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第29話 臨時休業 |
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金曜日の午後。パーズンのピットでは、二台のバイクを囲んで、メッカ、ニック、そしてジョーの三人が浮かない表情で立っていた。咥え煙草のまま、ジョーがぼそりと確認した。 「―――で、こいつらの納車って、明々後日、月曜だったよな?」 「ああ。明日と明後日の土日、目一杯使ってぎりぎりだな」 メッカが的確に予想する。逆境に燃えるタイプの若いニックが 「しょーがねぇじゃん、やるっきゃねーよ」 その横で、煙を吐き出したジョーは、 「だよなぁ。悪いな、二人とも…。交代で代休取ってくれな」 と諦めた。さっそくメッカはニックと段取りを始めた。その二人の背を見ているジョーの心中では、ドス黒い暗雲が急速に広がっていた。 このバイク達は先日仕上げて納車した物だったが、その直後に不具合が公表された部品を使用していたため、急遽やり直しをする事となったのだ。落ち度のない客側の納車期限が三日後。地方のミニレースに出るらしい。全面的に部品メーカーのせいだと強調して逃げることも可能だが、海賊ジョーのバイクショップ・パーズンとしては、それは有り得ない選択だ。(しかも、燃える若手メカニックもいる。) すべて納得したうえで、それでもジョーは面白くない。 明日は土曜日、家政婦と契約した日なのだ。しかし、仕事になってしまっては来てもらう意味がない。いや、大半の場合において、家政婦の仕事に主人の不在は関係ないのだが、ジョーにとっての『家政婦リリ』は、主人の在宅に限り働く意味があるらしい。 ジョーは深く一呼吸つき、発想の転換を図った。 (まぁ、あいつも丸々休ませてやれるから……ちょうどいいか……) 病院勤めも二週間。緊張と疲れが溜まっているはずだ。そう考える一方で、次に彼女の顔を見るのはずいぶん先になる…と数える。二週間空けるという事だ。 (二週間!?) この時点で半分は過ぎているのだから、『これから一週間先』なのだがそんな事はどこかへ飛んでいる。ポーカーフェイスで煙草を吸っている彼の胸中はまさに嵐だ。 「戻ったぜ〜」 のんびりとした口調で、やって来たのはケンだった。すぐに見た事のあるバイクに気付いて、 「あ、それ、例の?」 「ああ、いや、ケンは普通に休んでくれよな。ショップは開けねーし。つか、ケンはライダーだし」 「……それはジョーも同じだろ」 「オレは両方じゃん」 ライダーとメカニック、と言うより何よりジョーは経営者だ。 病院帰りのケンにメッカが訊ねた。 「リハビリ、順調なんだろ?」 「ああ、うん、やっと次でおしまいだってさ。で、主治医がさ、責任者に治療終了の説明したいって言うんで、一緒に行って貰えるかな、ジョー」 何とかリリに会う方法はないかと考えていたジョーは、ケンの話も上の空だった。 「え? あ、どこに行くって?」 「病院だよ、俺のかかってる…ミネルバのいる病院」 (病院?! そうか、オレが行けばいいんだ!) ケンにハグして礼を言いたい衝動を抑えてジョーは答えた。 「ああ、行くよ、もちろん。いつ?」 「来週の火曜日」 「納車の翌日だな、OK」 よし!と叫びそうになって、慌てて奥歯を噛みしめる。するとケンが面白そうに話し出した。 「サンキュー。今日さ、ミネルバんとこに寄った時さ、リリが病院内で迷子になってて、ようやく戻って来たとこでさ」 「女って、なんでああ方向音痴なの?」 幼馴染のディミーを頭に浮かべながら、ニックが言った。 「リリは筋金入りだよな。自分の勤め先で迷子になんねーよな、普通。でも、先週よりはしっかりしてたな。慣れて来たカンジっつーか、スタッフ顔も板について来てたし、案外可愛いんだぜ、制服姿」 がぼん!と煙草の煙に咽たのは無論ジョーだ。ケンがリリを可愛いと思うなんて! 密かに激しく動揺する。 「マジで? すっげーそそるよな、白衣の天使」 健全男子のニックは一般論としてにやけながら言う。