<<TOP <<BACK NEXT>> | ||
第26話 ミオソティス・アルペストリス |
||
結局ミネルバの出張は、当初の予定より四日も延びた。アレン達の出発に間に合わないところだったが、アレン達の方も出発が十日ほど延びたので、壮行会は全員参加で行えそうだった。リリさえ皆の前に出られる勇気が持てれば。 ようやくリリがミネルバに会えたのは、出張後の始末を一通り片付けた二日後だった。土曜日の病院は外来診療がなく人目が少ないので、海賊ジョーが来るには(きっと一緒に来るに違いないとミネルバは踏んでいた)好都合だった。 「ミネルバさん!」 長い廊下の向こうからぱたぱたと小走りしてくる影が呼んだ。 「いらっしゃい、良く来てくれたわ!」 駆け寄った彼女の手を、ミネルバはぎゅっと握った。それから、予想通りに彼女の後ろにゆらりと立っている長身の影にも声をかけた。 「ジョーも、いらっしゃい」 「私、すごい方向音痴だからって送って来てくれたんです」 「コイツ、方向音痴の前科者じゃん?」 そんな口実押し付けたのね…と、ミネルバはくすぐったかった。 「ま、店も定休日だしさ」 「そうよね、あなたのお店、土日に閉めちゃってもやってけちゃうのよね」 そうなのだ。土日はバイクに関係ないジョー目当ての客が押し寄せて仕事にならなくなってしまうので、きっぱりと定休日にしてしまったのだが、パーズンにバイクをカスタマイズして貰いたい客は、平日でも切れることなくやって来る。 「まーな。うちのメカニック、サイコーだからな」 自分の店が繁盛している理由を、ジョーは本気でそう思っている。そこがスタッフから愛される経営者という訳なのだろう。 「ミネルバ、オレにはお構いなく。テキトーに白衣の天使眺めながら待ってるよ」 「冗談じゃないわよ、あなたなんかにうろうろされたら病院中大パニックになっちゃうじゃない、ほら、こっち来て」 すでに立ち止まってこちらを見ている若者が数人いる。ミネルバは二人をエレベータへと押し込めた。 「ここが私の部屋。私ね、メンタルドクターなの。心の悩みや苦しみを吐き出したい人の手伝いをする仕事。でね、あなたには私の手伝いをしてもらいたいの。専門的な医療行為なんてもちろんないわ、患者さんの予約の調整とか、受付とか、私のお茶とお喋りに付き合う、とかね」 そう言いながらサーバーからコーヒーを注いで、二人の前に置いた。 「最後のがメインなんじゃねーの?」 「ま、失礼ね。さぼってばっかみたいに言わないでよ」 カップをじっと見ていたリリが、不安そうに顔を上げた。 「私にできるんでしょうか、本当に、医療知識の欠片もないのに」 「大丈夫。ねぇ、私が欲しいのは、明るくって可愛い、今のままのリリなのよ」 (今のままの私……。) ジョーと同じ事を言われて、リリはそっとジョーを見た。目が合った彼は、僅かに頷いて、その後はふんと照れて窓の方へ顔を向けてしまった。 「わかりました。私、一生懸命やらせて頂きます」 リリは頭を下げた。 「良かった!よろしくね、リリ! 出張中に前任者がいきなり辞めてしまって、看護師に兼務してもらってたんだけど、結果オーライだわ。じゃあ、早速、明後日の月曜日から来て貰えるかしら?」 「はい、よろしくお願いします」 ミネルバはジョーを伺った。ジョーも嬉しそうだ。隠しているようだが口が僅かににやついているので分る。ミネルバは心底安心して、自分もコーヒーに口をつけた。それを見ていたリリが、言いにくそうに切り出した。 「あの、ミネルバさん、働き出す前から図々しくて申し訳ないんですけど、その、寮とかありませんか? 贅沢は言いません、すぐに住めればどんな部屋でも」 「え…?」 ミネルバはきょとんとしてしまった。ジョーの家を、出る…という事か。思わずジョーを見る。 