなんだ…とひしひしと実感するにつれ、涙はますます零れた。

 あのキス同様、ジョーのシャツを着ようと、ジョーの部屋に泊まろうと、それらはただの手段で、何か特別な意味があるわけではないのだ。
 
 すっかり見慣れたジョーの大きな手が、包んで温めてくれたり、導くように繋いでくれたり、そっと頭を撫でてくれたりしたのは……感謝しなくちゃならない事なんだ。
 勘違いしてはいけない、ジョーの優しさを。
 
 涙を止めようと大きく深呼吸したリリは、バスタブの空気がリリの花の香りに似ていることに気付いた。何度も大きく吸い込んでみる。
 家政婦リリは買った覚えがないので、ジョーが用意したのは間違いない。やっぱり優しい。感謝しなくちゃと強く思い直し、止まらない涙をごしごしと拭った。
 




 ………結局リリの花言葉を教えずに済んでしまった。せっかく覚悟はしたが、うまく説明する自信がなかったので、まあ、いっか…。
 煙草を吸い終わっても、コーヒーを飲みながらジョーは夜空を見上げていた。





 ジョーが風呂から出てリビングへ戻ると、リリはソファで眠ってしまっていた。ジョーのシャツだけでは足が丸出しで寒いので、ソファの上で横座りをしながら足に毛布を掛けている状態で、そのまま腕掛けを枕にするように倒れ込んでいた。
 ジョーはそっと正面に回り込んでしゃがんだ。リリは熟睡しているようだ。微かな寝息がする。まったく起きる気配がないのをいいことに、寝顔を堂々と見つめた。
 
 熟睡している、オレの部屋でコイツが。可愛い顔で無防備に眠っている。

 つい、頬が緩む。

今日一日のリリの姿を思い出しながら彼女を見つめる。楽しそうにはしゃいでいた。様に見えた。背中にずっと彼女を感じて走った。楽しかったのは彼女だけじゃない、自分も充分に楽しかった。
 ニヤニヤしながらずっと見つめていたかったが、冷えて来てしまったので切り上げることにした。寝床であるソファを奪回するべく、彼女を寝室へ運ぶ。

 こうしてリリを抱えて歩くのは何度目だろう。なんだかすっかり慣れている。初めて抱き上げて歩いたのは、あのプライベート・ビーチの夜の海から浜に上がるまで。キスした後だ。
(あいつは今だに、キスされたなんて思い出しもしねえみたいだけどな)
軽く溜息を付く。
(まあ、思い出してぎくしゃくされるよりましだからな)
と思うくせに、ため息を付いている事には気付かない。

 あの夜から一か月以上、抱き上げるのはリリだけだ。
それもそのはず、夜遊びがぴたりとなくなっている。どこの真面目人間だ、と笑える。
 
 寝室のベッドの上掛けを足で器用に蹴り上げる。そこへそっとリリを下ろした。彼女を包んだままだった毛布を慎重にゆっくりと彼女から抜き取る。この厚手の毛布がないとソファで寝るのは無理なので返してもらう。すっかり毛布をはがすと、彼女の脚が薄暗いベッドの上に浮かび上がった。その白さの艶めかしさに、慌ててジョーは上掛けをすっぽり彼女に掛けた。上掛けやシーツの冷たさに彼女が目を覚まさないように……と祈りながら、素早く寝室を出た。

 そっとドアを閉めると、リビングへ向かう。いいかげん自分も眠かった。一日中バイクで走っていたのだ。しかも責任を後ろに乗せて。
 毛布をばっと広げると、ソファにどすんと横になって落ちて来た毛布に包まった。あっという間にジョーは睡魔王に連れ去れた。
 ところがすぐに引き戻された。瞼は重くて開かないが、腕を揺さぶられている。
「ジョー」
リリの声だ。リリは睡魔王より強力なキャラだったのか。
「どうした……?」
何かあったのかとジョーは顔を上げた。膝をついているリリの顔が、ぐいと近寄って言った。
「ベッドで寝よう」
「……あ?」
本気で意味が分らず聞き返す。
「寒いから、一緒にベッドで寝よう」
「あ、寒くて寝れねーの? ええっと、待ってろよ、なんか引っ張り出して、」
独り暮らしなので、そんなにたくさん寝具の持ち合わせはない。毛布の代わりになるような物があるかと、眠りかけていた脳みそを一生懸命に叩き起こしながら、ジョーは上半身を起こした。
「違うの、ソファで寝ちゃダメって言ってるの。さっき天気予報が言ってたの、今夜はますます冷え込むでしょうって。だから、ベッドで一緒に寝て」
ジョーの目を真剣に覗き込んでリリは力説した。
「さっさとベッドに戻って寝ろ!」
何を言い出すのかと思えば、一緒に寝ようだと?
ジョーは完全に目が覚めてしまった。せっかく運んだのに!とか、この毛布をなめんなよ?とか、「ジョーがベッドで」と言わずに「一緒に」とは学習したなコイツも…とか、ぐるぐると頭の中で回った。しかしリリは言い切った。
「一緒じゃないとイヤ!」
リリの反論にジョーは答えず、背中を向けてソファに横になった。
「ジョー!」
返事のない背中に困った彼女は強硬手段に出た。
「わかった、じゃあ、私もここで一緒に寝るね」
言葉の意味を理解する間もなく毛布ががばっと剥がされた。と同時に、どすんという衝撃がジョーの躰に走った。リリが馬乗りになっていた。
「失礼」
怒ったような顔でそう言いながら、ジョーの躰を跨いで、ジョーとソファの背の間に無理矢理入り込んで来た。
 
