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第28話  Holiday
 約束の時間より少し前に指定された場所へ行ったのに、すでに黒いバイクは停まっていた。スタンドを出して傾いた車体に跨ったままのジョーへ、リリは慌てて駆け寄った。
「ごめんなさい待たせて」
「道が空いてて早く着いたんだよ」
言いながらジョーは彼女のヘルメットを手渡した。
 五日ぶりのヘルメットはひんやり冷たい。ジョーが腕に通して走って来たからだ。彼女がヘルメットを被り終えると、ジョーはバイクのスタンドを蹴って畳み、車体をまっすぐに起こした。
 しかしリリは、ぼっと立っていて乗ろうとしないので、ステップが出ていなかったかとジョーは一瞬思ったが、彼女を待っている間に出したばかりだ。
「どした?」
ジョーの問いかけに弾かれたようにリリは頭を上げ、
「ううん」
と言い、ようやくシートに手を付いてステップに足を掛けた。


 些細なことだが、彼女の手が一向に自分に触れないことにジョーは気付いた。案の定、体制を保てるはずもないリリは、シートを跨ぎながらぐらりと前のめりになってジョーの背にどんとぶつかった。
「ご、ごめんっ…なさい」
「たったの五日で乗り方忘れるとはなぁ」
「そんなことないよっ」
そう言っている割りには、リリの手はジョーの体を回って前へ出ることなく、ジャケットの脇腹辺りを申し訳けなさそうに握っているだけだ。ジョーはむっとした気分を抑えて、その手をがしっと掴むと、情け容赦なく引っ張って腹の前で重ね合わせた。
「落ちるっつーの」
「う…うん…」
小さな声が聞こえた。

 やはり意図的だとジョーは悟った。触れたくないのか、触れられないのか。

 触れられない理由として、例えば外食した夜の時と同じ、オレのファンへの遠慮か?と、まず浮かんだ。
そして、そんな彼女の気の回し過ぎに益々むっとなる。ファンどころか、今は誰もいやしない。万が一に備えて、寮からちょっと離れた裏通りを待ち合わせ場所にしたジョーだ。
―――つか、そんな深読みじゃなく、単に「恋人でもないのに図々しくくっついちゃいけないわ」とかか? コイツは変に真面目だからな。ったく、どうせ真面目なら、しっかり引っ付いててくれる方がマシだぜ、後ろでぐらぐらされる方が迷惑なんだからよ。
――もしかして照れてる? ちょっと待てよ、今更だぜ、初めてじゃねーだろが。「一週間置いたら、何だか恥ずかしくなっちゃった」とか? ふざけんな、おまえがそんなんじゃ、こっちまで恥ずかしくなって来るじゃねーか!

 ほんの数秒の間にジョーは勝手に大暴走した。たちまち脈が激しくなる。
キーを挿してセルボタンを押す。エンジンがきゅるると鳴いて動き出した。その振動を感じながら、ジョーは違う理由を思い浮かべた。 
――触れたくないから。それはつまり……「キライ」という意思表示だ。
 ザラついた感触が音もなく胸に広がった。不快感のまま左足でギヤのペダルを押し下げローに入れた。
 
 ペダルのカシッという音が響いた。それは発進を意味している事をリリは知っている。彼女はジョーの体に巻き付けた腕にちゃんと力を込めて、しっかりと両の手を合わせた。

 ふいにジョーは背中に重みを感じた。

 彼女はしっかりと自分に躰を付けている。触れたくないと思っていたら、こんな事はしないはずだ。

 ジョーの不快感は一瞬で消えた。
「行くぞ」
肩越しに声をかけると、
「はい」
リリは返事をしながら、彼の背に横向きの頭を付けた。

 背中全体に彼女を感じながら、ジョーはスロットルを開けた。主の指示通り黒いバイクは重低音を響かせて通りへと滑り出した。
 




 ジョーの後に続いて室内に入ったリリは、五日ぶりのジョーの部屋の匂いに包まれ、思わず立ち止まった。
ジョーの部屋の空気。住んでいた時は慣れてしまって分らなくなっていたが、こうして久しぶりに入ると「ああ、そうだった」と良く分る。セヴァ・ファームから帰った時も感じた事だった。
 あの煙草の、花にも似た甘い香りと、コーヒー豆の匂い。それと僅かながら混ざる洗濯時の洗剤の香り。それはここでその作業をしたリリだから気付ける香り。
 全てがジョーと結び付く。

 ミネルバの街へ行くつもりがジョーに拾われた夜、ここへ一歩入って感じたのは、彼の大切なプライベートに踏み込んでしまった居心地の悪さだった。
 今日もジョーのプライベートに入った事には変わりないが、あの時とは全く違う。切なさと嬉しさが入り混じった、複雑な心境だ。