「ああそうだな、寮っていいよな。病院のモンだから、ヘンな物件とかじゃないもんな」 「そ、そりゃ、そうだけど…」 「どこか空いてませんか?」 「あんまり遠いとだめだぜ。歩き。歩きで通える距離な」 「ジョーったら、大丈夫だってば!」 「いーや、おまえのことだから反対行きに乗ったりするって。な、歩いて通えるとこない?」 二人の勢いに押され、ミネルバはデスクのPCを立ち上げ、調べ始めた。程なく、適当と思われる物件に当たった。 モニタを覗き込んだジョーが、情報を読んで納得したので、土地勘のないリリは迷わずそこに決めた。 帰りがけに、新しいロックデータを入力するためのカードを貰ってドアに入力さえすれば、すぐにでも入居できると聞いて、リリは笑顔でジョーに言った。 「明日、引っ越すね!」 「おう。じゃあ、どーせ休みだから、荷物運んでやるよ」 (確かに、私が帰って来たのだから、もうジョーの部屋にいなくていいわけなのよね…。) 適当な空き部屋がすぐにはないなら、当初の予定通りにミネルバの家にやっかいになるべきなのだ。そうなのだが、どうにもしっくりしない。そんな気持ちを抱えながら、制服合わせのために二人を伴ってミネルバは廊下を歩いた。 リリが制服のサイズ合わせをしている間、ミネルバとジョーは廊下のベンチに座り、カーラとロイがかつての彼女たちの祖国だったコロニーまで、アレンの船で行く旅の事や、それの壮行会の事などを話していた。 ひとしきり話し終え、ふと黙り込んだ直後にミネルバはぽんとジョーに投げかけた。 「寂しくなっちゃうわね」 「いーや、一人に戻れてせいせいするよ」 ……ほら、もう。やっぱりね。 ジョーの周りからアレンもカーラもロイもいなくなるという話をした直後なのに、ジョーの返事はリリがいなくなることに対しての返答だ。頭の中はさっきからずっとそのことで一杯なんだとミネルバは確信した。 「最初の一週間は、お知り合いの所に居たんだっけね。それから今日まで十日間か。ね、予想に反して楽しかったんじゃない? リリとの生活」 「楽しいなんてもんじゃねーよ、スリル満点だったぜ、アイツのビックリ飯」 「ビックリメシ?」 「もうホント、とんでもなくドジなんだよアイツ。…そうだよ、なぁ、ほんとにアイツで勤まるの? その仕事」 「と思うわ、私は。そりゃ、最初は戸惑う事も多いでしょうけど、その辺はさ、フォローしてあげてね」 「……オレが?」 面倒臭そうな表情を作って答えるジョーに、ミネルバは笑った。 「乗りかかった船じゃないの」 「……。ま、正直まだまだほっとけないし、責任もあるっちゃあるし…」 (ほっとけない、ですって!) ミネルバは、今がチャンスと踏み切った。 「そんなふうに思ってるのに、なんですぐに家から追い出しちゃうのよ?」 ミネルバの言葉にジョーはほんの一瞬だけ固まった。が、すぐに素直に 「追い出すとか、そんなんじゃなくてさ…。アイツさ、ずっと自立したがってたんだよ。いつも誰かの世話になってるって、すっげぇ気にしてて。オレに甘えてる状態じゃ誰にも会えねーって。まあ、甘えてたわけじゃないんだけどさ、ちゃんと仕事してたんだし。だけどなぁ、あれで結構マジメでさぁ、不器用でバカ正直だし…」 そして大きく溜息を付き、 「やっと自分の力で歩き出せるアイツの重荷になるわけにはいかねーじゃん、ただオレが心配だからってだけでさ」 (『心配』ねぇ…。一緒に居たいからだとは、自分でも気付いてないのかしら) バカンス最終日に見てしまった二人の表情が、ミネルバの脳裏に焼き付いていた。 あの時はまだリリはアレンの恋人だったので、ジョーは親友の恋人にちょっかいを出しているのかと呆れかけたが、ちょっかいだなんて軽いものじゃないような表情が、どうしても忘れられないでいた。 