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第27話  旅立ち
 本人の不安を余所に大した失敗をすることもなく、リリは病院勤め三日目に入っていた。無我夢中で一生懸命な姿は、彼女の知らないうちに評判となり、静かにしかし確実に噂になっていった。
 
 その日の午後、患者の途切れたタイミングでミネルバの携帯が鳴った。
「あら、こんにちは。―――ええ、元気よ。立派にやってるわよ、もう、大助かり。―――今? 私は構わないけど、ちょっと待って、本人に代わるわ」
ミネルバは受付にいるリリを呼んだ。
「リリ、あなたに電話よ」
「え、私に…?」
「アレンよ」





 病院の中庭にアレンの姿を見つけたリリは、思わず足が止まった。彼は細長い雲が幾筋も横切る青空を仰いで立っている。ただそれだけなのに、その姿から、彼と過ごした日々の幸せだった気持ちが一気に蘇ってしまった。本当に幸せだった。それなのに、憔悴した表情で涙ぐんだ彼が最後に見た彼だったことが、今胸を締め付ける。
 
 あれから約一ケ月。ほんの一ヶ月。でももう一ヶ月。

 アレンは今、どんな思いなんだろう。
考え出すと一歩も踏み出せなくなってしまうので、大きく息を吸い込み勢いをつけて芝の上を歩いて行った。

 彼女に気付いたアレンは身体の向きを変えた。
「悪いな、仕事中に呼び出したりして」
照れくさそうに笑っている。アレンの元を離れて以来、初めて聞くムーンベース語だ。
「ううん、大丈夫」
リリも月語で返事をしたが、それきり頭に浮かぶ言葉たちは唇に乗ってくれない。
「久しぶり。元気そうだね」
穏やかな口調でアレンが言った。
「うん……」
「仕事はどう?」
「うん、良くしてもらってる、すごく感謝してるの」
アレンがずっと優しい表情でいてくれるので、リリも落ち着いて答えられるようになった。
「そうか、良かった。寮に住んでるんだって?」
「そう、歩いて通えるの。私、ちょっと方向音痴で、近くないとダメだって、………」
ジョーに言われた…とは言えずに飲み込んだ。

 そんな風に黙ってしまう方がおかしいのに。

 アレンは知っているのだから。リリがアレンの家を出たものの、頼みの綱だったミネルバが不在で、そのままアレンの親友の部屋へ転がり込んだという事実を。
 そのことについて嫌味を言うでもなく、罵ることもなく、穏やかな顔で会いに来てくれた。
「アレン。私、その寮に入るまで………、ジョーの部屋に………」
やましい事は何もない。共通の友人の家にお世話になっていたという話だ。だのに、喉がカラカラになってうまく喋れないのは、目の前にいるアレンが、ジョーと自分の仲を誤解し、面白く思っていなかった時期があるからだ。
 
 ジョーの話では、アレンは納得したという。
 でも本当に? わだかまりは無いの? 私がジョーの話をしても不愉快にはならない?
 
リリが次の言葉を探していると、
「メイドさせられてたんだってな。あいつ、マジでそーゆー暮らしっぷりだったから、そんな発想になったんだろうな」
そう言いながらアレンはくくくっと笑った。
「え、あ、そう…か、…」
ジョーは元貴族だったっけ…と思い出しながら、目の前で笑っているアレンの気遣いが胸に刺さる。
「じゃ…じゃあ、私……お坊ちゃまとかって呼ばなきゃいけなかったのかな……」
彼女の一言に、ますますアレンは笑った。そして、
「ね、名前、教えてよ。ジョーに、直接訊けって言われててさ」
「え…」
いざ、リリという名前をアレンに告げる時が来てみて、彼女は動揺してしまった。しかし、ジョーが「本人に直接訊け」とアレンに言ったという事は……リリへの言葉に言い換えてみれば「自分で直接アレンに言え」という事なのだ。
「……リリ…って言うの…」
「リリ。何か意味があったりするの?」
笑顔のアレンは知らないのだ。ジョーに嫉妬して、海に捨てた花の名を。