「まずはコーヒーな」 
感慨深げに立っていると背後から言われ、リリは我に返った。仕事に来ているのだった。私は家政婦。
「はい」
慌てて斜め掛けしていたバッグを下し、中から仕事着=エプロンを取り出した。被りながらキッチンへ入る彼女にジョーは、
「初・一週間の分の懺悔を聞いてやるから、おまえも座れよ」
「だから懺悔なんてないってば。三つぐらいしか…」
書斎へ向かうジョーにリリは言い返したが、語尾はほとんど独り言になった。
 リリは五日前に綺麗にして行ったまま(ジョーはもちろん調理などしないので)の、勝手知ったるキッチンでコーヒーを淹れ始めた。
 程なくしてコーヒーの香りが漂い出し、リリは書斎のジョーに声を掛けた。
「コーヒー入ったよ」
「おう」
ジャケットを脱いでリビングに戻ったジョーは、ソファの端に置かれているリリのバッグとコートを見つけた。
寝室ではなく、そんな所にある事に違和感を感じたが、すぐに(そりゃそうだ)と思い直した。もう彼女はここの住人ではないのだから。
 知らずうちに唇が僅かに尖る。自分でも気付いてはいないが、面白くない証拠だ。
「お待たせしました」
そんなジョーの気持ちなど全く知らないリリがコーヒーを運んで来た。ジョーの前に置きながら
「どうぞ、お坊ちゃま」
突然リリにそう言われて、意味が分らずジョーは彼女を見た。
「って、言われてたんでしょ? 本物のメイドさん達に」
「………アレン? ミネルバ?」
リリに家政婦をやらせていることを知っているのはこの二人だけだ。
「アレン」
リリはニコニコ楽しそうだ。まったくアレンのヤツ、余計な入れ知恵して行きやがって…と思いながら、
「ばーか。オレが雇い主なんだから、坊ちゃんじゃなくて御主人様だろーが」
「え、あ、そうか」
「そんなに呼びたきゃ呼んでみろよ、ほら『御主人様』」
「……ごしゅじんさま……」
「おい、『お坊ちゃま』は楽しそうに言ってたのに、なんだよ、そのテンションの低さは」
「なんか倒錯した世界のヒトになりそうな気分……メガネかけた方がいいの?」
「あ? メガネ? なんで?」
「見たことあるんだもん、そーゆーの」
「あー、あれな。じゃなくて、今は違うだろ、ごっこじゃなくて本当の事だろうが。『御主人様』が違う意味になりそうってんなら、じゃ『旦那様』だな」
なるほど、と納得したリリは呼んでみた。
「旦那様」
聞いた瞬間、ジョーは後悔した。指示したのは自分だが、そう呼ばれると、こんなに妙な気分になるとは予想外だったのだ。旦那様という呼ばれ方は、仕事関係というよりも、どうも婚姻関係を連想してしまうようだ。

 密かに赤くなるジョーだったが、しかし、そんな事には気付かないリリは、お構いなしにぷっと吹き出した。
「旦那様って、ジョーがおじさんになっちゃったみたい!」
あははは…と目の前で笑うリリを恨めしそうに見ながら
「歳じゃねーだろ、主従関係が成立してりゃあ、オレはおまえの旦那様なんだよ。仕事じゃなくたって、もし今、結婚でもすりゃ当然『旦那』だし、おまえだって『奥さん』って呼ばれちゃうんだぜ?」
勢い余って、連想してしまった関係のパターンまでジョーは挙げてしまった。
「奥さん…?」
「そーだよ。ミネルバはサラの奥さん、ヒイナはケンの奥さんって呼ばれるじゃん、おまえは、……ま、例えば、オレと結婚してたら、ジョーの奥さんって呼ばれるわけだ、おばさんじゃなくてもな」
――― 一体オレは何の話をしてるんだ! ジョーは心密かに自分を激しく責めた。
「そっか、……サラさんはミネルバさんの旦那様、ケンもヒイナの旦那様…、で、ジョーは、私の、旦那様、ね」
ジョーは、全精神力をかき集めて平静を保っていた。僅かな気の緩みも許されない。ほんの一瞬で、とんでもなく恥ずかしい気持ちの大波に呑まれて大声を上げてしまいそうだ。これはもう一秒でも早く終わらせねばならない。
「つーわけで、旦那様が皆おっさんとは限らないんだよ」
「……はい、軽率でした、旦那様…」
神妙に改めてそう呼ばれ、この話を終わらせたいと願っているはずなのに、胸が甘く疼いてしまう。どきどきとうるさい心臓を気付かれないように努力しながら、終息に向けて畳みかける。
「ちょっと待て。そんな風に呼ぶなっての」
「え?だって、お坊ちゃまじゃなくて、」
「根本的に可笑しいだろ。今まで名前だったんだからそれでいいに決まってんじゃん」
「そう? 名前で?」
「名前だよ」
「わかった、じゃあ、ジョーも私を名前で呼んでね」
「おう、名前でな―――、クソボーズだったっけ、正式名」
早く終わらせたいがためにうっかり了解してしまったジョーは、しかし過ちにすぐに気付いて間髪入れずに誤魔化した。予想通りに彼女は怒ったが『リリ』などと呼べるはずもないので、知らん顔を決め込んでコーヒーを啜った。
 




 明日は天気が崩れると予報が出ていたので、リリは今日の快晴を逃すまじと、洗濯と布団干しを最優先した。クッションまでテラスへ並べ終えると、ようやく昼食作りに取り掛かった。と言っても、ジョーがこの一週間を過ごすのに新たに買い込んでおいたレトルト食品を活用するのみなので簡単だった。
 午後、いつもの店で食材を調達し夕食を用意し一緒に食べる……までが、本日のリリの仕事だ。終わればまた、ジョーが寮まで送ってくれる。