そしてリリ。会話までは聞こえなかったが、険悪なムードで彼女の元から立ち去るジョーを振り向いて追った目は、涙が浮かんでいた。切なさの涙。そう見えた。ジョーに対して切ないとはどういう事なのか。 うなだれ一人浜辺に立ち尽くす彼女を、室内からそっと見やるジョーの眼差し。切ない眼差し。こちらも切ない。 切ないなんて、恋の専売特許のような気持ちだ。この二人の間に、それがあるってこと? いつの間にか生まれてしまったってこと? そんなふうに出張中、悶々と考えていたら、すでに落ち着いたアレン本人からアルテミスとの破局を告げられ、さらには彼女がジョーと一緒にいると聞かされたのだ。一緒にいる内容はともかくとしても、やっぱり…と思わずにはいられなかった。 (お互いに、あんな切ない気持ちでやり取りして、その夜から半月以上も一緒に暮らすことになるなんて。これはもう『運命』とかじゃないの? って、私だったら思っちゃうけどなぁ…) つい、考え込んで黙ってしまったミネルバをジョーは肘で小突いた。 「今オレが言ったコト、アイツには1コも言うなよな」 これは恐らくジョーの照れだ。まったく可愛いいんだから。 「はいはい。男は辛いね」 ミネルバはジョーの脇を小突き返した。 無事にサイズ合わせが終わったリリは、入力カードを貰うと、ミネルバに礼をして、手を振りながらジョーと歩き出した。歩きかけてすぐにジョーは振り向き、口にチャックする仕草をするとミネルバを指差して念を押した。 理解したミネルバは、頷きながら了解の意の挙手をした。そうして見送っていると、二人は逆光の中シルエットになって、何かを話しては小突いたり叩いたりしながら歩いて、角を曲がって見えなくなった。 これから、じっくりと見守ろう。 ミネルバは密かに決意した。 病院の駐車場へ向かって歩いていると、鐘の音が鳴り始めた。驚いて音を追うと、あの教会が海沿いの崖の上に建っているのが見えた。崖へ向かって、すぐそこからロープーウェイが伸びている。教会の裏側に発着駅があった。 「あ! あれに乗れば簡単に行けるんだ!」 「良かったじゃん、ヘマしたらすぐ懺悔しに行けるな」 「ヘマなんてしないもん!………そんなにたくさんは…」 「ま、頑張れよ」 「頑張るわよ」 「じゃ、今日の夕飯も頑張ってくれよな、家政婦さん」 「任せてよ」 「おまえ、大きく出たな〜〜〜〜?」 リリは胸に手を当てて強く思った。最後の夕食作りだから、絶対成功させる! 実は仕事を決め住む処も確保した時から、胸がざわざわと落ち着かないのだが、念願の生活がいよいよ始まるため緊張しているのだと思っているリリは、本当の理由など少しも気づかなかった。 決意も空しく、夕飯の焼飯はべちゃっとした別物に仕上がった。ビックリ飯のレパートリーが更新されて、ある意味感心したジョーは、 「まあ、見方によっちゃ消化良いから、腹壊す心配はねーな」 と完食し、テラスで一服した。晩秋の夜はさすがに寒い。リリの運んで来たコーヒーから湯気が真っ白に上る。リリもそのまま彼の隣に座った。 「星がいっぱい見えるね」 しばらく快晴の夜空を見上げながら二人はコーヒーを啜った。 「ちょうど二週間前だね」 「あぁ。すごかったな、あれは」 セヴァ農場で子供たちと見た流星群の事だ。あれから二週間も経っているのだ。 「これから先、流れ星を見るたびに思い出す、みんなで流星群見た事。ジョー、素敵な思い出をありがとうね」 「素敵かどうかは、オレの管轄外だな」 「管轄?じゃ、どこまでがジョーなの?」 「そりゃおまえ、セヴァ・ファームに連れて行ったとこまでだろ。そっから先は、おまえ次第」 素敵にするのも、つまらなくするのも、自分次第らしい。 「ふふ、私、超天才かも」 「超天然?」 しれっと言い放つジョーに、リリもしれっと反撃した。 