全く悪気のない無邪気なニックに、ジョーは無性に腹が立ちつい口が滑った。 「アイツは受付だから白衣じゃねーだろ」 え、そうなの?という表情のニックとメッカ。そして、先週、実際に会うまでは白衣だと思っていた口だったケンは不思議そうに言った。 「ジョー、良く知ってるな」 「カサリナで言ってたじゃんかよ」 ジョーはしれっと答えた。 一週間前に集まったアレン達の壮行会で久しぶりに会った彼女は、チーム・ハザウェイからは離れた席にいた。ディミーやゴセに話している内容が流れて聞こえて来る程度で、直接詳しい事は聞いていない…と、メッカもニックもケンも記憶している。だがその時に「白衣は着ていない」みたいな会話が聞こえて来たかもしれない、これも記憶にないけど…と、三人が三様の表情で考えていると、ショップの方でドアの開いた音がした。ジョーは渡りに船とばかりに言った。 「ケン、客だ」 「あ、ああ…」 ケンは腑に落ちないまま、しかし素早く、店の方へ戻って行った。 カーディガンを肩に羽織ったリリは、渡り廊下から外へ出て、建物の裏手に入った所で、頬に左手を当て、手首の携帯電話に口元を寄せ喋っていた。 「え、明日も明後日も、両方?」 耳に刺し込んだマイクロスピーカーからジョーの声が答える。 「そんでもぎりぎりのスケジュールなんだよ。ま、おまえにはラッキーな臨時休業ってことで、ゆっくり身体でも休めれば?」 リリはがっかりしていた。自分でも気付かぬうちに、とても週末を楽しみにしていたのだ。その証拠に新メニューも一つ完成させていた。それを披露できないなんて残念だ。コーヒーも淹れてあげられない。ベッドもふかふかにしてあげられない。でも、勝手に思ってただけだし、お仕事では仕方ない。 「わかりました。じゃあ、お言葉に甘えて、一人でのんび〜〜〜〜〜りさせてもらおっと」 「……あからさまに嬉しそうじゃねーか」 「なぁ〜にしようかなぁ〜」 パーズンのピットの裏でジョーは話していた。あまり正々堂々と話す内容(というか、相手)ではないので、首から下げた携帯電話の、マイク部分がある本体を口に近づけて話していた。 耳の中のスピーカーから聞こえるリリの口調は、少しも残念そうな色がなく明るい。 「クソボーズ、次、会った時、覚えてろよ」 思わずぼやいた。 「一週間以上も先でしょ、もう忘れちゃってるからっ」 リリのその返事は拗ねた口調だった。唇を尖らせて話す彼女が脳裏に浮かんだ。週末に会えなくなった事を、コイツも残念だと思ってる。そう考えると、先ほどまでのクサクサした気分が、霧散して行く。 「……今日、ケンが顔出したって?」 無意識のうちに口調が優しくなっている。 「そう、ヒイナと一緒にね。お茶しながらお喋りしてね、楽しかったよ」 ―――お茶してお喋り。ケンはしたのに、オレはできない。 途端に、再び面白くない気分に襲われる。つい意地悪な口調になる。 「院内遭難してんじゃねーぞ」 「何、それ?」 「おまえの方向音痴は半端ねぇって話だよ」 「あ、ケンね?」 リリが「ケンね」とか言うのも癪に障る。 「じゃあな」 「あ、ジョーっ」 「何」 「あの、無理しないでね」 彼女の真心の籠った一言が嬉しい。なのに、 「放っとけ」 と短く言って、ジョーは電話を切った。首からぶら下げた電話を胸ポケットに挿し込む。 自分でも良く分らない心境だった。イラついているはずなのに、切り際の彼女の一言が脳内再現されると口元がにやけてしまうのだった。 「放っとけ」と短く言ったきり、黙ってしまった電話。耳に入れたスピーカーを指でつんつんと突いたが、もう何も聞こえては来なかった。 「もう……」 諦めて、大きく溜息を付きながらスピーカーを外してブレスレットに戻した。 「ドタキャンかぁ……」 そう呟いた瞬間、背後で声がした。 「リリさんより優先させる事があるなんて、信じられないな」 ビックリして振り返ると、白衣を着た男性が立っていた。ミネルバと同じメンタル科のドクターだ。 