 昨夜、寮の部屋に電話をしたジョーは「家政婦の仕事は土日のどちらか一日、でも疲れているなら今週は休みでもいい」と提案した。でもリリは「大丈夫」の一点張りで、尚且つ明日が良いと希望した。ジョーの方も、どうせなら早く様子が聞きたかったので、日曜日より土曜日なのは嬉しかった。(嬉しかった一番の理由は、ジョー本人も分っていない) とりあえず、仕事や新生活の話を聞かないと落ち着かない。困った事や不安に思ってる事はないか、ミネルバにも言えない事が勤め先であったかもしれない、考え出せば限がないので、とにかく本人の顔を見て、本人から聞きたかったのだ。
 コーヒーを飲みながら聞こうと思っていたのに、呼び方の話で終わってしまっていたので、昼食を食べながら聞いた。
 だが、幸いな事にジョーの心配は無用の様子だった。ジョーは心底ほっとし、ミネルバにも密かに感謝した。





 晴れていても気温が低かったので、早々にリリは布団や洗濯物を取り込んだ。洗濯物と言っても一人暮らしのジョーの、下着以外の汚れ物などほんの数点だ。そもそも、普段ジョーは面倒くさいのでテラスになど干さない。洗うとそのまま自動で乾燥が始まるコースを愛用している。
 でも、リリと一緒に暮らしていた間は、Tシャツやジーンズから太陽の匂いがしたし、毛布も枕も気持ち良かった。ジャンケンに負けて一度だけ入ったベッドの布団も、ふかふかしていた。

 一人暮らしに戻ったこの五日間は、布団を干してみたいと思ってみても、まさか布団を取り込みに店を抜け出して来るわけにもいかないので諦めていたのだ。それが今夜は!いよいよ待望のぽかぽか布団だ。ジョーは内心ウキウキしながら布団を寝室に運ぶのを手伝った。 
 




 病院から施されたばかりだというリリの携帯電話は女性に一番人気のブレスレットタイプだった。ジョーはとりあえず仲間のデータを入れてやることにした。ソファに座って自分の携帯からデータを移していると、一段落したリリが隣に腰を下ろした。
「どう?」
「ん、データはもう入った。なぁコレ最新じゃん。面白い機能がたくさん付いてるぜ…」
「そうなの?」
ジョーは興味深げにリリの携帯を弄っている。そんなジョーの隣で、リリはふかふかになったクッションを抱えながら、窓の外に広がる薄青の空に僅かに突き刺さるとんがり屋根を数えた。
―――再びこの景色を見られるとは。五日前にここを出て行く時は、二度とここには来ないのだと思っていたのに。
 ふっと笑みが頬に浮かぶ。仕事もあって、住む処もあって、そしてここにもいられるなんて………


 左肩に軽い衝撃を感じて、携帯から顔を上げたジョーは驚いた。リリがもたれているのだ。心臓が跳ね上がったが、じっとしていると彼女の寝息が聞こえて来た。クッションを抱えたまま、彼女は寝てしまっていた。
(やっぱり無理してたんじゃねーのかよ……?)
 左肩にある白金の毬。ジョーは一気に懐かしい気分に襲われた。こうして当然のように傍にあった毬。この五日間はこれが見られなかった。
 そっと顔を寄せると、ふわふわした金の髪が鼻先をくすぐった。
(ん?)
彼女の髪から記憶と違う香りがした。しかしすぐに納得する。
女物を買ったんだ。当たり前だ。ここで使っていたのと同じメンズ物を買う方がおかしい。
 女らしい優しい香りを嗅いでみた。何だか照れくさい、でもちょっと寂しい、変な気分になる。
この金色の毬は、オレと同じ匂いだったはずなのに……。
 はっと我に返って、一人こっそり赤くなった。何を言ってるんだか。
恥ずかしさに思わず項垂れると、肩が動いてしまったらしく、リリの頭が僅かにずれた。
気付いたジョーは、銅像と化すべく心がけた。
 じっとして、見るともなしに部屋を見る。リリがいなくなっただけで、やたら広くて寒かったのに、今は全く違う、昨日とはまるで違う部屋だ。広さも温度もちょうど良い。快適だ。
(“慣れ”ってすげーな…。)
一ヶ月足らずで、二人暮らしの配分に慣れちまうとは…と、ジョーは思いながら、その温かい重みを味わっていた。