 悩んだ彼女は、しかし、誤魔化したり嘘を言うのは嫌だと強く思った。この花に対してはいつも誠実でいたい。
「友達が、私の幸せを願ってくれた、花の名前なの」
花の名―――。それだけでアレンは理解した。あの時の花とまでは気付けなかったが、花に幸せを願ってくれた友達とはジョーだ、と。

 アレンは俯いてしまった。落とした視線は足元の芝の上を泳いだ。頭の中で彼女の言葉を繰り返す。友達。

 僅かな葛藤の末、アレンは立ち直った。彼女にとってジョーは友人なのだ。本人がそう言うのだから、俺もそう思おう。

 彼は顔を上げながら言った。
「ユリか…」
「え、…ううん、リリーじゃないの、リリ…。ユリみたいに大きくて華やかな花じゃないの、小さいの」
「ああ、そうなんだ。小さい花なんだ。そうだな、その方がらしいな。リリ、可愛い音だな。良く似合ってるよ」
「…ありがとう…」

 大輪の凛とした白ユリは、海賊アルテミスなら良く似合うのに…と思ったが、それは胸にそっと仕舞ってアレンは言った。
「もう、知ってると思うけど、カーラたちの土星旅行、引き受けてさ。延び延びになってた出発がやっと明後日になったんだ。で、明日の夜なんだけど、カサリナで恒例の壮行会してくれるっていうから、ミネルバたちと一緒に来てくれよな」
「え……」
「メンバーには言ってあるからさ。アルテミスじゃないってこと。誰も何も言ってないし、ほんと何も気にしなくて大丈夫だよ。つか、会いたがってる。とくにディミーが心配しててさ。明日、話してやってよ。ここで働いてる事とか、寮の場所とか」
「……」
リリは頷くのが精一杯だった。アレンの優しさに、堪えきれずに涙が零れた。

 また泣かせてしまった。彼女の泣き顔は、あの日を一気に思い出させる。アルテミスを押し付けて、彼女を傷つけたあの日。
「ごめんな…」
唐突に謝られて、リリは訳が分からずアレンを見た。
「本当にごめん。勝手に地球へ連れて来て…放り出して…無責任で…」
「違う、アレンは、雨の中から、記憶を失くした私を助け出してくれたのよ、ありがとうって思ってるの、心から、ありがとう、って」
涙を拭いながら一生懸命に伝えてくれる彼女が愛おしくて抱き寄せたい衝動に駆られたが、そっと拳を握って押し殺した。
「あのさ…もし…。もしだよ、海賊アルテミスの事で、何か困ったり、知りたい事ができたら、とりあえず、俺に言ってみて。この星で本人の次に一番彼女の事知ってるのは、絶対俺だからさ」
彼女は涙をごしっと拭って頷いた。またぼろりと零れるので拭う。頷く。
とうとうアレンは、そっと手を彼女の頭に乗せた。
陽光の透ける金糸の頭。柔らかい懐かしい感触。一ヶ月前はアルテミスだった、自分の恋人だった、特別だった、けれど今はただの…友人。
「リリ」
アレンに呼ばれて、リリは彼を見た。しかし、アレンは何を言う訳でもなく、じっと彼女を見ている。
「リリ…」
「……なに……?」
アレンにリリと呼ばれるのは…なんとも複雑な気分だ。
「ムーナシティって言えるようになった?」
彼の緑の瞳が、悪戯っぽく笑っている。
「……もう、アレンまで……。私、ムーンベース出身よ? ムーンって言えてるでしょう? ブーナシティだって言えてるのに」
「 …え? ブーナ?」
「違うわよ、ブーナ。いい? ムーンベース。ブーナシティ。ね、同じでしょ?」
アレンは噴き出した。
「え? ちょ、ちょっと、アレン…!」
不思議だな、と言いながらアレンはしばらく笑った。心の底から笑った。