「トニエント先生…」 トニエントは、長身の好青年だが、笑顔と共に威圧的な雰囲気を押し付けてくる男で、リリは何となく苦手だった。 「彼氏?」 満面の笑みで訊ねて来る。盗み聞きをしていた上に、プライベートへ入り込んで来る図々しさ。 「いいえ…」 リリがそう答えるや否や、彼は一層笑顔を輝かせて 「ねえ、暇になったのなら、僕とデートしない?」 とストレートに誘って来た。突然の展開にリリはぽかんとしてしまったが、すぐに我に返り、 「せっかくですけれど、私、暇になったわけではありませんので。失礼します」 と、勤めて冷静な態度でそう言うが早いか、トニエントが口を開く前に、その場を後にした。 小走りに職場へ戻りながら考えた。 暇になったわけじゃない、ジョーがいなくたってやれる事はある。一緒に住んでいた頃は、ジョーが仕事の日は一人だったじゃない。それと同じでしょ。せっかくメニューを増やしたのだもの。食べて貰いたい。 リリは小さく拳を握って決意した。 翌日、リリは自室のキッチンで作り上げた料理を密閉容器に詰めた。それらを大きなバッグに入れると、玄関を出た。 歩いてバス停へ向かい、程なくしてやって来たバスに乗って、ムーナシティの中央バスターミナルまで行った。そこでバスを降りた彼女は、たくさんのバスの中から、ブーナシティの、しかも、ジョーのマンションのあるブロックを走るバスを見つけ出さねばならない。これが彼女にとっては至難の業だった。同じ場所から出発するバスでも、微妙に行き先が違ったりもするのだ。 (『ジョーのマンション行き』ってバスがあればいいのに…) と思いながら、一生懸命に探した。 そうして目星をつけて乗り込んだバスは、幸いにもジョーのマンションの近くまでリリを運んでくれた。 コインを払って下車する時、あまりの嬉しさに運転手の手を取ってお礼を言いたかったが、かろうじて微笑むだけに止めた。 バスストップからは、ジョーのマンションを見ながら、そちらへ歩いて行けば良い。足取りも軽く、リリはバッグを抱えて歩いた。 家政婦リリの瞳はジョーのフロアのアイリスロック(虹彩認証鍵)を、掌はドアのPPロック(掌紋認証鍵)をするりと解除できる。この部屋の主・ジョーの他には、私しか開けられないのだと言っていた。一人の時にオレ以外のヤツが入って来る事は絶対にないからと安心させてくれた。 ジョーと私だけ。彼にとって自分は特別な存在みたいでドキドキする。 (分ってる分ってる、私は家政婦だから) と、言い聞かせる。 ジョーの部屋は、相変わらずたいして散らかっておらず、テーブルの上にはバイク雑誌が数冊と缶コーヒーがあった。 (缶コーヒー、飲んでたの…?) コーヒーを淹れるドリップマシンはもともとここにあった物だ。リリが転がり込むまでは、自分で淹れていたはずである。 (たまたま昨日は疲れてたのかな) キッチンへ入ったリリは、缶を捨てようとして、ダストボックスに同じような缶がたくさん捨てられているのを発見した。 (もしかして……?) もしかして、私の淹れたコーヒー以外は、もうなんでもいーや…という事だろうか…? ダストボックスを見下ろして立ち尽くすリリの頬は真っ赤になって行く。 「なんてね! たまたまよ、意味なんてないのよ」 大袈裟に声にして意識を切り替えようとしたリリの目に、キッチンの壁にかかっているエプロンが飛び込んで来た。 「あ……」 忘れたのは知っていた。一枚しかない持っていない、メリンダから貰った大切なエプロンで、忘れたその夜、ジョーからメールもあった。 手を伸ばしてみると、エプロンは壁のフックに掛っていた。そこにフックなんてなかった。ジョーが付けたのに違いない。 (まさかエプロン用? ううん、これもたまたまよ。何か用途があって付けて、とりあえず引っかけてみたんだ、とりあえず) リリはそう結論付けた。 そうして意識を家政婦モードに切り替えたリリは、料理を入れた容器を冷蔵庫へ仕舞うと、まっすぐ寝室へ行き布団類を干した。 布団を干すという習慣がなかったジョーは、セヴァ・ファームから帰宅した翌日、リリがマットレス以外の一切をテラスに並べた時は驚いていた。