 以前にもこうやってソファ争奪戦をした。同じようにリリが強引に躰をねじ込んで来たので、あちこち押し付けられ、あっという間にジョーが逃げ出したのだ。理性のあるうちに離れないとやばいと思ったからだ。

 そのようなダメージを与えているとは知らない天然リリは、それでも自分なりに努力はしていた。シャツが捲れて太腿が出てしまわないようにとか、ぶかぶかの襟元から肩が出てしまわないようにとか。太腿も肩も出さずに済んだが、ジョーの裸足にリリの生足が触れてしまうし、ジョーの腕にはリリの胸が触れていた。
「落ちないでねジョー」
リリが言う。もちろん、ソファから落ちるなと、ただ普通に言っているのだが。
―――堕ちないでね……。
と、甘く囁かれたようだ。さらにそれは、本能の底へ堕ちろと誘っているかのようにも響く。
 甘美な誘惑に痺れそうな頭でジョーは考えた。すでに躰は半分ソファからはみ出ている。本音が漏れる。
「ムリだ。落ちるに決まってる」
どっちがだ? 躰か? 理性か? 
「え、じゃ、もっとこっちに」
天然炸裂、心配したリリはジョーの腕を抱き込んで引き寄せた。柔らかい衝撃がジョーの二の腕に広がって、強い刺激がジョーの躰を貫いた。
 これ以上、こんなに密着していられない。どんなに頭で「コイツはボーズで女じゃない」と唱えても効力はゼロだ。
 コイツは女だ。しかも可愛い。そう、可愛いんだ! オレは可愛いと思ってる! 悪いか!

「わーーーーーーーー!!!!」
ジョーは叫んで飛び起きた。そのままの勢いでソファから下りた。きょとんとして見上げているリリに向かって言った。
「こんな狭いとこに二人で寝れるわけねーだろ! 起きろ!」
「え…?」
「ベッドで寝りゃぁいいんだろ?! 行くぞ!」
リリの顔をまともに見れないジョーは、さっさと寝室へ向かう。後ろからリリの足音が追い駆けて来る。小さな早い音。
(あー、マジか…)
足音すら可愛いと思ってしまうとは、かなりの重症だ。何なんだ、どうしたんだ、とまごつきながら寝室へ一歩入って、一瞬立ち止まる。自分の見慣れたベッドなのに、やたら艶めかしく大きく見える。
(この上でこれからオレは一人我慢大会か)
絶望的な気分になる。
(いや、疲れているから案外早く寝ちまうかも!)
睡魔王が光速で来てくれる事を祈りながら部屋に入ろうとした時、追いついたリリが先にベッドに上がろうとした。
「待て、オレが奥」
うっかり彼女を引き戻すために、肩に手をかけてしまい、その細さに打ちのめされる。華奢な肩。
 ジョーはぶすっとした表情を作って、ベッドに上がり、奥へ移動する。
(右利きのオレの、右手を野放しにするなっつーの!)
もし。万が一、理性が消し飛んで彼女と向かい合おうとした時、右側が下になれば、自由になるのは左手だ。左手でもたもたしているうちに理性が戻るかもしれない。ジョーの涙ぐましい切り札だ。
 