 診察室に戻ると、ミネルバが温かいお茶を淹れてくれた。カップを両手で包みながら静かに泣くリリの肩を、ミネルバは何も言わずに抱き寄せてさすった。





 翌日の夜。
繁華街にある居酒屋・カサリナの一番奥にある、ちょっとしたつい立で仕切られたテーブル席は、11人の男女で賑わっていた。そこへ新たな人影が勢い良く飛び込んだ。
「こんばんは〜! 遅くなってごめんなさ〜い」
「おー! ミネルバ先生、ご到着だー」
すでに酔って上機嫌のゴセが大声で言ったので、みんな一斉に顔を向けた。すると、ミネルバの背後にいた人影が、もそっと顔を出した。一瞬の沈黙を破ったのはやはりゴセ。
「行方不明者リリ、連行〜」
どっと沸く輪の中から、ディミーが立ち上がり、リリに抱きついた。
「もう! 遊ぼうねって約束したのに…!」
「…ごめんなさい…」
「頑張ってたんだね、リリ……!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、彼女の温かさに胸が熱くなる。
「うん…、ありがと、ディミー…」
サラの隣に腰を下ろしたミネルバに促されて、リリもディミーとゴセの間に座った。輪はすぐに大騒ぎに戻り、リリの前にもグラスや小皿があっという間に並んだ。そして、メンバー全員が揃ったところで、改めてアレンとカーラとロイの無事を祈って乾杯をした。

 大きな楕円のテーブルの中央に主役の三人が座っている。リリからは斜め左の向かいになる。リリと目が合うとアレンは笑った。リリも微笑んで返す。アレンの言った通り、誰も何も聞かなかったし、意味深げな視線も飛ばなかった。そして初めからそうだったかのように、皆彼女をリリと呼んだ。一人だけ除いて。

 誰よりも早くその名を知ったくせに、頑なにリリと呼ばないその男は、一番奥の楕円のコーナーで煙草を咥えていた。左隣にはメッカ、右隣りにはケンがいる。彼からリリはほとんど見えない。しかし見えたとしても見なかった。何故ならジョーとリリを同時に観察できる絶好の位置に、あのロイがいるのだ。

 そして、そのロイとアレンの間に座っているカーラは、何となくバツの悪い思いを抱いていた。
(目の前で彼女は明るく笑っているじゃない。私は悪い事をしたわけじゃない、私のせいであの二人はダメになったんじゃない)
何も気にすることはないのだと、何度言い聞かせてもじわじわと滲み出す呵責の念。カーラはそっと席を立った。

 化粧室で鏡の中の自分にもう一度言い聞かせて通路へ出ると、リリが歩いて来るところだった。思わず足が止まる。しかし、近づいたリリはカーラをまっすぐに見ながら声を掛けて来た。
「カーラ、あの夜のことなんだけど……」
前振りもなく、単刀直入に切り込まれ、さすがのカーラも内心狼狽えた。
(こんな場所でケンカを売るの? そりゃそうよね、頭に来てるわよね。あんな事言われたんだもの)
即座に覚悟したのに、
「ありがとう」
とリリは礼を言って来た。
「え?…」
「カーラが言ったことはね、私も思ってたことだったの。でも私、怖くて自分じゃはっきりさせられなかったの。カーラに言葉にしてもらって、ようやく向き合えた。だから、ありがとう。ずっとそれが言いたかったの」
嫌味でも何でもなく、本心のようだ。予想外の言葉に、どう返していいかわからず黙っていると、
「三ヶ月の長旅、気を付けてね」
そう言い、リリはカーラの脇を通り越し、化粧室へ向かって歩き始めた。振り返り、彼女の背を見ていたカーラは呼び止めた。
「リリ」
まさか呼び止められるとは思っていなかったリリは、驚いて振り向いた。アルテミスと名乗っていた頃も含めて、カーラに名前を呼ばれるのは初めてだった。
 カーラは、真面目な顔をしてこちらを見ている。…睨んでいる、と言えそうな表情だが、彼女の口から出た言葉は、
「……お土産、…リクエストある……?」
さながら青天の霹靂、カーラのまさかの言葉の意味が良く分らなかったリリは一瞬固まってしまったが、すぐ理解すると同時に今までの緊張があっという間に溶けて、
「三人の無事な帰還」
と、満面の笑みを咲かせて答えた。
 かつて、木星へ旅立つアレンを一人見送りに行った時、アレンに土産のリクエストを訊かれた自分と同じ答えをリリに言われて、今度はカーラが一瞬固まった。が、リリの笑顔にカーラの緊張もぱっと解け、微笑み返しながら
「分った」
と言い、席へと戻って行った。