でも止めろと言われなかったし、先週、布団を取り込む時は、顔に当たるふわふわになった上掛けににやにやしていたのをリリは見ていた。 起臥していた時は、干した布団に寝ていたのは結局リリになってしまっていたが、リリが引っ越した日の夜、ジョーはふかふかのベッドを経験したのだ。その時きっと気に入ったのに違いないと、リリは思っていた。だから、何としてもふかふかにしてあげたかった。 何往復もして寝具類を干し終えると、テラスのテーブルに相変わらずある灰皿を綺麗にした。どうしてずっと外なんだろうか…と不思議に思いつつ、室内に置くのは諦めてテラスに戻した。 洗濯は遠慮した。下着類が分れていない状態の籠を弄るのは失礼だと思ったからだ。そこは一線を引いておかないと。奥さんや恋人じゃないんだから。 一段落すると、ちょうどお昼だった。リリは持って来たランチを出して、一人で食べた。食後のコーヒーは拝借して淹れた。ジョーと同じようにミルクも砂糖も入れて、一人で飲んだ。 「甘くて美味しい……」 掌でカップの温かさを感じながら、充足感を感じていたリリだったが、カップが冷めるのと同調して、やっぱり一人だと寂しい…と思わずにはいられなかった。今日はずっと一人なのだ。ジョーがここへ帰って来る頃には、私はここにはいないのだから。 ジョーのプライベートに居ても一人。TVが賑やかに騒いでいても、ラジオが陽気に歌ってくれても、ますます独りの寂しさが募る。ソファに横になって、クッションに顔を埋める。ジョーの物の匂い。この部屋にある物は全部ジョーの物。このエプロンも手に取った時、同じ匂いがした。 その匂いがしないのは、私だけだ……。 荒涼感が胸に広がった。そして僅かながら恐怖感も混ざる。当たり前の事なのに、どうしてこんな気分になるのか分らない。切なくて切なくて。 リリはブレスレットを握りしめた。 長い葛藤の末、仕事中のジョーに電話をしてでも話したい…という欲望はかろうじて抑え込めた。 毛布も上掛けもパッドも枕も十分に膨らんでいたので、リリは勢い良く取り込んでしまい、ジョーに短い置き手紙を書くと、エプロンを脱いだ。少し迷って、同じ場所へ戻すことにした。キッチンの壁のフック。違うのかもしれないけれど、ここに掛ってたんだから。ジョーがどかすまで、ここが定位置。 リリはそっと、ジョーの部屋を出て行った。 「かったり〜……」 部屋に入るなり、ブーツを脱ぎ捨て、ジョーはソファにダイブした。クッションに顔を埋める。このまま寝てしまいたい。でも腹は減ってるし、シャワーも浴びたい。 「あ〜、くそったれ〜……」 悪態を付きながら上体を起こし、ジッパーを下ろしてジャケットを脱いだ。ふと、テーブルの上の紙切れを見つけて手を伸ばすと、そこには見慣れたリリの文字。 「なんで?」 突然の事に疲労感は吹き飛んだ。 “お帰りなさい。冷蔵庫に新作が入ってます。温めて食べてね。リリ” キッチンへ駆け込む。メモに書いてある通り、冷蔵庫の中には見知らぬ容器が入っていた。 ジョーは複雑な気分に襲われて、うまく処理できずにしばらく立っていた。 今日一日、今頃アイツはどこで何してるだろうかと、ずっと考えながら仕事をしていたのだ。本当なら今頃は…という思いを鎮めていたのは、唯一「でも、のんびり休めているんだから」という条件だったのに。それなのに………! 寮の自室で、レシピブックと一緒にローテーブルに置いていたリリの携帯電話が鳴った。画面に「旦那様」と出ている(ジョーが設定した)。差し入れに気付いて連絡をくれたに違いない。嬉しい。 「お帰りなさい」 ところが、リリの弾んだ口調とは正反対の口調でジョーは言った。 「おい、オレはゆっくりしろって言ったよな」 開口一番、強く言われて、リリはたじろいだ。 「ゆ、ゆっくり行ったよ? お昼ちょっと前だもん、着いたの」 「一人でのんびりするって言ってたよな?」 「一人でのんびりしてたもん」 「そうじゃなくてよ、バスとか、おまえ、それだけで疲れちまうだろーが」 ああ、そうか……とリリは気付いた。