 甘い良い匂いが鼻先をくすぐっている。何だろう…何の匂い…? 開いた目に、ぼんやりと見えたのは、ブルーグレイの……あれはブラインド? 私の部屋のブラインドと色が違うんじゃない……?
次の瞬間、リリは完全に覚醒し、居眠りしたという事に気付いた。
「今、何時!」
買い物に行かなくちゃいけないのに! 目の前のブラインドは、テラスの窓のブラインドだ。これが下がっているという事は……外は真っ暗…という事だ。すると、
「長っげぇ昼寝だったなぁ。パメラだってこんなに寝ないぜ?」
がばっと振り向くと、キッチンの中にジョーが居た。
「いやぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜、も〜〜〜、ごめんなさい〜〜〜〜〜〜」
どうしていいか分らず、リリはジタバタうろうろしている。
「おい、落ち着け。いいか、慣れない仕事で疲れてんのに、オレが連れて来たから仕方ねーって。お〜オレ様、心広いだろ」
「でも〜〜〜」
確かに疲れていたけれど、だからってこんなに爆睡するなんて有り得ない! リリは恥ずかしいやら情けないやらで本気で泣きそうになった。何よりも、こんなに暗くては直に帰る時間になってしまう…! 半分以上の時間を寝てしまっていたのでは、ジョーと一緒に過ごしていたとは言えないじゃない! と、うっかり思って、また慌てて考え直す。違う違う、ジョーの家政婦をしていたとは言えないって事よ!
「あ、私、買い物、買い物行かなくちゃ」
せめて夕飯は作らなくちゃ!
「まあ、待てよ。今夜の夕飯はもうできるから」
「…え?」
そういえば、さっきから漂っているこの匂いは? ジョーはキッチンで何をしてるの? リリはおずおずとカウンター越しにキッチンを覘きに歩み寄った。
「今日は特別だぜ。おまえが最後に買ってった卵が残ってたからよ」
そう言いながら、ジョーはフライパンに薄く流した卵が膜になると、器用に裏返して一枚の薄皮卵焼きを作った。その鮮やかな手つきにリリは心底驚いた。
「ジョー、すごい! 綺麗な真っ黄色の卵焼き……!」
リリが目をまん丸くして見ている間に、ジョーは手際よく皿に盛ったチキンライスの上に卵焼きを千切れないように乗せた。フリーズドライだが、ちゃんとサラダまで用意してある。
「………何よ、ジョーったら、お料理できるんじゃない……私より上手に…」
「できねーよ、これだけな。お袋に教わったんだ。お嬢様のお袋が唯一手作り出来たのがコレでさ。親父もオレも好きでさ…。唯一のメニューだから希少価値高けぇじゃん。好物にもなるだろ?」
ちょっと照れくさそうに昔話をするジョーを見るのは初めてで、リリはドキドキした。
テーブルに皿を並べて座ると、
「これはお絵描きオムライスと言ってだな、最後にコイツで絵を描く」
ジョーは厳かにケチャップを掲げた。瓶ではなく大きいチューブタイプだ。そして、何を描こうか一瞬考えたが、すぐにぶにゅぶにゅとケチャップを出し始めた。
「親父とお袋は、いつもユマリアを描いてた」
「ユマリア?」
「ユマリアって花」
「そっか、ジョーのご両親もお花に詳しいんだもんね」
「まあな。オレはその時の気分でいろいろ。で、今日はこれ」
黄色い丸いキャンバスに、ケチャップの赤であっという間に絵を描き上げた。
「題して『珍獣の昼寝』」
卵焼きいっぱいに丸い顔が大口を開けて、涎まで垂らしている。
「うわ、これだけで充分おまえだって分るぜ!」
ジョーは皿とリリを交互に見て言った。
「ひっどーーーーーい!!」
「おまえのには……」
リリの皿を引き寄せて何やらぶにゅぶにゅ描いていたが、
「あ、リリの花?」
「見えるだろ? やっぱ、オレ、絵の才能あるんじゃん?」
リリは大喜びでリリの花が描かれたオムライスを受け取った。
「可愛い〜」
「喰え」
「頂きま〜す」
リリは遠慮なく、ぱくりと一口頬張った。ジョーの作ったオムライスは、チキンライスの方はレトルトの物だったが、卵の部分は正真正銘手作りで、そして美味しかった。見た目もそうだが、ジョーのダイナミックさより繊細さが表れた味だ。育ちの良さなのだろうか……とリリは考えながら、素直に口にした。
「美味しい!」
「後で教えるからきっちり覚えろよ」
「え? 私?」
「オレ様の家政婦なら作れて当然だろうが。あ?」
「ジョーがこんなに完璧に作れるんだから、これはジョーのとっておき、ゴッドメニューよ」
「何がゴッドだ、さぼるコト考えてんじゃねーよ」
「だって、こんなに上手なのに。リリの花の絵も」
「今日からジョー画伯と呼べ」
「じゃあ、ジョー画伯、それ、もっと可愛く描いてよ」
「こいつ? 充分可愛いじゃん。このぱんぱんのほっぺ」
そう言いながら、ジョーはオムライスに描いた珍獣の頬にざくっとスプーンを刺した。
「痛〜い!」
リリが声を上げた。
「ほっぺ痛い〜」
「………」
ジョーはふざけているリリに当て付けるように、オムライスの珍獣の顔にグサッとスプーンを刺しては情け容赦なくざくっとすくって食べた。
「もうジョーったら、もっと優しく食べてよ」
 
 優しく食べて。
 
 リリの天然ボケには慣れていたはずだったが、久々だったのでまもともに喰らってしまったジョーは、結果まんまと想像してしまい体温が急上昇した。
「優しい食べ方ってのはどんなんだよ」
女の優しい食べ方なら知ってるつもりだが、オムライスの方は見当もつかない。そもそもそんなのあるのかよ。
「そりゃ、優しくって言ったら、優しくよ。スプーン使いがポイントでしょ、こうして、優しく撫でてケチャップを広げちゃうのもいいかも。優し〜く、優し〜く」
そう言いながら、リリは黄色いなだらかな面に、ぬるりぬるりと赤色を塗り広げていく。照明を受けてねっとり光るケチャップは、とてつもなく艶やかだ。
 
 これはやばいと思った時はすでに遅かった。艶やか過ぎたケチャップは淫靡な感じすらする。真っ赤な唇の色だ。すっかり熟した、準備万端の女の唇。いや、唇の中で待っている艶めかしい舌の色だ。リリの花が、男を待っている女にすっかり変わってしまった……。