 カーラを見送ったリリは化粧室へ向かって歩き出した。角を曲がった瞬間、大きな人影にぶつかってしまった。
「ごめんなさいっ」
「仲直り?」
慌てて謝りながら見上げると、立っていたのは、通路の販売機で煙草を買って戻る途中のジョーだった。
「……うん」
ジョーはロイ以外のメンバーの中で、カーラとリリの確執を唯一知っている。表情にこそ出さなかったが、アレンとの再会よりも、実はカーラとの再会こそジョーは心配していたのだ。しかし、ちゃんと乗り越えたようだ。しかも自分から切り出したらしい。ジョーは、リリに戻りつつある強さを嬉しく思っていながら、そんな素振りは微塵も見せずにしれっとした顔で買ったばかりの煙草に火を点けた。
 紫煙と共に広がるあの香り。日曜日に別れて以来、四日ぶりに嗅ぐ香り。四日ぶりに見るジョー。
「なんか久しぶり……、ジョーの煙草の匂い…」
そうそう、こいつはこの匂いが好きだったよな。とジョーは内心ニヤニヤしながら、
「どうだよ、仕事は。ちゃんと懺悔しに行ってるか?」
「あら。懺悔なんて必要ないのよ」
「ヘマしたことにすら気付かねぇって?」
「違うってば! ミネルバさんに訊いてみてよ」
「まあ、明日を無事に終われば、一週間なんとか持ったってコトだしな」
「無事に終わるもん」
そして週末が来たら……。
ようやく明後日に近づいた週末の事が頭に浮かんでいるのに、二人とも口に出せない。
土曜日、分ってるんだろうな、家政婦の仕事だぞ。とさらりと言えばいいのに、ジョーもどうしても切り出せない。
 四日ぶりにリリの目の前に立ってみて、ホンモノに会えた嬉しさがこみ上げる。記憶が捏造されてやしないかと疑い始めていたのだが、やっぱり、こいつは結構カワイイじゃん、などと思ったりしているので、うまく喋れないのだ。
「おまえ今夜どうやって帰るの?」
「ミネルバさんがタクシーで寄ってくれるって」
サラもミネルバも何も気にせず呑んでいるので、いつものようにタクシーで帰るだろうと、ジョーも予想していたが、なるほど、リリも同乗させてもらうってわけか、と納得した。
「そうか」
そう答えた瞬間、
「あれ、ジョーが送ってくんじゃなかったのか? 酒呑まないでるんだろ?」
と言いながら、リリの背後の角から現れたのはロイだった。ジョーは瞬時に気構えた。今の会話を電光石火の早業でなぞる。変な流れにはなっていないはずだ。週末の家政婦云々は言わないでいて良かった。落ち着いて応戦する。
「酒呑まないのはバイクで来ちまってるからだよ」
「いつもは置いて来るのに、今夜はどうしてまた?」
「時間がなかったんだよ」
「へぇぇ?」
ジョーの表情は変わらない。が、青い瞳は一層深みを増し、怒りの炎が小さく揺らめいている。
 しかし、そんなジョーの気持ちなど知る由もないリリはロイに向き直って、
「割り込んでごめんなさい。ロイさん、この間は写真をありがとうございました! あの写真、本当に本当に助かったんです、ロイさんは恩人です、ありがとうございました!」
頭を下げられたロイは、何をどう助けたのか細かい事までは分らなかったが、あの写真が彼女にとって大切な一枚だったという事は十分に察しがついた。、
「良くわからないけど、恩人とは光栄だな。でも俺、キミのアドレス知らないから、ジョーに送っといたんだけどな」
「やっぱりワザとだったのかよロイ!」
思わずかっとなる。
「あれ、俺言わなかったっけ? 彼女に渡しといてって」」
「なんでそこでオレなんだよ」
「なんでって、おまえと一緒にいた時の写真だったから、だけど?」