 そんな数多の努力を何も知らないリリは、思いっきりベッドの端にいるジョーに、一生懸命に上掛けを掛けてくる。
「おまえの背中が出てるんじゃねーの?」
「え?」
案の定。
「じゃ、ちょっと寄らせてね」
そう言うと、リリは「よいしょ」と言いながらにじり寄ってくる。
「いや、いい、オレがもっとそっちに行くから」
リリに寄られて逃げ場が無い状態で我慢大会がスタートするのは避けるべきだ。
 こうして二人はベッドの中央に並んだ。ジョーは接触点が無いように細心の注意を払いながら、彼女に背を向けた。背後で彼女が言った。
「ねえ、あのね、今日は楽しかったです。連れてってくれてありがとうございました。ふふ。おやすみなさい、ジョー」
(可愛い事を可愛い声で言うんじゃねーよ…!)
「おう」
暗闇で良かった、きっと今、オレはいつもの顔じゃないと思いながら、ジョーはぎゅっと目を瞑る。
(睡魔王、早く来い!)
切望した。しかし、睡魔王は先にリリの元を訪れたらしい。規則正しい寝息が背後から静かに流れて来た。
(くそ、睡魔王め、女好きかよ)
悪態をつく。がすぐに、
(いや、レディファーストってことだよな、じゃ次、オレの事もよろしく)
と下手に出てみる。とにかく眠ってしまいたい。おかしなことをしでかしてしまう前に。
(夢でやっちまった女は、実際惚れてるんだよ)
突然メッカがにこにこしながら言い放った。ジョーはせっかく瞑っていた目をかっと開いてしまった。鼓動も跳ね上がる。メッカの笑顔が憎らしい。違う事を考えようと必死になった。しかし違う事が何も浮かばない。夢の中のリリが思い出されるばかりだ。自ら我慢大会の難易度を上げている。何をやっているんだオレは……。
「はあ〜………」
思わず大きなため息をついた。すると背後でもそっと動く振動があった。
「ジョー、狭い……?」
ジョーは振り向いた。眠っていたリリが目をこすりながら、
「ごめんね」
と、後ろに下がろうとした。ジョーは慌ててリリに向き直り、
「狭くなんかねーよ、そんなに下がると落ちるぞ」
「先に落ちちゃってて、ごめんね」
「え?」
「今、寝ちゃってた、ジョーより先に」
「あ、ああ、寝落ちな、謝んなよ。寝ろよ、今朝早かったんだから」
「それはジョーも…」
「だって、あの弁当作るの、何時に起きたんだよ」
「うーんとね……忘れた……」
「絶対おまえの方が早かったって」
「でも、ジョーはずっと運転してて大変だったじゃない」
「オレが行きたかったんだからいいんだよ」
「私も作りたかったから、いいの」
ジョーの胸がきゅんとする。
「……旨かったよ、サンキュな」
「へへへ。家政婦リリもなかなかでしょ…?」
「はいはい、成長したな」
「あ、ねぇ……、バブルバス、あれ……リリの花でしょう?」
やっぱ気付いたか!とジョーはほくそ笑む。
「……似てるってだけ。パッケージに何も書いてなかったし」
「じゃあ、リリの花だと思ってもいいんだよね」
「いいんじゃね、別に……」
「ねえ……ジョー、ジョーのお家の…お庭には…リリの花、ある…?」
「………あるよ……リリは、春…」
ジョーの声で「リリは」と聞くと、自分のことではないと分っていてもリリは胸がぽっとなる。
「…春?…」
「…行くなら春だな…」
行く、とは……昼間の続きだろうか。“一緒にヘッシュへ行く”という話。
「ユマリアも…咲いてるし……」
「うん…」
「庭中満開だ………」
ジョーの胸の中に庭園の香りが広がった。陽光を浴びて輝く花々。スカイビジョンの青空に白い雲が浮かんでいる。懐かしい風景の中に、リリの声が柔らかく流れて来る。
「お母さんと見つけた、妖精の入口は……?」
「……ああ……、あれは……裏庭…」

 母親と小さな自分が、裏庭の草むらの中にしゃがんでいる。妖精の入口だと言われて、他にもないかと夢中で探す。見つけて得意気に振り返ると、日傘を差した母親がすごいすごいと褒めてくれる。大輪の花のような笑顔。その笑顔を見るのが嬉しくて。
――ねえ、ママ、これは、妖精の罠だって言う女の子がいるんだよ。
――まあ、そうなの? 
――このうちのどれか一つが妖精の国の入口で、他のは目晦ましの罠なのかもね!
――そうかもね! …ねえ、ジョー、そんな事知ってるなんて、その子は妖精なんじゃない?
――え? 違うよ、人間だよ。でも、妖精みたいに可愛いよ。
――あら、ママも会ってみたいわ。今度連れていらっしゃいな。
――うん!

 春になったら、連れて行くよ。リリの花が咲いた頃に。……ボク、その子にリリを贈ったんだ。返事はまだだけど……。

 自分の家の裏庭で、大好きな母親と過ごすジョーは、穏やかな気持ちに包まれ、いつしか寝息を立てていた。
 ジョーの言葉を待っていたリリも、ジョーの寝息に誘われるように眠りに落ちた。
 そのまま二人は向き合いながら、お互いの寝息と温もりを心地よく感じながらぐっすり眠って朝まで起きなかった。



    第32話  フェアリーズ・トラップ   END
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