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第21話  虹の彼方に
 セヴァファームでの六日目の朝、アルテミスはメリンダと談笑する余裕も見せながら、てきぱきと朝食を並べていた。
眠い目を擦りながら子供達が入って来る。セヴァやジョー、マークも戻って、メリンダとアルテミスも着席するとセヴァが立ち上がった。
「おはよう! 今日の予定を言うぞー。出荷作業、マーク、ジョー、ナクア。他の子供たちは積み込みの手伝いと、道具の手入れだ。 いいな、今日で終わらせられたら、明日は一日、ジョーと遊べるぞ!」
子供たちの歓声が上がる。またもやいきなり振られたが、ジョーには想定内だったらしく諦めた表情で大あくびだ。その隣でナクアが
「ジョー、バイクバイク!」
と腕を揺すった。
「わーった、わーった」
ジョーが頷いていると、頂きますの号令と共に朝食が始まった。
 少し離れた席から見ていたアルテミスは小さく笑った。それを目の端で捕らえたジョーは
「おねーさんも遊んでくれるってよ〜」
と大声で言った。子供たちから再び歓声が上がる。アルテミスは驚いた表情でジョーを見たが、すぐに周りの子供達からの誘いに返事するのに笑顔になった。
 白けた顔をしながらその様子を見ていたジョーはナクアに、
「にやついてんのバレるよ」
僅かに上がっている唇の端を指差された。
「ついてねーよ」
ジョーは短く否定してナクアの皿からプチトマトを一つ奪った。





大量の皿を食洗機に入れ終えたアルテミスが窓の外を見ると、ちょうど二台のトラックが畑へ向かって出発するところだった。畑の作業場でまとめたジャガイモやカボチャ、とうもろこしを積んで、港の倉庫へ運ぶのだ。
 運転席のジョーが見える。タバコを咥えて、助手席のナクアと喋っている。ふと、屋敷の方を振り向いたジョーの視線が、窓辺に立っていたアルテミスを捉えた。
 一瞬、ただ見詰め合う。言葉もないままに、お互いの瞳だけを見る。
が、いつの間にか後ろに立っていたメリンダが大声で
「行ってらっしゃ〜い!」
と言いながらぶんぶんと手を振った。背後でいきなり上がった大声に驚いたアルテミスだったが、メリンダにつられて手を振った。ジョーは笑って片手をあげて返事をし、畑へ続く角を折れて走り去った。
 さっさと手を振れば良かったのに、メリンダが来るまでぼけっとしていた自分が急に恥ずかしくなった。そうしてアルテミスの心臓はしばらくドクドクと激しく脈打った。その原因はメリンダの大声とは違うところにあると、彼女自身気付いてはいなかったが。





 眩しいほどの快晴の空の下、アルテミスは大量の洗濯物を干し終えた。幾筋もの竿にはたはたと大小様々なシャツがはためく。それを見上げながらアルテミスは満足げに呟いた。
「大家族だ……!」
「やあ、ご苦労さん」
大きな麻袋を何枚か抱えたセヴァが、ひょっこりと顔を出した。
「今日は良く乾きそうです」
アルテミスは笑顔で答えた。ここへ来て六日。初日とは別人のような笑顔だ。ジョーの計画は成功したようだと内心で思いながら、セヴァはアルテミスに訊ねた。
「名前はまだピンと来るものに出会えないかい?」
すると、彼女は俯いて言いずらそうに告白した。
「本当はあるんです。決めたい名前が…でも、わからなくて……」
「? どういう事?」
「花の名前なんです……」
 
 初めは漠然と思っていた。ジョーがパメラに「家族だ」と言いながら、ビクトリアブルーの花をあげているのを見た時、アルテミスはジョーから小さな花を貰った時の事を思い出し重ねた。
 あの小さな白いピンクがかった花は、私の幸せが願われていたっけ。あの花を支えに、私らしく頑張って行けたら。そんなふうに一度思い始めたら、その気持ちはどんどんと膨れ上がり強くなって行ったのだが……。