ぬけぬけとロイは言う。普通なら、まず彼氏のアレンに送るべきだ。あの時すでにロイが、アレンとアルテミスの破局を知っていたとは思えない。言いたい事は山ほどあるが、リリ本人の目の前でジョーはうまく反撃できない。
「ま、どうでもいいよな、写真は無事に渡ったんだし」
ロイはにっと笑って意気揚々と席へ戻って行った。あら、何しに来たのかしら?とリリが訝しんでいると、憎々しげにジョーがぼやいた。
「あのヤロ〜……! ったく、ハイエナみたいなヤツだぜ。あれで本当に一国のエリートだったのかよ」
「…もしかして、今の私の言葉で、一緒に居た事、ロイさんに分っちゃったってこと?」
「いや、今のってより、もっと前から……。おまえがオレんとこで住み込み家政婦してたことまでは知らないと思うけど、あの写真はわざとオレに送ったってんだから、オレとおまえが繋がってるってのを知ってたのか、そう推察してたんだか…」
「…推察? どうしてそう思ったのかな」
「そりゃ、オレとおまえが――――、」
言いかけて言葉を飲み込んだ。そう思われる原因と成り得る色々な情景は浮かぶものの、それらを言葉にしようとすると、なんだかとてつもなく恥ずかしい。もっともらしい違う表現を探す。
「パーズンで繋がってるかもって思ったからじゃねーの?」
「パーズン、で…。パーズン……?」
パーズンならメッカもニックもケンもいるし、それこそアレンもメンバーだ。説得力が低過ぎる。
「じゃなきゃ、やっぱ、あれだな、写真の時、一緒にいたからかな。あん時もロイのヤツからかってたしな」
「そうだったね、仲良いね〜って言ってた…」
思わず言ってしまってから、リリは赤くなった。つまりそういうことだ。ロイの目から見て仲が良いからだ。
 居心地の悪い空気に包まれる。お互い向き合っているのに、視線は外れている。脈がどくどく打つのと同調して、耳元の空気も波打っているようだ。 
 沈黙を破ろうとリリは話題を変えた。
「アレンに連絡してくれたんだってね、私の仕事、決まったって。どうもありがとうね」
「…アレンに約束してたんだよ」
ジョーは煙草を壁際の灰皿へ捨てた。
「名前ね、似合ってるって、可愛いって言ってくれたよ。誰かさんは鈴虫とかってバカにしてるけど」
自分が呼んでやれない名前を易々と呼び、可愛いとまで言ってリリを喜ばせられるアレン。
胸に湧き出た気持ちは衝動となって、ジョーはリリの背後の壁へバンと手をついた。彼女を間近で見下ろしながら、
「バカになんてしてねぇよ」
こんな距離でジョーの顔を見るのは久しぶりだ。ジョーの青い瞳が見下ろしている。彼の今見ている全てが映し出されているその瞳には、自分しか映っていない。不思議だと思いながらも滲み出す幸福感。
「じゃあ、……呼んでよ、ジョーも……」
「呼んでいいのかよ」
「……え?」
言ってから、バカなことを言っているとジョーは自分に呆れた。彼女は何も知らないのに。そもそも、花の贈り主のジョー以外の人間が散々呼んでいる時点で、その名前は特別ではなくなっている。本来、求愛に使った花の名は、当事者間でしか使わないのだ。だからジョーも一緒になって、意味など無関係にリリと呼んでやれば良いのだ。元より始りがすでに違う、“求愛で贈ったわけではない”のだ。
それなのに、勝手にずっと拘っている自分は滑稽で愚かだし、彼女にとってはまったくもって薄情なヤツだ。分っているが、それでも呼べない。
「明後日十時、迎えに行くからな」
短く言うと花のような甘い香りを漂わせてジョーは立ち去った。リリは彼が角を曲がってすぐに見えなくなっても、四散していく残り香の中に佇んでいた。


