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第12話  ポートレート
 ヴィゴラス島・西部地区の中心部に、カーラの所属する報道局のオフィスはあった。
快晴の三時過ぎ、隣町でビル火災が発生した情報を受け、ただでさえ騒然としている社内がいっそう慌しくなった。
「俺に行かせてください!」
「よし新米、行って来い!」
若いカメラマンは愛器を担ぐと、パイロットの控え札を振り仰いだ。
「ロイさん、空いてる! ロイさん!」
オフィス内をぐるりと見渡してロイを捜す彼に、禁煙煙草を咥えた女性が背中越しに声をかけた。
「ロイならあっちでコーヒー飲んでるけど、飛んじゃくれないわよ」
「え、何でですか? 大火災ですよ?」
「そーゆー問題じゃないの」
「俺が新米だから?」
「あのね、ボクちゃん」
くるりと椅子を回して彼に向き直った彼女は、
「ロイはうちのパイロットにしてうちのにあらず、覚えときなさいね。ほら、ネルメも空いてるじゃない、彼に頼んだら?」
「なんだ新米、飛んで欲しいのか?」
腑に落ちない新人カメラマンだったが、一刻を争う状況に、ベテランパイロットと飛び出して行った。
 暫くして、サングラスをしたカーラが入って来た。
「どこ行ってたの、カーラ」
「スクープを捜しにトイレまで」
「あらぁ、スクープはトイレにはなかったみたいね。新人に持ってかれちゃったわよ」
くすっと笑いながらカーラのサングラスをちょいとずらして目を覗き込んだ彼女は、予想外の真っ赤な目に驚いた。
「どうしたの、その目…」
「昨夜、飲み過ぎちゃったのよ」
カーラは溜息をつきながら言った。サングラスを掛けていることの多いカーラだったので、気にも留めていなかったが、そう言えば、今日は朝からずっとサングラスだったと、同僚は今更気付いた。
「カーラ、ちょっと来い」
編集長がカーラを呼び付けるのと同時に、コーヒーカップを手にしたロイが入って来た。ロイは黙って自分の席に座った。
 編集長のデスクにはカーラの撮って来た写真がばらばらと並んでいた。腕組みをした編集長はそれらからカーラに視線を移すといきなり熱く語り始めた。
「スピード感! ド迫力! 有無を言わせない構図! お前の写真は最高だ! 女とは思えない程の説得力がある!」
「セクハラですよ、女にだって説得力ぐらいあります」
「真面目な話だ、カーラ! ――いいか、人物を撮れ」
「じんぶつ…?」
「柔らかな、温かい、心を持った被写体を撮れ。今までお前が得意として来た分野とは正反対な世界だ」
カーラの気持ちはますます萎えた。編集長を見ているのもしんどい。小さく溜息をつきながら目を伏せた。
「編集長、私は、」
「チャレンジだ! いつまでもすでに出来ている事に甘んじるな! 難しいだろう、しかし! お前ならきっと撮れる! 撮れ! 撮れ! 人間を撮れ、カーラ!」
編集長の口から“チャレンジ”という言葉が出てしまったので、カーラは意見するのを諦めた。この言葉が出た編集長を説得できる者はいない。

 カーラはとぼとぼと廊下へ出ると喫煙コーナーへ行き、煙草に火を点けた。深く一息吸い込む。溜息と共に一気に煙を吐き出した。
「外、行こうぜ」
いつの間にか隣に来たロイが言った。カーラは顔を向けずに、また煙を吸い込んでは吐き出した。
「………私、人撮るの好きじゃないのよね」
「知ってるよ」
「なら、そんな事言わないでよ」
ロイは、カーラの指から煙草をつまみ上げ灰皿に捨てると、ロイを見上げている充血気味の黒い瞳を隠すように、彼女のサングラスを掛けた。そして、じっとおとなしいままのカーラの手首を掴むと廊下を歩き出した。





 カーラには七つ違いの兄がいた。彼とロイは同じ歳で、皇太子とその側近という立場を越えた親友同士でもあった。
 信念の元に散りゆく刹那の皇太子から「妹を頼む」と託されて以来、ロイはカーラの絶対的な守護神だった。