「何だ! 花の名前ならジョーに訊けば一発だよ!」
セヴァは晴れやかに言った。
「はい、訊きました、でも知らないって言われたんです。太陽系内全部の花を知ってるわけないだろうって」
「いや、まさか」
「ジョーがくれた花なんです」
「え……」
セヴァは息を呑んだ。
 ジョーは花の文化で有名なヘッシュの出身なのだ。ヘッシュの人々がどのように花を使うかセヴァは知っている。まず何をおいても名前を知らない花を人に贈るなど有り得ない。
 動揺を押し殺しながらセヴァはアルテミスに訊いた。
「ふぅ…ん……。どんなふうに貰ったの?」
「レースが終わって、ビーチハウスへ戻って打ち上げをしていた時にです。ファンから頂いた花束がいくつもあったので、そこから抜いて来たんだと思うんですけど、私がキッチンにいたら、ふらっと来て。お礼だって言ってました。あ、レースでちょっとだけ、私お手伝いを頑張ったので」
セヴァの直感に響いた。レース中、チーム・ハザウェイに何か重大な事件が起こったのか、あの、マシン炎上でリタイヤとなった幕引き。本当は大惨事になりかねない出来事があったのかもしれない。それが恐らくこの娘のお陰で回避、もしくは軽減されたのだ。
 しかし礼だとしても、だ。いや、そんな大事な遣いなら尚の事、名前を知らない花を使うはずは無い。
「どんな花だった? 色とか、大きさとか形…」
「小さくて、白いけど、こう、真ん中が淡いピンク色の花でした。可愛かったんです、とっても…」
「可愛いから、その花の名前にしたいのかな?」
アルテミスは、一瞬本当の理由を話すべきか迷った。でも。この温かく熱心な、ジョーの友人には、知っていて欲しいと強く思った。
「……セヴァさん。私は…私の知り合いだったという人に連れられて、地球へ来たんです。その人はとても優しくて、私ことを、その……好きでいてくれたそうで……。私も、彼のことを好きになって……すっかり甘えてしまったんです。それなのに……」
アルテミスは言葉を探して、自分の手を見つめた。セヴァはじっと待ってくれていた。
「私…私、辛くなってしまったんです…。彼の思い出の中にいる私と同じようにいなくちゃならないことに…。でも、同じじゃないと私には居場所が無くて……彼女だからこそ、彼の側にいられるわけで……。だけどそれはもう続けられなくて……どうしたらいいのか分からなくて……」
気持ちが昂ぶって来て、声が上ずるのを必死に堪えた。あの熱帯夜の海が脳裏に広がる。
「でもジョーが……今の自分のままでいいんだって……無理して誰かにならなくていいんだって、いたいと思うところにいればいいんだって、………」
セヴァは黙ったまま、うんうんと頷いた。アルテミスは何度か呼吸をして己を落ち着かせると、
「レースが終わって、オーラーデ島に戻って、打ち上げ中に、花をくれた時………」
涙が出そうだ。胸に手を置いて、彼女は一生懸命続けた。
「幸せになれるようにって、その花に、ジョーが願ってくれて………」
泣き出しそうだが、頬が赤く染まっている彼女を見つめながら、セヴァはもう少しで「来たっ!」と大声で叫びそうになった。密かに拳を握り締める。
「私、すごく嬉しかったのに…手違いで失くしてしまって……」
「そうか…。調べてみるかい? 図鑑とかネットで」
セヴァは努めて明るい口調で提案した。
「してみました、昨日…子供たちに教わって。でも、肝心の花が、似たような種類がたくさんあって、確かにこれだっていう判別が私にはできないんです…」
「じゃあ、やっぱりジョーに訊いてみるのが確かなんじゃないかな」
アルテミスは首を振ってうな垂れた。花を失った経緯を思うと、後ろめたい気もしてくるし、何よりジョーは花の名を知らないと言ったのだ。
「セヴァさん、お願いです、今の話は聞かなかったことにしてください…」
彼女の悲しげな顔を見て、セヴァはこれ以上、今は押せないと判断した。
「わかったよ。安心して」
「…すみません、ご心配頂いてるのに…」
セヴァは、切り株に腰を下ろした。
「今年のグランレース、一緒に行ったんだね。アイツの走りを傍で見たわけだ。どうだった? カッコ良かった?」
「……カッコ良かったですけど、怖かったです」
アルテミスの正直な感想にセヴァは笑った。そして空を一度見上げて話し出した。
「僕が初めてジョーを見たのはね、やっぱりグランレースだったんだけど、ああ、もう、七年も前になるな。アイツは初出場だったんだよ。かわいかったよ、16、7だったはずだ。アイツはねぇ、怒りを燃料にしてものすごいスピードで走ってた」
「怒り…?」
「そう。死神にさえ楯突く様な怒り。僕はもう引退していて、あ、こう見えて僕も昔はレーサーだったんだよ。グランレースも何度も走った。ま、で、引退して農場を始めてた僕は、ちょうど中継放送でジョーのデビュー戦を見てね、どうしても会いたくなったんだ」
「どうして?」
「キミも感じたんだろう? アイツの走りはカッコ良くて怖い。『怖い』がなくなればいいのになって思ったからだよ。それで、レース中じゃないアイツを見てみたくて、海を渡ってバイクショップを訪ねたんだ。会ってみたら…ま、今より拗ねてる美少年だったわけだ」
「拗ねてる……」
「そう。だから、暇な時に農場へ遊びに来いよって誘った」
「……、それで、」
「うん、三ヵ月ぐらいたってたかな、春にふらりとやって来た。ちょうど花の出荷作業に大忙しの時でね、初日から手伝ってくれた、って言うか、手伝わせた、あははは。それからのつき合いなんだよ」
セヴァは屈託無く笑った。
「デビュー戦から比べたら、最近の走りは、まぁ相変わらず無茶してるけど、ずいぶんと洗練されて来たんじゃないかなぁと思うよ。本当にメチャクチャだったんだよ、昔は」
「……何に怒ってたんでしょうか……」
「ん? 直接ジョーに訊いてごらん?」
アルテミスは小さく溜息を付いた。
「私なんかが訊いても、バーカとか言って教えてくれないです」
「ははは。ジョーは天邪鬼なんだよ。アイツの憎らしい言葉は全部逆に取ってごらん。案外それが本音だよ」
「そうなんですか? 今度何か言われたら、やってみます」
小さく決意する彼女の可愛らしいこと。
 ジョーは間違いなく、この娘のことが好きなのだろうとセヴァは思った。
 そして、彼女を地球へ連れて来た男とは、恐らくチーム・ハザウェイのメンバーであり、ジョーの友人でもある海賊アレンだ。宇宙船を持っているか宇宙へ出られる環境にあって、グランレース中のジョーと一緒にいた彼女の傍に居たとなると、海賊アレンがぴたりと当てはまる。
 彼は確か、ジョーの親友と言っていい存在だ。ジョーを地球へ誘ったのはアレンだと聞いている。その親友の想い人を、こうして今ジョーが連れている。どんな経緯があったのかは分からないが、ナクアの言っていた通り、ジョーがここへ誰かを連れて来たのは初めてなのだ。それが女性ともなれば、特別な存在なのだと誰でも考える。
 事実、特別な存在なのだろう。当の本人が認識していないだけで。
「アイツもそろそろ気付かないとなぁ……」
独り言のようなぼやきを漏らしたセヴァを、アルテミスはじっと見た。
「ああ、僕は気付くのが遅くてね」
セヴァは観念して、久しぶりに心の奥底の扉をそっと開けた。懐かしい最愛の顔がこちらを見て微笑んでいる。
――ああ、アズホ……。
 セヴァはゆっくりと話し出した。
「僕はレーサーだった若い頃、ジョーのようにむちゃくちゃな走り方をしていたんだ。いつ死んでも不思議の無い、命知らずと言えば聞こえはいいけど、でもね、そんな僕の恋人は、そりゃ辛かったよね。僕はね、彼女のことを思いやってあげることもしないで、誰よりも速く走ることばかり考えてたんだ。だから、レースの後はいつも喧嘩さ。それでも、彼女は僕の傍に居続けてくれた。そんな彼女の愛情に僕は胡坐をかいていたんだな。
 そんなある日ね、彼女の両親がビル火災に巻き込まれて、突然亡くなってしまったんだ。泣き暮らす彼女を目の当たりにした僕は、ようやく気付いたんだ。残された人はこんなに辛い日々を生きなければならないのかって。
 彼女がいつも僕に言っていた言葉が胸に刺さった。“もっと命を大事にして”“私の事を考えて走って”……。僕は絶対に死ねないと思ったよ。これ以上彼女を悲しませる事はしたくない。速く走ることなんてどうでもよくなったんだ。
 それで引退を決めて彼女に伝えた。彼女はとても喜んで、引退レースをピットで過ごすと言ってくれたんだ。彼女がピットに来てくれるなんて、とても久しぶりだったし、最後でもあったから、僕も彼女も楽しみにしてたよ。
 ところがその日、市街で大きな交通事故があってね、運悪く、彼女の乗っていたバスも玉突き接触されて、動けなくなったんだ」