 誰を待っているんだ―――? このリリの花は…目の前の唇は……。

ジョーが見つめてしまった彼女の唇が、ふと尖った。
「これはダメ、失敗。リリの花がなくなっちゃった〜、もったいない〜」
しょぼんと項垂れたリリは、申し訳なさそうに顔を上げ、
「また作って、描いてね? リリの花」
と言った。ジョーは、残り僅かな理性で何とか耐え切る事に成功し、大きく溜息をついた。
「わかったから、とにかく黙って喰え」
「良かった〜、ありがとう! でも、黙って食事した事なんて一回もなかったから、それは無理だと思わない?」
「じゃあ、挑戦だ」
「 ………せっかく二人でいるのに黙ってるの?」
リリはマジメに悲しそうだ。苛めたわけでもないのに、ジョーは罪悪感を感じないではいられなくなる。
「………まったく我儘な家政婦だな。おまえみたいなの、ここでしか勤まんねーぞ」
「別にいいです、家政婦業はこちら様だけだもん」
「開き直ってんじゃねーよ。オレには我儘でいいってのかよ、え?」
「えーと、そんなつもりはないですけど、……酷かったら言って下さい、改めま――」
「ヒドイ!」
「え、もう? ど、どこが、ですか?」
「全部」
「全部……。…えっと、じゃあ、…どうしたら…」
しどろもどろのリリを、ただ素直に可愛いと思えるほど余裕の戻って来たジョーは、
「心配するな、オレ様がみっちり叩き直してやるよ」
と、不敵な笑みを浮かべた。





 しっかり着込んでヘルメットを抱えたリリは、ジョーに続いて玄関へ進んだ。が、玄関のドアを開ける前に、突然ジョーは立ち止まった。まさか止まると思っていないリリは、どんとジョーの背中にぶつかった。
「おまえ、泊まれ」
「え?」
驚いてリリは目の前に立ちはだかるジョーの背を見上げた。
「もう遅いし、寒いし、風邪引かせたらミネルバに怒られるし」
「…え、でも…」
「今からバイク出すの、めんどくせーし」
そう言って振り向いたジョーは、彼女の手からメットを取り上げると、顔も見ずにさっさと室内へ戻った。
ジョーがどんな表情で言っているのか見えないが、そう言えばジョーだって仕事で疲れた週末なんだ、と素直なリリは理解し、負担を掛けまいと明るく提案した。
「大丈夫よ、私、ちゃんと自力で帰――」
「明日の朝、おまえのコーヒー飲めないのは癪だし」
リリの言葉を遮ったジョーの言い分は、方向音痴の不安を押し殺して一人で帰ろうと決意したリリの胸に、とんでもなく甘美な誘惑となって流れ込んだ。

 私のコーヒーが飲みたい、って言った? だから泊まれって?

―――でも……。安易に泊まるなんて。
真面目な彼女の心は揺れる。
「泊まる用意なんて持って来てないから……」
「貸してやるって」
さすがにセーターやジーンズで寝るわけにはいかないが、パジャマの代用品さえ借りられれば、下着類は入浴中に洗濯から乾燥まで済んでしまうので問題はない。ジョーはもう、靴まで脱いで完全にくつろぎ状態へ猛進している。
「メーク用品ないし…」
ダメもとで呟くと、ジョーは大げさに振り向いた。
「うっそ、おまえそれで化粧してたの? すっぴん顔と、違い分んねえんだけど」
起臥していたジョーはリリのすっぴんを知っている。
「ひっど……っ!」
「してもしなくても同じなおまえの化粧より、おまえのじゃないと旨くないオレのコーヒーの方が大事。OK?」
「!………。」
さっき、おまえのコーヒーが飲めないのは癪だと言われてからずっとドキドキしていたリリの胸は、とうとうボカンと爆発してしまった。耳の奥で自分の脈と一緒にジョーの言葉が響く。

「あ、明日、用事があるなら、間に合うように送ってってやるから心配すんな」
とジョーは言った。だから、とにかく今夜は泊まって行け、という事だ。
「ううん、用事なんてないよ、何も」
リリはつい一生懸命答える。ジョーは内心ホッとして、
「明日はさ、コーヒーだけ淹れてくれれば、他は何にもしなくていいから」
「え?」
「仕事の予定は今日だけだっただろ。 つか、もう今日の仕事も終わってんな。オレがめんどくさくて帰れないだけなんだから。まあ、そうだな、お客って顔して踏ん反り返ってても許してやるよ」
もうこれ以上、バスや電車で帰るとはとても言えない感じだし、言う気も失せてしまった。
「じゃあ……お世話になります……」
そう言いながら、リリもジョーと同じく靴を脱いだ。靴を脱ぐという事は、もう今夜は外へは行かない、ここで過ごす……という事へ明確に結びついて照れくさい。
 おずおずとしているリリにはお構いなしに、ジョーはさっさとバスルームへ行ってしまった。
 今迄みたいに。
五日前までの、ここでの生活が戻ったようだ。
 リリはジャケットを脱ぐとキッチンへ入った。入浴後のジョーにアイスコーヒーを出して上げようと、濃い目のコーヒーを淹れ始めた。


 しかし、五日前までの生活とは、僅かに違う空気があった。あの頃は「リリはここにいるしかない」という大義名分の元に一緒にいた。それに比べると「帰ろうと思えば帰れるのに、送ろうと思えば送れるのに」それらをせずにここにいるのが、背徳的な気分を滲ませているのだ。もちろんお互いに、そんなことはおくびにも出さない。背徳感を心の隅に追いやって、今迄と同じ夜を過ごしていた。
―――過ごしたかったのだ。 