 漂流の果てにカーラが地球へ降りると決めた時も、ロイは従った。
 報道写真を撮る事を生業に決めたカーラの側にいるため、ロイはセスナの操縦資格を持った。もともとロイは器用な男で、カーラのためにいろいろな事ができるようになっていった。所詮は王女様で、料理などできるはずも無いカーラのために、シェフ級の技術も習得した。住まいはさすがに同じにするわけにはいかなかったが隣に構え、四六時中彼女を護る事において努力を惜しまなかった。
 ローガーナの最後の王族。誇り高き血筋。その最後の一滴を護る。ローガーナの人間として最高の誉れだ。
 そう思う反面で、ロイは自分を律した。その肩書きを彼女に押し付けてはいけない。ローガーナ国家の実態が存在しない今、過去の栄華を彼女だけに体現させるのは酷だ。
 太陽系連邦局の支配下に入り、細々と生きながらえているローガーナの民が、彼女に無理難題な救いを求めて来ないよう、彼女が責任感からそれらに応えようとして押し潰されないよう、ロイは同胞からも彼女を護らねばならなかった。
 
 ロイは「オーリーチェ」と呼んで来た彼女(正式にはオーリーチェ王女と呼ばねばならなかったが、公の場以外ではいつもオーリーチェと呼び捨てていた。彼女もまた、そのことに対して何の不満も感じていなかった。彼女にとってロイは、生まれた時にはすでに側にいた幼馴染だったのだ)を、フレンドリーネームのカーラと呼び、カーラもまた、皇太子側近「シェット」と呼んでいた彼をロイと呼ぶようになった。それは、ローガーナ王国を封印し、地球で暮らす事にした二人の、暗黙の覚悟だった。






 雑貨屋の壁にもたれてサングラスの中からぼんやりと行き交う車を見ていたカーラは、カシャッという音に振り向いた。ロイが買ったばかりのトイカメラを片手に立っていた。
「おまえのに比べたらおもちゃだけど、ちゃんと撮れるぜ。ズームもついてる」
可愛い小さなカメラを弄りながら、ロイは言った。
「肖像権侵害よ」
「俺がおまえを撮るのに侵害も何もないだろうが。ピントも絞りもない、簡単に撮れるんだから、簡単に撮ればいい、構えないで」
「……」
「ほら、遊び遊び」
ロイはそう言いながら、カーラの手を引いて雑踏の中へと混ざって行った。







 パーズンを後にしたアレンは、明日の出発に備え、アルテミスと買い物をしに繁華街へ向かった。
 
 グランレース会場の小島・グラン島と、大橋で繋がっている大島・オーラーデ島。その島の南海岸にあるプライベートビーチで、明日から四泊五日のバカンスなのだ。
 チーム・ハザウェイの、グランレースに参加する際の恒例行事。レースの直前はバカンス。他のチームは前日まで走り込んだりマシン調整をするのだが、ジョーたちは目一杯遊ぶ。考えようによっては、まるで遊び収めのようにも取れる。万が一の時のために悔いの無い様に遊んでおく。
 しかし彼らは違う。走り込みも調整もとことんやるだけやり、そうして本番直前でレースから身も心も頭も離すのだ。すると五日後には、走りたい気持ちがフルチャージされている…という具合だった。