 「バスのドアが開いたら、すぐにタクシー拾って向かうから!いくらセヴァが速くたって、あと数分で完走なんてことにはならないでしょう?」
携帯電話の電波は時々途切れたが、彼女の言葉はしっかりと聞き取れた。
「バーカ。冗談はともかく、気をつけて来いよ。最悪、来れなくても仕方ないって。優勝カップ持ってってやるよ」
「イヤ! 絶対に行くから! ねえ、セヴァ、最後だからって無茶しないでね?」
「分かってるよ、アズホ。俺は死なないよ」
「うん」
ピットの裏で話していたセヴァをマークが呼びに来た。
「セヴァ、戻って来るぞ、スタンバイだ」
「ああ、分かった。じゃ、ちょっくら走って来る」
「うん、気をつけてね!」
セヴァは電話を切ると、ピットの中へと戻った。
「アズホどうしたって?」
メリンダが振り返る。
「ああ、ちょうど乗ったバスが事故に巻き込まれて立ち往生してるらしいんだ」
ライダースーツのジッパーを上げながらセヴァは答えた。
「あら、事故? ニュースやってるかしら」
「それよりレースに集中しようぜ、ラストレースなんだから!」
恋人のマークがメリンダを嗜めた。アズホは無事なのだからそれもそうだ。今はレースだ。
 そうこうしている内にセカンドライダーがピットインして、交代したファーストライダーのセヴァは飛び出して行った。
 爆音を轟かせて稲妻のように走り、他のバイクの追従を許さなかった。
 