「ふんだ、ラス・ポウナ」 ジョーは咽せた。コーヒーじゃなく煙草の方だったので被害は軽かったが、げほん、と一回咽る。 分っている、彼女は「バカ」と言ったのだ。正確な使い方をしたわけではない。 でもそれはジョーの一番自由に操れる言語での愛の言葉なのだ。言うのも聞くのも恥ずかしい、大真面目な言葉なのだ。動揺するなという方が無理な話だ。 それでも必死に気持ちを立て直し、顔を作って応戦する。 「ずいぶんな口をきくじゃねーかよ、え? この天然家政婦! クソボーズ!」 「ひっど…! どんだけ暴言なのよ! もう、もう、超・ラス・ポウナ!」 やぶへび弾を打ち込まれたジョーはため息と共にうなだれ、彼女の視線から顔を隠すしかなかった。 そんな彼の心中など知らないリリは、ここでの日々も素敵な思い出になったと、心の中でジョーに感謝していた。 ソファの上で毛布に包まりながら、テラスを見つめて先ほどの事をジョーは考えていた。 ちょうど二週間前の夜はセヴァ・ファームで流星群を見ていたと話した。 その時ジョーは流れ星を追いながら、一週間前の夜のことを思い出していたのだ。グランレースの前夜だ。オーラーデ島のあの熱帯夜の海。誰も知らない、リリとの秘密の出来事。秘密の…なんて言うほど、甘いコトじゃなかったが。…と思うのに、胸に広がる感覚は甘い。 ただ、暴れるから抑え込んだだけだ。黙らないから塞いだだけだ。歩けないから運んだだけだ。それだけなのに。 そもそも、甘いなんて言ったところで、相手のリリは細かい事まで覚えていないようだし。正気に戻すためにした事を覚えてる方がおかしいよな、そん時は正気じゃなかったんだから。 でも、オレは覚えてる。唇の感触とか。泣き声から変わった喘ぎ声とか。唇は涙の味がした。でも柔らかくて小さかった。アイツそのものみたいな小さくて可愛い唇。ずっと追いかけた。逃がさなかった。理解できない月語がムカついて、全部飲み込んでやろうと夢中だった。 がっしりと抱え込んだ彼女の身体、小さな顎、涙や海水でべちゃべちゃだった頬、浜辺で泣き笑いした笑顔、海に投げ込まれないようにしがみ付いて来た腕。 思い出の映像は、どんどん進む。グランレースの橋の上で泣きながら胸を叩いて来た小さな拳。鼻を埋めずにいられなかった白金の髪。パメラを救出した時の、濁流の上で抱き寄せた背中、首にしがみ付けさせた腕、触れあった頬、そして、バイクの後ろに乗せた時の背中に感じる暖かさ…。確かにそこにいる、という存在感。 明日、それはなくなる。 元の生活に戻るだけだ。元の自由な生活に。 ジョーは、毛布を頭まで被った。 同じ頃、リリはジョーのベッドの中で、明日からはやっとジョーがこのベッドで寝るのだ、と心からホッとしていた。 多分、大丈夫。まだうんざりされてはいないと思う。ちょっとは思われてるかもしれないけれど、嫌われたりはしていないはず。 嫌われるという言葉を浮かべた瞬間、心臓がぎゅっと痛んだ。彼の冷たい表情をちょっと想像しただけで恐怖に似た感情が胸中にあっという間に広がった。慌てて言い聞かせる。 大丈夫、嫌われてないから。間に合ったんだから。ぎりぎりだったかもしれないけど、ジョーに自由を返せたんだから。 うじうじ考えてないで、明日に備えて眠らなくちゃ。明日は忙しいんだから。荷物を全部まとめなくちゃいけないし。たいした量ではないけれど。 ふと、脳裏にアレンの家が浮かんだ。彼の家には丸々と置いて来た。アルテミスとして与えられていた物達だったから持って来るわけにはいかなかったし、何より飛び出した形なのでまとめる暇もなかったし。 あの荷物たちはどうなったんだろう。処分してくれてるといいんだけれど……。 アルテミスの船を「勝手に処分などできない」と言って管理してくれているように、今もあのままクローゼットの中にあるのだろうか…。 