 
 ソファの上で半分寝転がっているジョー、その足元のラグの上で、ジョーのシャツをパジャマ代わりに着たリリが膝を抱えて座っている。
 古い映画が配信されていたので二人で観た。笑えて泣けて心温まる素敵な映画だった。ハッピーエンドを迎えて大満足のリリがジョーを振り仰ぐと、彼はソファの上ですでに眠ってしまっていた。慌ててリリは肩を揺すってそっと声を掛けた。
「ジョー、風邪引いちゃうよ、ベッドに行って」
リリにジョーが担げるはずもない。何としても、起きて自力で歩いて行ってもらわなくては。
 ところがジョーは、
「毛布…」
と、それだけ呟き背中を向けてしまった。寝息が聞こえ始める。強引に起こすのも気が引けて、仕方なくリリは毛布を寝室から持って来た。ジョーに丁寧に一枚掛けると、ソファの足元にもう一枚毛布を広げてその上に丸まって横になった。
 




 足がスースーと寒くてジョーは目を覚ました。すぐには自分がどこにいるのか分らなかった。そして、ソファでまた寝たのだと思い出すと、つまりはアイツがここにまたいるって事なのだと、頬がゆるんだ。
 ふと、風がけっこう強く窓に当たっている事に気付いた。道理で今夜は冷え込み方がすっかり冬のようだ。ソファで寝るのはそろそろ無理か…と思いながら、ずり落ちそうな毛布を手繰り寄せ、目を閉じようとした時、足元でもそっと何かが動いた。
 ジョーは驚いた。てっきりベッドで寝ているとばかり思っていたリリが足元に、しかも、床の上なんかに(正確にはラグと毛布の上だが)寝ているなんて!
 ジョーは一気に目覚めた。
(風邪引いちゃうだろうが!)
そんなことになったら、どれだけミネルバに怒られるか…!
ジョーは起こそうと手を伸ばしたが「ベッドへ行け」と言っても「ベッドはジョーが」と押し問答になるに違いないと気付いた。
 ジョーはそっとソファから下りると、丸まっている毛布ごとリリを抱き上げた。彼女の体が小さく震えているのが、毛布越しに伝わって来る。すでに冷えてしまっているのだ。

 暗い廊下を足早に、しかし慎重に進む。躓かないように、ぶつけないように。
寝室に辿り着き、足で器用に掛け布団を開き彼女を下した。柔らかな起毛素材の温かそうな敷布は、しかし当たり前だが温まるまでは冷たいのである。敷布の冷たさのせいか、リリは目を覚ました。唇が微かに震えた。
「寒いか?」
やはり寒いのだろう、否定せず毛布の中に顔を埋めている。ジョーは毛布の上から彼女の背をさすって、
「なんであんなとこで寝てたんだよ、ばかだな、無謀過ぎだろーが…」
「じゃあ……ジョーもだよ…、ジョーも、リビングなんかで、寝ちゃだめ………」
「オレは大丈夫なんだよ、もともと暑がりだし」
あまりに彼女が震えているので、まさか熱なんてないよな?と心配になったジョーは、彼女の額に手を当てた。幸い額は冷たかったが、さらに冷たい小さな手が、ジョーの手を掴んで、かちかち震える唇が言った。
「ジョー、お願い……、温めて」
ジョーは固まってしまった。
「ジョーがベッドに入ってくれたら、温かくなる…から…」
「あぁそうか…、そうだな」
とんでもない事を想像した直後だったので、ただ同じベッドに入るぐらい何て事はなく感じたジョーは、躊躇いもなくリリの横に入った。素早く掛け布団を掛ける。隙間が空いていると寒いので、ジョーはリリを抱き込む形で横たわった。口元にリリの頭がある。
(あ……!)
ジョーは、彼女の頭が五日前と同じ香り、自分と同じになっている事に気付いた。
 髪だけじゃない、何もかも同じはずだ。同じもので洗った髪、身体、衣類。同じ物を食べて、同じ物を飲んで、同じ映画を観た。
 そして今、同じベッドに入っている。

 説明のつかない充足感がジョーを支配した。大満足に頬が緩む。それからしばらく、一人ひっそり、その気分を味わった。

 「……ん」
小さな溜息を漏らして、毛布の中からもっそりとリリが顔を半分出した。目の前にあるジョーの顔を上目づかいで見ると、
「温かい…ありがと…」
と囁くとふふっと笑った。
「昼間おまえが干してくれたから、布団がふわふわだよな」
「……ふわふわ…だけど、…冷たかったね………、でも……もう…温かく………」
首を逸らせてジョーを見ながら喋っていたリリだったが、温かさと共に眠気にも包まれたらしく、ことんと俯いて眠ってしまった。
「……早えーな、今まで喋ってたのによ……。パメラ以下だな」
驚きながらも、ようやく彼女に暖かな眠りが訪れてくれた事に心底ほっとした。しかし室内で凍死しかけるなんて聞いたことがない。
(まったくこいつはビックリ箱だな)
ぴったりの表現に思わず噴き出してしまった。慌ててリリの様子を伺うが、彼女はぐっすり眠っている。
 さて、オレはどうしようかと思ったが、今、何もかもがとてつもなく気持ち良いこの状態から、今更あのリビングの冷たいソファへ一人で戻る気には到底なれなかった。
(このままここで一緒に寝てしまったとして……)
ジョーは、彼女の髪の香りをそっと確かめながら考える。
(朝になって目を覚ました時に、怒ったりはしないよな…? ああ、そうだ「どうしても寒かったら一緒に寝る」って、前に力説してたよな……)
よって、このままでも良いと結論付けたジョーは、安心して目を閉じた。
 かつて女と一つのベッドに入って、何もしないまま眠った事など一度もなかった。
(こいつは女じゃないからな……)
薄れてゆく意識の中で、誰にともなく言い訳をするジョーだった。