ジョーが何を言いたいのか。だけど……。 「早めに帰ったから大丈夫だよ?…それにジョーのとこから帰ってからはね、どこにも出てないから休めてるよ…」 「明日は絶対に来るなよ。いいな」 「……はい……」 「メシ、サンキュ。これから食う。じゃな」 リリの返事を待たずに電話は切れてしまった。 「怒っちゃった………」 項垂れたリリは、しばらく動けず凹んでいた。良かれと思ったのだが、結局は彼の気分を害してしまった。 ―――ジョーが私に一番望んでいたのは、ゆっくりのんびり寮で休むことだったんだ。彼のせっかくの気遣いを、私は無駄にしちゃったんだ。 そんな事にも気付かず、一人で浮かれて今日を過ごしていた自分が、ものすごく愚かに思えた。 でも、このままではいけないと思い直し、気力を奮い立たせ、携帯電話に向かってメッセージを喋った。しかし、どうしても暗いトーンでしか喋れない。このままボイスメールで送るのは、これみよがしになりそうで嫌だと思ったリリは、文字変換をしてメールにし、ジョーに送った。 シャワーから出て来たジョーは、自己嫌悪の塊だった。 ―――あの言い方は酷過ぎる。 自分を責めながら冷蔵庫を開けた。容器を手に取ると、リリそのものに思えた。どんな気持ちでこれを詰めていたのかと想像しただけで、自分を罵る言葉を叫びたかった。壁にかかっているエプロンを見る。ますます後悔の念が募る。 メモの指示通りに温めて食べた。どんなビックリ飯かと覚悟しながら食べたが、 「旨いじゃん」 思わず声に出すほどだ。 一緒に食べていたらもっと旨いだろうに。アイツの得意気なドヤ顔を見られたのに。と、色々と想像していると、心底悔しくなって来る。 しかし、せめて旨いと伝えようと電話に手を伸ばしたジョーは、薄ピンクのライトが点滅しているのに気付いた。リリからだ。開けるとメール形態のメッセージがあった。 [勝手に行ってごめんなさい。もうしません。おやすみなさい] ジョーは突っ伏した。己が情けない。 すぐに顔を上げると、リリと同じ、メール形態で返事を作った。 ベッドに横になり沈み込んでいたリリの携帯電話がまた鳴った。見ると青いライトが光っている。ジョーだ。ベッドから転がり落ちながらテーブルの上のブレスレットを取ると、メッセージを読んだ。 [どうせ来たんなら帰んなよ。明日の朝、旨いコーヒーが飲めたのに] (え! じゃあ、今から行っちゃおうか―――) と思い立ったが、メッセージは [だからって、今から行くとか言うなよ] と続いていた。行動が読まれている…リリは一人赤くなった。そして [新作、マジ旨。ちょっと見直した] 「本当?!」 [かも] そこでメッセージは終わっていた。 「ちょっと、何よ、かもって…」 ジョーの怒りは収まったのかもしれない。リリは少し安心して返信を作った。 歯磨き中に手の中の携帯電話が鳴った。画面に『ボーズ』と名前が浮かぶ。 [来週、作りたてを召し上がってください。そして、かもじゃなくて見直してください] にやけた顔の歯は磨き難いことこの上ない。一気に磨き終えると、ジョーは返信を作った。 二度目のメールはローテーブルに広げたレシピブックを見ていて受けた。 [じゃあ、見直す程のモン喰わせろ。来週な。ベッドが超ふかふかじゃん。サンキューな] 良かった……と安堵しながら読む。 [もう遅いから寝る。寝ろ。お休み] (私を気遣ってるんだ………) [追伸。さっきはキツイ言い方して悪かった] 思わずリリは涙が滲んでしまった。今なら良く判る。どれだけジョーが私の事を気遣ってくれていたのか。 さらに続きがあった。 [なんちゃってな。ばーか] これもそうだ。気にし過ぎないようにと、ジョーの優しさなのだ。 「もう、意地悪なんだから……!」 リリは暖かい気持ちで返信した。 最後のメールをジョーはベッドの中で読んだ。 [明日も頑張ってね。おやすみなさい。追伸。私からもジョーへ、ラスポウナ∞] 「あのバカ………!」 と、いつも通りにどきりとしたジョーだったが、すぐに画面に釘付けになった。