アレンの事を考えるとため息が出てしまう。申し訳ない思いと、それでも応えられない気持ちとで、どうしようもなくなってしまう。 ストップ。もうそんなふうに悩まなくていいの。アレンも解ってくれたんだから。 私がしっかり前を向いて生きて行くことだけが、せめてものアレンへの恩返し。 アレンのためにも、ジョーのためにも、明日をきっちりこなそう。 リリはぎゅっと目を閉じた。 翌日は爽やかな秋晴れだった。 ぽつりぽつりとそこここにあったリリの私物がきれいになくなっているリビングをぼんやりと見渡しながら、彼女の淹れてくれたコーヒーをジョーは飲んでいた。いよいよ大荷物を引き摺ってリリが入って来た。 「忘れ物ないか?」 「うん。なんだか、ここに来た時より三倍ぐらいになってる気がする」 「季節変わったからな」 秋にこの部屋へ来た。そして今は冬になろうとしている。地球での初めての秋をここで過ごしたのだ。ジョーと。 真夏だった僅かな荷物は、ジョーの家政婦という仕事のおかげで、とりあえずの冬支度へと変わっていた。しかし家政婦として一番の大任だったはずの賄いが散々な毎日だった事は本当に心苦しい。 カップをカウンターに置くジョーに、恐る恐る訊ねた。 「ねえ、コーヒーは…、ちゃんとしたの、出せてたかな…」 「ん? おう、旨かった。ごっそさん」 ジョーは珍しく正直に答えると、リリの大荷物の一つを持った。 「じゃ、行くか」 「ジョー、忘れてるよっ」 ジョーは、まだ額に帯をしていない。部屋ではしていないことが多かったが、外出時にしていない事はありえない。 「あー、今日はコイツ」 ジョーは、帽子を被った。額をすっぽり包んでしまうタイプだったので、なるほど帯は要らない。さらにジョーはサングラスならぬ黒縁のダテメガネをかけた。こうなると別人のようだ。そういえば、服装も何だかいつものジョーらしくない。ちょっとおとなしい、というか、可愛い、という感じだ。 「…変装、してるの…?」 「一応な」 リリの新生活に、勘違いしたジョーのファンが目を付けたりしないように、彼なりに細心の注意を払ってのことだった。 ジョーの真っ赤な車は、地下から緩やかなスロープを上がり、秋の日差しの下へと滑り出た。 助手席に座ったリリは、サイドミラーに映るマンションが小さくなるのを見ていた。 これで本当にジョーに元の生活を返せる、良かった。 良かったと思っているのに胸が苦しくなってしまって、ミラーの中で小さくなるマンションを見ていられなくなって目を逸らした。 「キレイでぇ〜、日当たり良くてぇ〜、静かでぇ〜、家賃タダぁ〜」 「ね! 神様、心広いでしょ?」 リビングだと思われる部屋の中央でリリは得意気だ。 病院の裏手を東側に入った地区に、五階建てのマンションがあって、それが丸ごと寮ということだった。二十階建てだったジョーのマンションに比べるととても小さな建物だったが、柔らかな色合いの煉瓦の外壁は優しい印象でリリは大満足だった。ジョーは陽光がたっぷりと降り注ぐ窓を開けた。黄葉している街路樹が見えた。その向こうには、通りを挟んだお向かいさんが建っている。あちらは三階建てなので、四階の部屋のリリの方が見下ろす形だった。窓枠のキャンバスの中で、街路樹は程よいアクセントとなり、後は青空が気持ち良く広がっていた。 「マジ、いい部屋だな。良かったじゃん」 「うん」 窓から身を乗り出し周りを見渡したジョーは提案した。 「昼飯どっかで食べながら、周辺探検しとくか」 「え、付き合ってくれるの?」 「おまえ一人だったら、絶対ここに帰って来れなくなるもんな」 自分でも不安だったリリは素直に認めた。 「……よろしくお願いします」 一本向こうの通りは賑やかなショップストリートだった。