 小さなぱらぱらという雨音で目を覚ましたリリは、すぐに、ジョーの寝室のベッドで、彼の腕枕で寝ているという事態を把握した。リビングで寝ていたのにどうしてこうなったのか経緯は分らない。
 腕がここにあるという事は、後ろにジョーがいるという事……?
聞き耳を立てると、背後で規則正しい寝息がしている。ああ、やっぱり……! その穏やかさに比べて、自分の鼓動は爆発的だ。気付かれてしまいそうなほど。
 
 リリは意を決して上体を起こし、恐る恐る振り向いた。
ベッドの半分にジョーはいた。眠っていた。左腕を伸ばして。
なんて綺麗な顔……。青い瞳が閉じられていても、美しさは陰らない。
 つい、状況も忘れて見つめてしまう。
彼の寝顔を見るのは二度目だ。一度目は、ビーチで悪戯した時。あの時は、ディミーと静かに大慌てでジョーを砂に埋めていたので、睡眠薬を嗅がされて起きない彼の寝顔の美しさにうっとりするなんて隙はなかった。

 仲間の一人だったジョーと、今こうしている事の不思議。
枕に拝借していた腕を見る。どうしてこんな…? また、心臓がばくばくと激しくなって来る。

 耐え切れなくなったリリがベッドから出ようとした瞬間の、その僅かな軋みにジョーは目を覚ました。
リリは固まったままジョーを見ているしかない。隣で自分を見下ろしているリリに気付いたジョーは、寝ぼけている意識を密かに叩き起こして、状況を思い出した。
「……待て。今、説明するから……」
なるべく落ち着いて、さりげなく…と心がけながら、何もなかったんだという感じを盛ろうと務める。
「おまえ、オレに付き合って、昨夜リビングで、しかも床の上なんかで寝てただろ」
確かに覚えているリリは、小さく頷く。
「うんじゃねーよ、床の上なんてありえねーだろ? 案の定ガクブルになってて、それでオレにここへ運ばれただろ?」
その記憶は頭のどこにもない。
「あ、そこは覚えてねーのな。じゃ、このベッドが冷たくて、一緒に入ってくれっつったのも覚えてない?」
(えええ、そんな事を言ったの?!)
ぐるぐると記憶の闇を飛んでみると、ぼん!と映像に行き当たった。ジョーの顔が目の前にあって、温かくなって幸せだと思っている…。
「…言いました……」
頬を赤くしながらしゅんと項垂れているリリを見て、
「夜中に風が強くなって、急に冷え込んだんだよ。オレが目が覚めちまうくらい寒かったんだから、仕方ねーよ。あのままソファにいたらオレも今頃、凍ってたかもな。ま、今回はおまえのおかげでオレも命拾いしたぜ」
そう言いながらリリにデコピンしようとした左手は、強張っていて動かせなかった。思わず呻く。
「ってぇ………」
リリはすぐに腕枕のせいだと理解して
「ごめんなさい……」
と小さな声で謝った。
「そう思うなら、コーヒー淹れろ」
リリはがばっと起き上がり、ベッドから抜け出ると、ぱたぱたと出て行った。

 一人ベッドに取り残されたジョーは、ゆっくりと左手を閉じたり開いたりしながら、一晩中受け止めていたリリの重みを思い出した。
 実は明け方に一度、ジョーは目を覚ましていた。一緒のベッドで向かい合って寝ているリリに驚いたが、すぐに凍えていた事を思い出した。そして、喉元過ぎれば何とやらで、生命の危機も無い今、目の前で無防備に眠っているリリがやたらと可愛いく見えるのだ。夜中に暑くなり過ぎたのか包まっていたはずの毛布はなくなり、貸したシャツは当然ながら彼女には大きく、はだけた肩が薄暗い部屋に白く浮かんでいた。
 
 右手をちょっと動かすだけで、その細い肩に触れる事は簡単にできるし、このままちょっと首を傾げるだけで髪はもちろん、額にも楽にキスが届く。起こしても構わなければ、その先へ一気に運べるシチュエーションだ。その先へ……
 
 まだ朝日の入らない部屋の中で、ジョーは天井を仰いだ。
そんな事をしたら最後、もう二度とコイツには会えない。五日とかそんなもんじゃなく、二度とだ。

 自由になる右手で、目を覆う。降り出した雨の音にそっと集中した。
天気予報は当たったな。一日中雨なら、洗濯も布団干しもしなくていい。コイツの事だから、いいって言っても、絶対に動くに違いないんだ。でも雨なら諦めるしかない。今日こそのんびりさせてやれる。そして、車で送って行けばいい。
 そんな事を考えていたら、左腕の上で、リリが寝返りを打って背を向けた。ジョーから見えなくなった左手に、リリの右手が重なった。寝ぼけながら握って来る。
(やっぱビックリ箱だ…)
ベッドの中で手を繋ぐなんて、とんでもなく恥ずかしい。だが、誰が見ているわけでもないから、まぁいいか。
 そのままジョーは、リリの好きにさせていた。
欲望が消えたわけではなく、理性で抑え込んでいるだけなので、蛇の生殺し状態に等しかったが、それでもリリと手を繋ぎながら、いつの間にかまた眠りに落ちて行ったのだった。