 店のドアにへばり付いてタクシーの到着待ちをしているメンバーの中のリリに、アレンはそっと月語で話しかけた。
「あのさ、もしできそうだったら、リンのところへ行って話してあげてくれないか」
「………。話…?」
「うん。現状を。一ヶ月以上経ってるし、心配してるかもしれないからさ。でも、無理しなくてもいいよ、話に行く気持ちになれた時でいいからさ。で、リンの身の保障は万全だって安心させてやって」
尤もだとリリも思った。今すぐにはとても無理だけれど、確かにこのままでは良くない。
「分った、そのうち必ず行く」
「うん」
アレンは心底ほっとしたように笑顔になった。笑顔に胸が締め付けられそうになった時、
「タクシー来たぞー」
と酔っぱらいの大声が上がった。カランコロンとドアベルを鳴らし、タクシー組が店を出て行く。
「アレン!」
歩き出そうとしたアレンをリリは呼び止めた。
「どうか、無事に」
「…ああ、サンキュ!」
リリの言葉にアレンは一瞬驚いたが、すぐに笑顔になって礼を言った。少しだけ寂しげな色を瞳に乗せた笑顔を残して、ケンとメッカと一緒にヒイナの運転する車に乗り込みホームタウンへと消えて行った。

 別れの感傷に襲われる暇もなくミネルバに呼ばれて、リリもタクシーに乗り込んだ。後部座席にミネルバと並んで座ると、リリの目の前を窓ガラス越しに見慣れたバイクが走り抜けた。遠のいて行く音にすら、リリの心臓は跳ね上がる。
「あら、今のジョー?」
ミネルバが気付いた。
「そう、ですね」
リリの様子を見たミネルバは、あ!と閃いて囁いた。
「ねえ、もしかして送ってもらう約束、してた?」
「え、そ、そんなの、してないですよ」
「本当に?」
「本当です」
「え〜、実は昨日とか、そういう話してたんじゃないの〜? だから、今日のジョーはノンアルコールだったんじゃないの〜?」
問題も解決して、今夜はお酒が美味しく呑めたミネルバは上機嫌で、車内には夫しかいないことも手伝い発言が大胆になって行く。
「本当に何もしてないです。ジョーと話したの、引っ越し以来ですから」
「またまた〜…、あ、そうか、リリ、携帯持ってないんだっけ。ねえ、病院ので良かったら、明日にでも貰えるわよ。そうよ、利用しなくちゃもったいないじゃない、急場しのぎぐらいにはなるし、ね? 早速明日、貰いましょう!」
「ありがとうございます」
酔ったミネルバにぐいぐい話を進められたが、リリは嬉しかった。





 正午前の屋上は、ぽかぽかと日差しが温かかったが、頬や髪を撫でて行く風は冷たい。
携帯電話を握りしめながらミネルバは遥か彼方を一生懸命睨んでいる。彼女の横で、リリもまた、金網に手をかけ遥か彼方の地平線を見つめていた。
「あ、また一機、上がって来たわ」
電話の向こうでは、管制センターで休憩中のサラが答えている。
「ああ、それだよ、今、無事に離陸してったの見たから」
ミネルバはリリに言った。
「あれですって、ブレイブアロー」
「はい…」
リリも機影を捉えていた。アレンとカーラとロイの三人を乗せたアレンの艦。木星から地球まで運んでくれた頼もしい艦。穏やかな口調だったマザーコンピューターのレッブ。思い出をたくさん作った艦だ。
(気を付けて……。行ってらっしゃい、アレン………)
ブレイブアローはぐんぐんと力強く上昇して行く。真っ青な空の中、みるみる小さくなって行く黒い機影は、冬の陽光を機体に一瞬きらりと反射させると、白い霞のような雲の向こうへと消えて行った。



第27話  旅立ち  END
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