 水着はもちろん、ビーチで過ごす一切を持ち合わせていないアルテミスの一式を買い揃えた二人は、ショッピングモールのエントランスに向かって歩いていた。
「あ!」
突然、小さく叫んでアルテミスが立ち止まった。その視線の先を見やったアレンは、がっかりした。見つからなければいいと願っていた物に気付かれてしまったのだ。
「アレン人形? 可愛い〜!」
三頭身にデフォルメされた人形を手にして、アルテミスは人目も憚らずにキャーキャー言っている。居心地の悪いアレンは、ずらりと並ぶ人形の中からむんずと一体掴むと、アルテミスの目の前に突きつけ、
「“ボクの海賊アルテミス!”」
と、商品名を読み上げた。それは紛れもなく、アルテミスのデフォルメ人形だった。
「ボクって誰のコト?」
「宇宙に散らばるアルテミスフリークのコトだよ」
アルテミスは心底驚いた。
「そんなのいるの?」
「いるからこーゆー物が売られてるんじゃん」
人形の後ろにはポスターまで吊られている。海賊アルテミスのポスターを見上げて、
「ずいぶん似てない絵、使ってるのね」
と、アルテミスは言った。だがしかし、それは海賊アルテミスとして良く描かれている物だ。ふらりと立って、俯き加減の顔の中で、目も伏目がち。物寂しい雰囲気である。所詮CGなのだし、と彼女は気にしていない様子だった。
「アレンは……。ふふふ、かっこつけちゃって」
海賊アレンのポスターを見上げたアルテミスは照れて笑った。マントを翻した海賊アレンが、にやりと笑いながら剣を構えているポーズだった。
「俺がしたわけじゃない、絵だからな。まったく、本人に許可無く良くこんなの作るよな」
実に大勢の海賊のポスターが吊る下がっていた。ぐるりとポスターを眺めて行ったアルテミスは、お姫様姿の絵で視線を止めた。
「わぁ、綺麗…」
「あぁ、あれも友達だよ」
「お姫様がお友達なの?」
「うん。カーラは、独立国家の王族だったんだ」
「カーラ…?」
「そう、海賊カーラ。えと、ちゃんとした名前は長いんだ、カーラ・オーリーチェ・ファナン・ローガーナ。今はプロのカメラマン」
「カメラマン? カメラ…あ、パーズンに飾ってあった写真…」
「そう、カーラが去年、撮ったグランレースの写真だよ。良く分かったな」
アレンは驚いたが、アルテミスにしてみれば、あの写真を真似たのが失態の始まりだったのだから、忘れたくても忘れられるわけなどない。写真の下部にカーラの名前が小さく記されていたのだ。
「お姫様がどうして海賊に…?」
少しだけ躊躇したが、アレンはそっと話し出した。
「彼女の祖国がね、何か、とてもすごい技術だか、資源だかを持っていたらしくってさ、独り占めしていないで出せって太陽系連邦局が言って来たんだって。でも、連邦局に渡したら悪用されるって事で、ローガーナは拒否して、で、ぐちゃぐちゃやってさ。結局カーラの兄貴が、…それごと自爆してさ」
「え…」
「絶対に連邦局には渡せなかったって事だよな。そんなにまでして守ったモノが、一体どんなモノだったのかカーラは全く知らないらしいんだけど、それでも“人類にとって貴重な財産を消失した罪”ってやつで、王族の生き残りの彼女が罪人にされたんだ」
アルテミスは返す言葉が無かった。綺麗な綺麗なお姫様姿の彼女から、そんな悲劇はちっとも見えなかった。
「カーラも、俺なんかと同じ、ゴセに声かけて貰って地球へ降りた口だよ」
正確には、ゴセとアレンが声を掛けたのだった。




 

 独立小国家ローガーナの皇太子が、太陽系連邦局と交渉決裂の末、王宮内で自爆した事件は有名だった。さらには、王族唯一の生き残りの王女が罪人にされた結末もドラマチックに流布して行った。賞金もかけられたが、それは体裁ばかりで、コロニーから出て行く事を条件に釈放された。しかし、権力と栄華を失い、前科者と成り果てた王女に、手を差し伸べてくれる者は皆無だった。
 行く当てが有ろうと無かろうと、コロニーは出なければならない。悲劇の姫君と、皇太子側近シェットの他、ほんの数人の従者を乗せた船は、まるで難破船のように宇宙を漂っていた。
 そこへ偶然出くわしたブレイブアローのアレンとゴセは、その船の主が判ると、迷う事無くコンタクトしたのだった。
 
 スクリーンに現れたゴセとアレン。にこやかに地球へ誘うゴセの後ろで、どちらかと言うとムスッとした表情で立っていたアレンだったが、真剣に控え目に、言葉を掛けて来る。初対面なのに、信頼できると何故か思えて来る口調だった。
 そして、伝える事を全て話し終えた二人が、スクリーンから消える瞬間、オーリーチェ王女は見たのだ。兄と良く似た、ちょっと困ったような笑顔を。兄がどうしてそんな笑い方をするのか、とうとう分からず仕舞いで永遠に別れてしまったが。心から敬愛していた兄、フェナン。
 はっと息を飲んだまま呼吸を忘れ、何も映さないスクリーンを見つめている彼女の横で、シェットも同じ思いで立っていた。そして、彼女が今、どんな思いでスクリーンを見つめているのかも、痛いほど良く分かった。
 
 それから暫くして、彼女が地球へ降りる事を決めた時………理由はどうあれ、シェットは賛成した。このまま宇宙を漂い続けるわけには行かない。この先どんなこじつけで、またローガーナの王女を捕えようとするかもしれない太陽系連邦局の、その権力の及ばないただ一つの場所、地球。その安住の地は、オーリーチェを護るには絶好の場所だと確信していたからだった。