日常生活に必要な物はとりあえず調達できそうだった。でも今日はウインドウショッピングを楽しむだけに止めた。昨夜貰った最後の報酬は、これから病院での給与を貰えるまでの大事な唯一の生活費なのだ。 しかしジョーからのその報酬は、仕事内容と明らかに合っていなかった。高額過ぎた。そもそも住み込みしているので、宿代で相殺したら無くなってしまう程度の仕事しかできていなかったと自覚していたので、その額を受け取るのは躊躇われた。しかし、背に腹は代えられず、当面のお金は必要だったので受け取ったが、必ず返そうと決めていた。ジョーに甘えるのはこれが最後。そう固く決意して。 エスニック系のファーストフードのテラス席で、柔らかな日差しを浴びながらランチを取った。ジョーは外で出るコーヒーは苦いと言ってオレンジジュースだ(昨日のミネルバの診察室で出されたコーヒーも、実は我慢しながら飲んでいた)。秋晴れの穏やかな昼日中、こんな場所で色気から程遠い女と二人で、ノンアルコールの食事をしているメガネ男子があの海賊ジョーだとは、さすがに誰も気付かなかった。 明日からのリリの事を思い、ジョーは早目に帰るつもりでいた。のに、晩秋のせっかちな太陽はかなり西の空に傾いている。寮へ戻る途中に花売りの露店があった。たくさんのバケツから色取り取りの花々が溢れている。 「あ…!」 リリの視線の先のバケツには『リリ』と書かれた札と一緒にピンクがかった白い小さな花が刺さっていた。 ビーチハウスでジョーに貰って以来の、本物のリリの花だ。 「あの、ごめん、ちょっと待ってて」 リリはバケツへ歩み寄った。 どうしても今日、この花が欲しい、1本でいい。新しいスタートのために、一人で歩き出す私に、この花が欲しい。 1本選んで抜き取ると、後ろからにゅっと伸びた手がそれを取り上げ、さらにバケツから手際よく数本抜き取った。 「ジョー…?」 ぐるりと露店を見まわしたジョーは、離れたところにあるバケツをしばらく見ながら何か思案していたが、そこから数本抜き出しリリの花と混ぜて店主に渡した。 程なくしてリリの花は薄青い小花をまとった小さな可愛いブーケになって、ジョーの手へ戻った。 「新しいスタートを祝ってやるよ」 「……、ありがと……」 リリは驚くやら嬉しいやらで、おずおずと手を伸ばした。ブーケに手が触れる瞬間、ジョーはひょいと高く持ち上げた。何事かとリリがぽかんとしていると、また元の高さに戻す。リリが手を伸ばすと、またひょいと上げてしまう。 遊ばれていると理解したリリはジョーを見据えて口を尖らせ、 「もう、意地悪なんだから。ラス・ポウナ」 と言ったので、ジョーが驚く番だった。 こんな町中で、何て事を口走りやがる! ヘッシュのやつがいるかもしれないのに! しかしこれは身から出た錆だ。彼女は教わった通りに「バカ」と言っているつもりなのだ。 「な、おまえさ、今更だけど、その言葉はさ、あんま人前で使わない方がいいぜ。かなりひどい言葉だからよ」 「え、そんなひどい言葉をあの時私に言ったの?」 教会の礼拝堂で! 私そんなにひどい言葉を言われるような事したかしら…。 「あー、ってゆーか……、とにかくだ、いいか、誰彼構わず言ったりすんなよ?」 非常に歯切れが悪い。 「ラス・ポウナなんて、ジョーにしか言わないに決まってるじゃない」 まさかの核爆弾級の一言に、すでに劣勢だったジョーの冷静な思考能力はとうとう痺れて不動になってしまった。 ―――愛してるなんてジョーにしか言わない。 噴き出した欲望は甘く変換する。 ジョーはブーケを差し出しながら真剣に彼女に告げた。 「リリの花が欲しかったらオレに言えよ。いいか、自分で買ったり、特に誰かから貰ったりなんて絶対にするな。