“ラス・ポウナ”だけはヘッシュ文字で書かれていたのだ。 彼女からのメールは、彼女の発した音声を携帯電話が文字に変換している。彼女の発音がヘッシュ語として正しく認識されたという事だ。 ジョーはそのヘッシュ文字のラス・ポウナを見つめ続けた。目が離せなかった。この綴りはこんなに綺麗な形だっただろうか……。 ジョーは思い出した。 “愛する息子へ”と書かれた、たくさんのカード。母親の流れるような優美な文字だったり、父親のかっちりとした文字だったり。 オレも書いていたじゃないか…。“愛するママへ”“愛するパパへ”。 嬉しそうに受け取る母親。抱き上げてくれた父親。 ぬるぬると暖かい気持ちに満たされたジョーは、瞼が重くなって目を閉じた。柔らかな闇に落ちて行く。 彼方に人影が見えた。遠くなのに、影なのに、彼女だと分る。 「ボーズ……?」 彼女を連想する太陽の匂いの枕やら毛布やらに包まれながらジョーは呟いた。 彼女は飛ぶようにすぅっとやって来て、目の前に立った。そして流暢なヘッシュ語で「ジョー、ラス・ポウナ」と言いながら、両手を伸ばした。 ―――ああ、そうだ、これは夢だ。 気付いたジョーは、ふわふわした意識で、夢なら何をしてもコイツを傷つけることはない、と考えた。 以前見た、あのフラれたような夢をやり直せるじゃないか。そうだ、「私はボーズで女じゃないんでしょう」とまたこいつが言い出す前に……! ジョーはリリを抱き寄せた。見上げるリリの頬に手を添えると、一気に覆いかぶさった。小さな可愛い唇が、唇の下で驚いているが、構わず柔らかな感触を味わう。 夏の夜、泣きわめく彼女を黙らせるためにしたキスは、唇がちっともおとなしくなかったので、こんな風に味わったりはできなかった。 ―――ああ、やっぱり。 唇は想像していた通りだった。気持ち良い。 リリの漏らす吐息が甘ったるくなってきた。 お絵描きオムライスのケチャップの赤…あの艶めかしい赤が、この唇の中で待っている。催促の吐息か。 ジョーは応えた。分け入ると、おどおどしている。 ―――誘っておきながら……! 胸がかっと熱くなった。容赦なく絡めて吸うと、リリの吐息が熱を帯びて大きくなる。喘ぎ声も混ざり始める。 唇だけでは物足りなくなったジョーは、唇から顎へキスを移した。顎から首筋へ。彼女の白く細い首に唇を這わせる。彼女は切ない声を漏らして首をすくめる。舐めてみる。 「いや…」 どうやら首は感じやすいようだ。しかし、ジョーは強引に口づける。 「あ…あ…」 身を攀じる彼女を抱き込み、一つ二つ、彼女の首筋から喉へと紅い小さな花を咲かせていく。 大きく肌蹴たシャツの襟元に顔を埋めて、そこにも花を散らせた。 シャツのボタンに指を掛ける。これは先週、彼女に貸したシャツだ。たった二つボタンを外しただけで、彼女の両肩がするりと現れた。もちろんその肩にも花を付けながら、呼吸で上下しているふくらみにシャツの上から触れてみた。拒絶の動きはない。 受け入れられたという思いに、ジョーは舞い上がりそうだ。とんでもなく嬉しい。 「ジョー……」 名前を呼ばれただけで熱が増す。自分を呼んだその可愛い唇へ口づける。重ね合わせた唇から吐息混じりに名前を呼ばれ続け、快感に頭が痺れて行く。 「おまえ…そんなに煽るな…」 やっとの思いで言うと、 「おまえじゃない…リリって呼んで……お願い…」 と返された。 「ラス・ポウナ、ジョー…ラス・ポウナ…ラス・ポウナ…」 キスの嵐とシャツ越しの愛撫ですでにとろけそうな彼女が、ヘッシュ語で切なげに繰り返す。可愛い! 可愛くて可愛くておかしくなりそうだ。 とうとうジョーは抗うのを止めた。全身熱を帯びてしまってもう止まらない。腕の中にいるリリが今欲しい。どうしても欲しい―――。 「ラス・ポウナ…リリ」 彼女の耳にキスしながら囁くと、シャツのボタンを全て外し、露わになった彼女の白い体中へ唇を泳がせていった。 |
第29話 臨時休業 END |
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