 豪華なドレスをまとい、優雅に微笑んでいる王女姿のポスター。その横には、深紅のマントを背に垂らした、海賊姿の彼女のポスターがあった。その彼女もまた、気品溢れる優美な女海賊だった。
「レースの写真、今年もカーラが撮るから、会えるよ。バカンスにももちろん来るし」
アルテミスはにっこりと頷いた。仲良くしたいと思った。
 艶めく黒髪の彼女のポスターからその隣に視線を移したアルテミスは、どこかで見たような気がして、まじまじとその海賊を眺めた。
「あぁ、そう、ジョーも海賊だったからな」
「ジョー…って、え、あのジョー?」
「今はもう、指名手配解けてるから海賊じゃないんだけど、人気あるんだよ、海賊ジョー」
言いながらアレンは笑った。アルテミスは、目を見開いてポスターを凝視した。
 顎を上げながら、目だけは正面を見下ろしている。真っ白いシャツの胸元を大きく開けた姿で描かれていた。見ているこちらが赤くなってしまう絵だ。その乱れた様に眉根が寄る。と、アルテミスはどんっ!と突き飛ばされた。
 数人の女の子達が黄色い歓声を上げながら、ジョーのポスターの下へ群がったのだった。
「いや〜〜〜ん、ジョー、可愛いー!」
「私のジョー、素敵ー!」
彼女達は、ジョー人形を手にして大はしゃぎしている。
 アレンに支えてもらいながら、アルテミスは呆気に取られてその様子を見つめていた。
「ねえ、どっちもいいよね、両方買っちゃうよね!」
ジョー人形が二種類ある事にアルテミスは気付いた。ポスターを改めて見上げてみると、ちょっと幼い感じの表情をした、海賊ではない姿のジョーらしき少年の絵が吊るされていた。フリルのブラウスに身を包んだ、上品な少年である。
「あれは…?」
思わず尋ねると、
「あれはね、ジョーが16歳ぐらいの、お尋ね者になる前の御曹司、ってことらしいよ」
「御曹司?」
「ご先祖が貴族とかで、あいつ、お坊ちゃんだったんだ。あんな格好してたかどうかは知らないけどさ」
アレンは笑いをかみ殺しながら言った。
「貴族……。だから花なの…?」
少年の方のジョーは、大輪の花を背負っている。
「いや、ジョーの故郷が、花に密接した文化なんだって。あいつもやたら花に詳しいし。あ、ほら、ワッチ。花屋やってただろ? ワッチもジョーと同郷なんだよ」
あぁ、そう言えば、ひまわりを貰ったっけ…と、アルテミスは思い出した。なるほど、花の文化か。
改めてジョーのポスターを見上げる。憂いを帯びた白い肌の少年。花の香りをまとっていただろう、この美少年が……。
青年になっているポスターを見比べる。
(今や、煙草の香りのフェロモン男…)
そう考えたが、もう一人の自分が意見する。
(でも、甘い香り。嫌いじゃない。と言うか、好き。あの香りは)
誰かの香りかもしれないとか、そんなコトはどうでもいい、あの香りは甘くて好き。それでいいやとアルテミスが結論を出した時に、アレンが肩を抱いて促した。
「行こう」
気付くと、周囲がこちらを見てざわついている。どうやら海賊アレンだとばれ始めたようだった。彼女がアルテミスだとばれるのも時間の問題だ。大事にならないうちに、アレンはその場を立ち去った。







  グリーンパークのベンチに腰を下ろしながら、カーラはロイに言った。
「ロイのセスナから見下ろしてると、ちっぽけな島なのに。この町だけでもずいぶんと広いのね」
「よく歩いたな。ちょっとここで待ってろ」
そう言い残してロイはベンチを離れた。カーラは脱力して、ベンチの背もたれに身体を預けて、ボーッと前方を見ていた。
 夕陽の黄色に照らされて、木々や人々の輪郭が金色に光っていた。初秋にしては暑い午後の日差しから逃げて来た人々が、思い思いの場所で寛いでいた。
 カーラの視線の先には、柔らかな芝の上に腰を下ろした男女が居た。二人とも帽子を被り、膝を抱えた女性と、その横に寝転がっている男性。男性は上半身を肘で支えながら、僅かに起こしている。後姿の女性の顔は夕陽の黄金色に縁取られて、まるで発光しているように見えた。傍らに寝転ぶ男性の方を向いて笑っている。
(楽しそうだ事…)
カーラはしばらく、ぼんやりと眺めていた。ベンチの上で動かした指先が、ロイが置いて行ったトイカメラに触れた。カーラはちょっとの間カメラを見ていたが、溜息と共にそれを取り、構えると、ファインダーを覗いて、二人を見てみた。ズームしてみる。眩く輝いている女性の顔。笑顔。不思議な笑顔だと思った。恐らく恋人達なのだろう。幸せなカップルなんて見たくも無いはずなのに、幸せな気分が伝染して来るようで、惹きこまれる。
 カーラはそっとシャッターを切った。彼氏が何か話しかけているらしく、身体を傾けて耳を寄せる彼女。弾ける笑顔。むくりと上体を起こし、彼女の頬に顔を寄せる彼氏。
 やがて恋人達は立ち上がり、買い出しでもしたのか、大小たくさんの袋をぶらぶらさせながら、手を繋いで芝の上を歩いて行ってしまった。
 カメラを膝の上に下ろして、カーラはぽそっと呟いた。
「そして一人……か」
「何だって?」
冷えた缶を手にしたロイが立っていた。
「何でもない、独り言よ」
「公園のベンチで独り言なんて、年寄りみたいだな」
からかうような口調で言いながら、ロイはカーラにアイスティーの缶を渡した。
「ふん。まだ23よ」
缶のプルタブを引くと、ハーブが香った。ハイビスカスと、カシス、そして大好きなローズヒップ。ささくれてヒビ割れそうだった気持ちが、ふわふわとほどけるような感覚に変って行く。
「…そうね、もう23よ…」
素直と弱気は紙一重のようだ。
「たかが23、されど23か?」
カーラの隣に腰を下ろしたロイも、プルタブを引いて缶コーヒーを開けた。
「ロイなんてもうすぐ30のくせに」
「まだ29」
「違わないわよ、29も30も」
「そう、要は中身、本人次第」
まだ29って抵抗したくせに。と、カーラは少し笑った。
「何撮ってたんだ?」
「ヒト」
「ここからじゃ逆光だったろ」
「いいのよ、遊びなんだから。そうでしょ?」
「そりゃそうだ」
納得しながらロイは笑った。