 チーム・オシュンの叩き出したタイムは、圧倒的だった。場内では優勝のアナウンスがやかましくこだましている。
 優勝フラッグを振り切ったセヴァは、大歓声に腕を揚げて答えながらゆっくりと走り、ピットへと戻った。バイクを降りるや否や、マークやメリンダ、ピットクルー達にもみくちゃにされた。ひとしきり喜びを分かち合った後、マークとメカニックがマシンを見に行き、メリンダが走行データの収集を始めると、セヴァはアズホの姿を見つけに奥へ向かった。もしかしたら間に合ったのではないか。
「セヴァ!おめでとう!」
掛け声と共にセヴァは飛び掛られた。アズホだった。
「なんだよ、いつ着いてたんだよ。ちゃんと見ててくれたのか?」
「見てたよ! カッコ良かった! もうサイコー!」
セヴァの首に抱きついたまま、大興奮のアズホはジタバタした。こんな嬉しそうなアズホは久しぶりだ。セヴァも嬉しい。感情のまま、恋人を抱き締めた。そうして一頻りギュウギュウと抱き締め合って、アズホが落ち着いてキャーキャー言わなくなると、セヴァはアズホに囁いた。
「アズホ…、今まで本当にすまなかった。でももう俺は走らない。これからは、アズホと二人で、ゆっくりと歩いて行くから」
「セヴァ……、ありがとう…。大好き」
「俺も」
顔を寄せ合い、しばらく二人は口付け合った。やがて、そっと唇を離したアズホが呟いた。
「せっかくセヴァがそう言ってくれたのに、私ったら足、怪我しちゃってドジね」
「え? 怪我?」
驚いたセヴァはアズホの足を見下ろした。が、怪我をしている様子は見て取れない。セヴァがプレゼントした白いショートブーツを履いている。
「どこ?」
しかしアズホは、怪我の場所を答える代わりに話し出した。
「ねえセヴァ、さっき乗ってたバスでね、私の斜め前に座ってた男の子が、可哀想に両親を亡くしちゃったの」
「え?」
突然の話でよく分からない。誰だって? 男の子?
「まだ五歳でね、名前はナクアっていうんだって。私、バスの中でずっとついててあげたから、病院に着いても私のハンカチを放さないの」
「病院? アズホ、病院に付いてってやってたのか?」
だからこんなに遅くなったのか? アズホらしいと言えばそうだが、しかし、死者が出るほどバスも被害を受けていたのか。ドアが開かないとは言っていたが、アズホの口ぶりだと、ドア周辺に接触されてたまたまドアが開かなくなったかのようだったのに。少々混乱していると、腕の中でアズホが言った。
「もしね、ナクアに身寄りがいなかったら、引き取ってあげたいなって思うの。…あなたがご両親に引き取られて幸せに暮らして来たように、ナクアにもそんな生活をあげられたらって。考えてみてくれない?」
セヴァは生まれながらの天涯孤独で、施設で育てられていたが、幼いうちに今の両親の子供として迎えられていた。
 それにしても突然な申し出だ。近々、結婚するつもりではいるが、最初から5歳の子供のパパとママか。
――でも、それがアズホの希望なら……。
「うん、そうだな、アズホがそう望むんだったら、もちろん協力するよ」
「ありがとう、セヴァ! セヴァならそう言ってくれると思ってたわ!」
アズホはセヴァの首に抱きついたまま、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。しばらくして落ち着くと、
「セヴァ、私、怒ってばっかでごめんね。でも、私はセヴァに幸せになってほしかったの」
「わかってるよ、アズホ。俺こそごめん。心配ばかりかけた」
「ううん、そんなこと無い、楽しかったよ。セヴァの彼女でいられて幸せだった。ありがとう」
「……」
「セヴァの幸せを、ずっとずっと、ずぅーっと願ってるから」
明るい口調ではあるが、彼女の言葉に違和感を感じた時、背後でマークの声がした。
「セヴァ、今、警察から連絡が……」
振り向くと、顔面蒼白のマークが立っていた。
「アズホ、収容先の病院で……」
マークはその場に崩れ折れて号泣した。
――収容先の、……病院…?
 セヴァは、腕の中で自分を見上げている恋人を見た。確かにアズホだ。ここにいる。腕にも胸にも彼女の重みを感じる。
 だが…。何かが静かにぴたりと合いそうな、冷たさが血中に流れ込む。
胸に広がるドス黒い恐怖に負けまいと、セヴァは瞬きもせずに彼女を見つめた。心臓が破けそうに脈打っている。その上にそっと頬を寄せたアズホは囁いた。
「ドキドキすごいよ。セヴァが生きてる証の音ね、ステキ」
ゆっくりと彼を見上げて微笑むアズホに、セヴァは引き攣った喉を何とか動かして言葉を搾り出した。
「アズホ、」
かろうじて音になった彼女の名前。
アズホはそっと爪先立つと、セヴァにキスをして囁いた。
「さよなら」
いくな!
セヴァの懇願は声にならずに、目の前の恋人はすぅっと消えた。彼女の身体に沿っていた腕は輪になったまま空っぽになった。ただ唇に、良く知っている柔らかい彼女の唇の感触だけは残っていた。