おまえにとってのこの花を自由にできるのは、オレだけなんだからな」 突然そんな事を言われて、思わずリリは彼を見つめた。しかし彼の真っ青な瞳は、真面目で真剣に見える。 意地悪で言っているわけではないと判断したリリは、もともとジョーに貰った花なのだから彼の言う通りにしようと、何の抵抗もなく決めた。 「わかった、じゃあ私は、一生リリの花には困らないのね。ありがとう」 にっこりと笑って彼女はブーケを受け取った。 彼女の笑顔を見ているジョーの胸に、甘く温かなものが積もって行く。 ……一生、花を贈り続ける……こいつに……リリを… 「ね、この青い花は?」 「ああ、そいつは…」 白いリリの周りを控えめに彩る薄青い小花の名前を口にしようとして、白昼夢から覚醒するようにジョーの思考能力は瞬時に復旧した。とんでもない状況にいることが分り、狼狽えないようにするのが精一杯だ。 その薄青い小花は、名前そのものが今この状況では恥ずかしい。さらに花言葉もだ。別に意味を込めたわけじゃないと激しく心の中で言い訳をする。リリとの色合い的に青系が必要だったところへ、たまたまあったから。バケツに名札がなかったのがせめてもの救いだ。 ジョーは花の学名を使った。 「そいつはミオソティス・アルペストリス」 「ミオストス、アルペントス?」 長い名前なので、案の定リリはなぞりきれず、妙ちくりんな名前を言う。思わずジョーは噴き出した。 「やだ、ね、もう一回言って、ねぇっ、ジョー!」 それから二人は、寮までの道のりを、舌を噛みそうな長ったらしい名前を言いながら歩いた。 リリの部屋の前まで来ると、ジョーは上がらずに帰ると言った。少ないとは言え、これから荷物を解いたり、初出勤の明日に向けて気持ちを切り替えたりと、彼女には時間が必要だと思ったからだ。 リリは、とうとう来てしまった別れに、感謝の気持ちを伝えなくちゃと、必死に言葉を絞り出した。 「あの、あの、本当にありがとう…」 「いーよ、今日休みだったんだし」 「そ、そうだったね、今日はお休みだったよね。ち、違うよ、そうじゃなくて、今まで、」 「あ? じゃあ、今日はどーでもいいって?」 「え、あ、そんなことないよ、そんなの言ってない、今日もそうだし、今までもありがとって言いたいの! …もう、最後ぐらいちゃんとお礼言わせてよ………このブーケも…ありがと…」 リリはブーケで震えそうになる唇を隠した。 彼女の言葉はジョーの胸に音もなく染みた。 「最後」。ああ、そうだよな、もうこれで、こいつと過ごす事はないんだ。ミネルバにフォローしてやってくれって言われてるだけで、見守るとか、そんなことしかもうないんだ。毎日見ていたコイツの天然ボケも見られないし、毎日食べていたビックリ飯ももう喰うことはないんだ。 「ジョー、あのね、夕べくれたお給料ね、すぐには無理だけど、これからちょっとずつ返させて欲しいの」 ぼんやりとリリを見ていたジョーの思考能力は、リリのこの言葉に弾かれたように反応した。 「何言ってんだよ、おまえはこれから、週末だけ通いの家政婦だぜ? あれはその分」 「え…?」 「つーわけで、来週迎えに来るから」 案ではない。異議は受け付けない。内心ドキドキしながらジョーはリリを見下ろしていた。 家政婦継続――そんな事はこれっぽっちも思っていなかったリリは、ぽかんとしてジョーを見上げた。 ジョーの唇が少しだけ、本当に少しだけ、拗ねたように尖っているような気がする。 「うん」 ようやく一言だけ返事をして、リリはすぐに俯いてブーケに鼻を埋めた。ふと、また顔を上げてジョーを見る。 ジョーの唇はもう尖っておらず、端がちょっとだけ上がっている。笑っているようにも見える。 リリはもう一度「うん」と言って、またブーケに戻った。どうしてだかドキドキする。顔を上げられない。 ジョーは、がしっとリリの頭に手を置いてぐりぐりと回した。