 ジョーの目論見通り、この天気ではコーヒーを淹れる以外にリリの仕事はなかった。しかし生真面目なリリは、食事の支度はすると言い張ったので、夕食だけ作ってもらう事にした。ランチを街で取り、その帰りがてら食材を買う計画を立てた。
 午前中はぬくぬくのんびり過ごし、お昼前に出かけた。相変わらず雨はしとしと降っている。傘が一本しかなかったので、ジョーは仕方なく感を前面に押し出しながら相々傘をした。
 街中は雨でも日曜日なので賑やかだ。行き交う人々は皆、色取り取りの傘を咲かせて歩いている。傘に隠れてジョーも目立たなかった。
 それでもジョーは今回も変装をしていた。黒縁の伊達メガネをし、ニット帽を被る。変装をして出かけるなんて事は、あの日まで一度もした事はなかった。全てはリリのためだ。海賊ジョーの恋人疑惑に巻き込まれないように。それに、変装していると色々な事が堂々と出来て楽しかったので、味を占めていた部分もあった。


 ジョーは思い切って窓際の席でランチを取った。雨に濡れる通りを眺められるという事は、即ち外からもこちらが見えているという事まのでいつもは避ける席なのだが、今日は大丈夫なような気がした。初冬の冷たい雨の中、傘を差して歩く人々は、じっくりカフェの内まで覗き込んだりしない。それにリリがいる。パッと見はデート中のカップルだ。海賊ジョーは女と二人きりで人前にいた事なんて今まで一度もない。更に子供だましレベルだが変装もしている。と来れば、取りあえず海賊ジョーたるアイテムは極小なはず。
 そうして予想通りに、海賊ジョーだとばれることなく、二人は温かいパスタ料理を楽しみながら、色々な人々を観察し合った。「あの男は実は宇宙人」とか「あの女の子二人組は一見友達同士に見えるけど、本当は親子で、しかも昔は息子とパパだった」など、ドラマチックに設定を競い合い、時に噴き出しながら道行く人々を眺めた。

 その後はブックセンターへ寄り、ジョーはバイク雑誌を、リリはレシピブックを物色した。熱心に見入るリリの背後から、ジョーは掲載されている写真を指してリクエストしたので、それが今晩のメニューになった。
 
 必要な食材をマーケットで買って行く。平日分のジョーのレトルト食品もカートに入れる。
 リリがジョーと一緒に買い物をするのは、このブーナシティではようやく二度目だった。最初に店を教えて貰った日以降、家政婦リリは一人で買い物に来ていた。パーズンの定休日でも、ジョーは同行しなかった。ジョーが隣にいれば目立ってしまう。そのころの彼女は、仲間内で行方知れずになっていたので、居場所も状況も広まるわけにはいかなかった。休みの日ぐらい一緒に行って、荷物持ちでもしてやりたいと本当は思っていたが、堪えていたジョーだった。

 でも、もう今なら大丈夫だとジョーは思っている。『海賊ジョーが女と二人で歩いている。恋人かもしれない』と噂になって、その女がリリらしいと仲間内の耳に入ったとしても、そんな下世話な話で彼女が傷付くことはない。リリはもう自立している。
 そういう訳で今日のジョーは強気だった。面倒臭いのが嫌なので、取りあえずの変装はしたが、噂になったらなったで構わないと思っていた。
 ただ彼女に迷惑のかからないよう、寮近辺では海賊ジョーの目撃情報はゼロにしておきたかったので、迎えに行っても寮から離れた場所で待ち合わせたりしていたわけだった。

 マンションへ戻る途中で露店の花屋に出会い、リリはまたジョーからリリのミニブーケを貰った。先週とは違って、リリの花だけで作られていた。
 ジョーもリリも食材の入った袋を抱え、空いた方の手でジョーは傘をリリはブーケを持って、夕方の雨の中を一つ傘に入って家路を歩いた。





 その夜、リリはジョーのリクエストに見事に応え、立派な夕食となった。からかう余地のないほど完璧に近い料理にジョーは大満足だった。レシピさえあれば私だって出来るのよ、とリリは得意気だった。





 そうして夜になっても止むことのない雨の中、ジョーは車でリリを送り届けた。
雨・夜・車の三拍子で、人目に付きにくいと判断したジョーは、寮のエントランス先まで乗り付けた。
そして、来週末の契約(照れるのだろうか『約束』とは言わない)を取り交わし、ジョーはブーナシティへ戻って行った。


 二日間無人だったリリの部屋は冷えていた。照明と暖房を点けても、寒々しい感じが消えない。

 同じくジョーも、部屋に帰り着いてリビングへ入ったが、小一時間前にはなかった寒さを感じた。

 気温が下がったからではない。

 リリはブーケに鼻を埋めながら、ジョーはリリが忘れて行ったエプロンを見つめながら、
「一人になってしまったから暖かくないのだ」という事を、薄々意識し始めていた。

第28話 Holiday END
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