 病院の別館に、遺体が乗せられたベッドがいくつも並んでいた。大事故だったのだ。あちこちで身内と思しき人々が泣いている。
 ライダースーツのままのセヴァが立ち尽くしている前のベッドには、アズホが横たわっていた。まるで眠っているだけのようだ。傷痕などどこにもなく綺麗な顔だ。ところが、枕元に置かれている遺留品は、本当に彼女のものだったのかと疑いたくなる損傷具合だ。ズタズタに裂けたバッグ、蓋が潰れて割れているペンダントタイプの携帯電話。かかとが外れてぼろぼろになったブーツらしき物。セヴァがプレゼントしたアズホのお気に入りのブーツだとしたら、それは綺麗な白だったのに、目の前にあるそれは赤黒かった。
――たったさっきピットの裏で、おまえが履いていたブーツは白くて綺麗だったよな。
がんがんする頭で、セヴァは必死に思い出した。
 メリンダがアズホにしがみ付いて泣いている。マークはそんな彼女の背をさすりながら嗚咽していた。
 どうしたらいのか分からないセヴァが顔を上げると、隣のベッドで、横たわる身内の身体に頭を乗せている少年がいた。涙と埃で汚れた顔の少年は、泣きつかれてしまったのか目を閉じている。その少年の、包帯の巻かれた小さな手に、花柄のハンカチが握り締められているのをセヴァは見つけた。セヴァの視線に気付いた係員が、そっと説明した。
「あの子供を、この方がずっとかばって下さっていたと、レスキュー隊からの報告が残っています」
セヴァは震えそうになる唇を一度噛んでから訊ねた。
「あの子には、迎えが来ますか?」
係り員はセヴァの質問に一瞬戸惑ったが、命をかけて少年を励まし続けてくれた女性の身内には、話しても差し障りは無かろうと判断し、ファイルをめくって答えた。
「親族がいないので、施設に引き取りの手配をかけています」
セヴァは小さく頷くと、ゆっくりと少年に近づき、声をかけた。
「ナクア」
少年は振り向いて、大きく目を見開いてセヴァを見つめた。
「え?……知り合いなのか?」
マークが驚いて訊いた。しかしセヴァはマークには答えず、少年に言った。
「俺は、このお姉ちゃんにお前を頼まれた。俺と一緒に来るか?」
少年は弾かれたように立ち上がって言った。
「セヴァ?」
その瞬間、セヴァは何もかも理解した。事故が起こった瞬間に携帯電話が潰れてしまったアズホが、どんな思いでセヴァの携帯電話に声を届け、さらには会いに来てくれたのか…。
 アズホのハンカチを握り締めて、自分を見上げている幼い少年の前に膝を付き、
「そうだよ、俺がセヴァだ。大丈夫、もう、安心していいよ」
見る見る泣き顔になる少年をセヴァはしっかりと抱き締めた。そして、片手を伸ばして、横たわるアズホの胸の上に合わせられている手を握った。
 温かな少年の体温を感じながら、アズホの手の冷たさを受け入れたセヴァは、声を出して心の底から泣いた。