ブーケから離れたリリの顔は、頬が紅く染まっていた。その紅は、乞うた彼を充分に満たす甘い色だ。 「今夜は早く寝ろよ。明日、迷わないで病院へ辿り着けるように祈っててやるよ」 「うん」 「じゃあな」 もう一度、彼女の頭をぐりっとすると、ジョーは階段を降りる足音を響かせて姿を消した。 リリは、急いで部屋に入ると窓を開けた。真っ赤な車が陰から出て来るのが見えた。表通りに出る前に停止し、運転席からジョーの顔がこちらを見上げた。リリは大きく手を振った。そのしぐさに、 「落ちンなよな」 と笑いながら呟いて、ジョーも手を振り返した。そして、滑るように通りへ出ると、あっという間に見えなくなった。 リリはそのままジョーの車が消えて行った点をしばらく見つめていた。晩秋の肌寒い空気に晒され、火照っていた頬はすっかり冷えてしまった。頬と一緒に気持ちも寒くなっていた。 夜になってもジョーはここには帰って来ない。 これが本来の暮らしだ。 でも… ジョーのいない夜。ジョーのいない朝を迎え、ジョーにコーヒーも淹れない。ふと漂って来る甘い煙草の香りも、決して流れて来ない。あの煙草の主はここにはいない。 毎日会っていたジョーに会えるのは、六日後だ。 「…でも、その日になれば必ず会えるんだから…」 リリは顔を上げた。 料理を上達しよう。 一つでいいから、ジョーにご馳走出来るようになろう…! 彼がスタートを祝ってくれたブーケに鼻を埋め誓うと、備え付けの食器棚からサラダボウルを取り出し水を入れて、ブーケを解いて丁寧に浮かべた。 マンションに着いたジョーは、玄関を開けた時に、想像通りの気分に襲われた。「お帰りなさい」の声がない。やたらと部屋が広い。静か過ぎる。それに、とんでもなく寒い。 「真冬じゃあるまいし」 思わず文句が出た。ふと、ローテーブルに灰皿が乗っているのを見つけた。 「アイツ……」 そんなに気にしてたのかよ…と、溜息を付きながら灰皿を持ってテラスへ出た。定位置になった場所へ灰皿を置き、煙草に火を点けた。吐き出した煙が筋になる間もなく風に散って香りが広がった。リリの言葉を思い出す。 ―――「ジョー、私、好きだよ、ジョーの煙草の煙」 「……簡単に好きとか言いやがって……」 テラスの端へ行き、あの教会がある方角へ目を凝らした。教会のふもとに病院があり、その裏にリリの寮がある。しかし、教会すらここからでは見えない。そんな事は分り切っていることだ。 夕日に染まった空から、その教会の鐘の音だけが風に乗って流れて来た。今、アイツも聞いてるに違いない。 「頑張れよ、ボーズ……、……リリ」 誰が聞いているわけでもないので、ジョーは初めて声に出して彼女をそう呼んでみた。 ずっとそう呼んでほしがっているけれど、ちっとも呼べてやれない名前。 オレがやった花の名前じゃあな、呼びたくても意味が付いちまう…。 (「呼びたくても」?) ふらりと浮かんだ言葉に自分で驚いた。指先で煙草がじじっと音を立てた。 (違う、ヘッシュの意味じゃない、あいつが呼んで欲しい名前だから呼んでやりたい、って意味だ) 無事に頭を整理できて、安堵とともに深呼吸して紫煙を吐き出す。 (そうだよな、花言葉なんてあいつにとっちゃただの言葉なんだしな) 花屋でリリを引き立てる薄青い小花を選んだ時も、そう考え何も問題ないと判断していたのだが、自分でも気づかない心の底で、ジョーは「送りたい」と思っていたのだ。 学名 ミオソティス・アルペストリス。通称 忘れな草。 花言葉は『私を忘れないで』と、『真実の愛』。 「六日だ……」 ジョーは冷たくなった額の傷跡に触れながら紫煙を吐き出した。 |
||
第26話 ミオソティス・アルペストリス END |
||
<<TOP <<BACK NEXT>> ぺた |