「確かに彼女は来たんだよ、ピットへ。幽霊だったのかもしれないけどね」
あははとセヴァは笑ったが、アルテミスはエプロンで口を覆ったまま、何も言えずに首を振るだけだった。何か言おうとしても、涙が溢れて喋れない。
「参ったな、ジョーに怒られちゃうな…」
セヴァは頭を掻いた。
「キミ達にね、知っておいて貰いたかったんだ。どんな一日だろうと、今日という日は、昨日亡くなった誰かが生きたかった明日なんだってね。キミ達は何でもできる。だって、元気に生きてるんだから。そうだろう? 昨日できなかったこと、やらなかったことを、今日はやってみなくちゃもったいないじゃないか。ね?」
アルテミスは、セヴァの言葉を一生懸命受け止め、理解しようとした。
「さて、キミが泣いている訳が彼女と僕のコトなんだったら大丈夫。僕たちはいつだって一緒なんだよ」
そう言ったセヴァは青空を見上げ、まるでそこに彼女がいるかのように微笑んだ。
そしてアルテミスの肩をぽんと優しく叩くと、麻袋を抱えて仕事へ戻って行った。

 セヴァの背中を見送りながら、何度も何度も涙を拭って、セヴァの言葉を繰り返した。
「………なんでも…できる……」
言葉が唇から漏れた。自分の声に、改めてその意味を認識する。
「何でもできる」
勝手口から飛び出して来たパメラが、アルテミスの頭を一生懸命に撫でた。そんなパメラをアルテミスは優しく抱き締めた。





 夕暮れが世界をオレンジ色に染め抜くと、二台のトラックが帰って来た。
エンジンの音を聞きつけた子供たちが、裏庭へばらばらと走り出して出迎える。アルテミスも一緒に戸口まで出向いた。
 トラックから降りたジョーが、夕陽に照らされて眩しい。
――元気に生きてるんだから。
セヴァの言葉が胸に浮かんだ。目の前の生きているジョーは、すぐに子供たちにもみくちゃにされた。出荷作業が無事に終わったからか、ジョーは機嫌が良い。アルテミスに気付くと、大声で叫んだ。
「おねーさーん、夕飯なーにー?」
アルテミスは一瞬驚いたが、すぐに答えた。
「カレーだよー」
大きな声で叫んだら、とてつもなく気持ちが良かった。風に舞う髪を押さえながら、アルテミスは深呼吸して秋の空気を思い切り味わった。





 夕食後、部屋に下がったジョーは、煙草を咥えながら端末タブレットを見ていた。
「お、ロイ?」
ロイからメールが来ていた。
『レースの写真が出来たから送るよ。ただし、俺のカメラだから宴会オンリー』
ファイルを開けると、オーラーデ島のビーチハウスでの醜態の数々が散らばった。
「ゴセ、ずっと酔っ払いじゃん」
重量級の酔い方で社会的地位を失いかねない姿のゴセがほとんどの写真に映っている。ジョーはくすくすと笑いながら、次々にスクロールして行った。
と、がほっと咽せて思い切りタブレットをひっくり返した。そのまましばらく押さえつける。
(なんで、いつの間にこんなん撮って…………!!!!)
肩越しに背後を見やり、室内に誰もいない事を確かめて、ゆっくりとタブレットを覗いた。
みるみるジョーの頬が赤くなる。
タブレット画面の中で、ジョーがアルテミスの髪に小花を挿していた。
確かに、この後にロイが現れて冷やかされた。
(ったく、あのヤロー……)
盗み見されていたとは、何とも不愉快な気分だ。しかも、こんな意味ありげに撮りやがって、と忌々しく思いながら、スクロールした先に現れた写真に、ジョーは釘付けになった。
(アイツ、何やってんだ?)
アイツとはアルテミスのことで、何とはカメラマンを見てにっこり笑っていることである。ありふれた写真だったが、そのカメラマンがロイで、つまりはロイに向かって投げられている笑顔だということが、ジョーをふてくされた気分にさせた。
 しかしジョーは、気分が良くないにもかかわらず、その写真からなかなか目が離せなかった。





 ゲストルームのドアの前で、ジョーはアルテミスに一枚の写真を手渡した。
「ロイさんから?」
「なんか、おまえのが間違って送られてたから」
「ありがと…」
じゃ、と言って、素早く去ろうとしたジョーを、
「あ!」
アルテミスの小さな叫びが引き止めた。何事かと振り向くと、アルテミスは写真を手にして泣き出していた。
「え? あ、な、なんで? おい、どうしたんだよ…?」
さすがにジョーも慌てた。その写真で泣く理由がさっぱり分からない。
「これ……花……」
「え?」
誰かに見られたら、まるで自分が泣かしたみたいだ。濡れ衣だ。
 その心配はすぐに現実の事となった。タイミング悪く、風呂上りで自室へ向かう途中のパメラに見つかってしまった。廊下の奥から猛ダッシュして来た彼女に左足へタックルされて、ぐいぐいとアルテミスから引き離された。
「ち、違うパメラ、苛めてるんじゃないって!」
更にはセヴァが部屋から出て来た。ジョーは、ややこしい事になりそうな予感がして、今すぐこの場から立ち去りたいと思ったが、左足にものすごい力でパメラがしがみ付いている。
 何かを握り締め泣いて立っているという尋常ではないアルテミスに気付いたセヴァは、もちろん声をかけてきた。
「あれ、どうしたの?」
その声に振り向いたアルテミスは、切羽詰った勢いで訊ねた。
「セヴァさん! これです、わかりますか? 名前!」
「ん?」
セヴァは、差し出された写真を覗き込んだ。アルテミスがにっこりと微笑んでいたので、何て可愛らしい笑顔なのかと横道に一瞬逸れたものの、セヴァは髪に挿した花に注目した。そして、瞬時に全てを理解して、
「あー、この花、何だっけ、なぁ、ジョー」
と、何も知らない振りをしてジョーに声をかけた。ジョーはパメラにしがみ付かれたまま、え?とか、あ?とか叫んでいる。
(まだ惚ける気なんだな…?)
セヴァは畳み掛けに出た。
「ああ、これ、ほら、あれだよな? お前の故郷が原産の花じゃなかったっけ、ほら、」
「あ〜〜〜〜、それ、リリじゃね? そうだ、リリだ!」
勝負は年の功も手伝ってセヴァの圧勝、ジョーはあっけなく花の名を公表した。
「リリ?」
アルテミスがジョーを振り返った。
「そ、そう……、思い出した……」
アルテミスの輝かんばかりの顔をジョーはまともに見る事が出来ず、しどろもどろになる。
「リリ……」
アルテミスは花の名を呟きながら写真をしげしげと見つめた。
セヴァがぱんっと手を叩いて晴れやかに言った。
「さて、名前が決まったようだね」
「あ?」
「はい!」
怪訝な顔をしているジョーを尻目にアルテミスはセヴァに返事をすると、ジョーに向き直った。
「リリ。私の名前よ」
「え!!」
「ジョーの言ったとおり、ここにいる間に決まった!」
彼女は笑顔で両手を挙げた。悩みが解決した伸びなのか、万歳なのか。
「ちょっ……」
「リリねえね!」
パメラはジョーの足から剥がれて、アルテミスに飛びついた。アルテミスは…いや、リリは、パメラを抱き上げると、嬉しそうにきゃっきゃと騒ぎながら、パンジーの方へ行ってしまった。
それを呆然と見送るジョーの頭の中は、彼女の選んだ名前がぐるぐると渦巻いていた。
「いやぁ、本当に良かったなぁ! 嬉しそうじゃないか、リリ」
殊更、リリというところを強調して言うセヴァに、嫌な予感がしてジョーは訊ねた。
「セヴァ、あいつに……何か相談とかされてたのかよ?」
意味ありげににやりと笑ったセヴァは言った。
「忘れてたって? おまえが? ふ〜ん?」
ああ、やっぱり……! セヴァは全部知っているんだ……! 花を贈った出来事はもちろん、花の名前も本当は知っていたことまで……!
ジョーは全身がかっと熱くなった。冷静になろうと努力する。
「……。意味なんてねーよ」
「お前、意味もなく花を贈るような人種だっけか? ん?」
「落ち込んでたあいつを励ますためにやっただけなんだ」
「リリの花言葉は何だったっけな」
努力も水の泡、慌てたジョーは理性が飛んだ。
「他に適当な花がなかったんだよ、それこそ花言葉が変なのばっかで! セヴァ、あいつに余計な入れ知恵、絶対すんなよ!」
ジョーの瞳の奥で、本気の炎がじりっと揺れたことにセヴァは気付いた。
「しないけどよ」
ジョーの肩をぽんと叩いて、
「ぼやぼやしてっと手遅れになっちまうぜ?」
一言囁いて、ニヤニヤしながら行ってしまった。
「……手遅れも何も、勝手に盛り上がってんじゃねーよ」
ジョーは深い溜息をついて部屋へ引き返した。





 翌日は、秋晴れの素晴らしい日になった。子供たち、特に男の子連中は、ジョーにバイクの指導を受けていた。そもそも、セヴァからしてライダーだったので、この農場の子供たちにバイク乗りは身近なスポーツだった。リリは家事の合間に、女の子達と花畑へ遊びに出かけたり、おやつにクッキーを焼いたりして過ごした。
 そうして最後になった夜は、大広間に布団を敷き詰め、男子も女子も子供も大人も、全員で雑魚寝をした。こんなふうに大勢で眠るなんて、リリはワクワクを抑え切れなかった。子供たちの、明日への希望に満ちた寝息の中で、なかなか寝付けなかった彼女は、部屋中に満ちる愛しい寝息をこのままいつまでも聞いていたいと思うのだった。





 夜中に降った雨は、朝には上がっていた。空気はしっとりとしていて、庭のコスモスが露で光っている。
 玄関ポーチに子供たちがずらりと並んでいた。
 赤い車の前に立っているリリにメリンダが言った。
「本当に助かったわ。どうもありがとう。元気でね」
リリは小さく頷いた。
「パメラを助けてくれて本当にありがとう」
セヴァに改めて礼を言われ、リリは向き直った。
「私こそ、お世話になりました。本当に、いろいろとありがとうございました…」
心の底から思った。得体の知れない自分を受け入れてくれて、優しくしてくれた。名前まで決まった。何より、セヴァの人柄が心に沁みている。
 パメラが画用紙を差し出した。クリーム色の頭をした女の子らしき形がクレヨンで描かれてあった。
「私…?」
パメラは頷いた。そして画用紙に描いた形を指差しながら、
「リリねえねとジョーにいに」
リリの涙腺は持ち堪えられなかった。
「ありがと……すごく嬉しい……!」
パメラが頭を真剣に撫でてくれたので、リリの涙はさらに溢れた。パメラは、リリの後ろに立つジョーを見た。ジョーは親指を立てて密かに頷いた。
「またジョーに連れてきてもらうといい」
セヴァの言葉に、ジョーは「はぁ?」と思い切り迷惑そうな顔をした。しかしセヴァはリリににっこり笑って、
「逆だからね?」
とウインクした。
「待ってるよ、リリお姉さん」
「はい」
差し出されたセヴァの大きな手を、リリは感謝を込めて握った。

 やがて、二人を乗せた車が発進すると、子供たちはわあわあと走り出した。
リリは窓から身体を乗り出して振り返り、ぶんぶんと手を振った。
「また来てねーーーーー!」
子供たちが叫んでいる。
「きっとだよー」
「待ってるねー」
子供たちが走りながら、二人に贈る言葉に「さよなら」はなかった。
人生始まったばかりで、すでに大好きな人とさよならをさせられた子供達は、もうカンタンには言わないのかもしれない。
 リリも言わなかった。
「また来るからー、待っててねーーーー!」





 フェリーのデッキにリリは立っていた。往路と同じく手すりにもたれてうな垂れているが、復路の今、彼女は感情も露に泣いていた。少し離れたベンチから、その後姿を見ていたジョーは、半ば呆れた様子で立ち上がり、彼女の横へ並んだ。
「そんなに別れ難いヤツラかよ?」
ジョーの問い掛けに、リリは「うー」と泣き声で答えた。
「…………。春の種蒔き、行くか?」
リリはガバッと顔を上げて、
「うん!!」
と破顔した。涙でぐちゃぐちゃな頬に幾筋も髪をへばりつかせて、鼻を真っ赤にしたリリは、しかし嬉しそうな大笑顔だ。
 ジョーは、ようやく今回の強行策が成功に終わったと満足した。やっぱり連れて行って良かった、あの農場へ。
 どんどん遠ざかる島影を見やったジョーは、島の中央からすらりと伸び上がった光の帯を見つけた。
「虹だ」
「え」
リリはジョーの視線を追った。大きな大きな虹が、島の上空に掛かっている。
「きれい……!」
空を飾るリボンは見事な七色のグラデーションだ。
今頃、子供たちもこの虹を見上げているだろうか、大騒ぎしているのだろうか……。
リリの胸は温かくなる。
(かけがえのない大切な人たちがいる。私を待っててくれる人たちが……。
春になったらジョーときっと行く……。あの虹の彼方に……)
リリとジョーは、並んで手すりによりかかったまま、小さくなる島を見つめ続けた。
第21話  虹の彼方に
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