 カーラはロイが笑うと嬉しかった。兄の側近だったロイは、もう一人の兄のような存在で、しかもちょっと厳しかった。本当の兄は優しくて甘くて、突拍子の無い我侭を言っても、「仕方ないなぁ、ファナンは我侭で」と笑って応えてくれた。しかしロイ・シェット・マーク・キアロッドは違った。単なる我侭は即却下された。妹に甘いフェナンにもきっぱりと意見していたのを彼女は知っていた。
 だからと言って、彼女はシェットを嫌わなかった。シェットはいつも公平で(女だからと差別したコトはなかった)、嘘が無く(大人の都合のような嘘は一度もつかれた事がない)、正しい行いはちゃんと認めてくれた(表現は無愛想でも)。
 滅多に表情を変えないシェットの笑顔。それはオーリーチェにとって貴重な、見られたら嬉しい顔だった。カーラとロイになった今もその大切さは変わっていない。
 
 その大好きな笑顔を久しぶりに見る事が出来て、カーラは頬が緩んだ。頬と一緒に気持ちも緩む。
「ロイ…」
両手の中のハーブティーに視線を落しながら、ふと口をついて名前を呼んでしまった。
「ん?」
ロイに返事をされて、カーラは困った。だって別に話しかけるつもりはなかったんだもの。でもロイは待ってる。私が呼んだから。…。カーラはハーブティーを一口啜って
「美味しい。ありがとね」
と言った。誤魔化しじゃない、これも本音だ。
 しかしロイは、今度は答えずに、自分の缶コーヒーを飲み干した。彼にとって、彼女の好物を調達する事ぐらい簡単な事だ。彼女の満足感を確認できて、それこそロイの胸の内はひっそりと満たされた。







 黄色い太陽光に照らされた並木の下をのんびりと歩きながら、アレンはアルテミスに明日からの日程を話して聞かせた。
 レース用のマシンを載せたトレーラーは、チーム責任者のジョーが運転して、フェリーでオーラーデ島に渡る。トレーラーにはジョーの他にメッカとニック。トレーラーの後ろを、ワゴン車が1台。運転はケン。本当なら助手席には新妻ヒイナが座っているはずだったが、どうしても仕事の都合がつかず、バカンスには不参加となってしまったので、ケンは道中寂しく一人だった。このワゴン車は、オーラーデ島からグラン島へ大橋を渡って移動する際に、皆を乗せるための車だ。
 カーラとロイの報道組は、ロイのセスナで空路から、ゴセとディミー兄妹、ミネルバとサラ夫妻、そして自分たちは、それぞれ自家用クルーザーで海路から、プライベートビーチへと直行する。
 運が良ければ本物のイルカが見られるよ、とアレンは言った。アルテミスは心底楽しみだった。たった一つだけ、ジョーに謝れていない事だけが気懸かりだったが。







 報道局のオフィスに戻った頃には太陽はすっかり沈んでいた。当直の数人の他は、わずかな人数しか残っていなかった。カーラに人物を撮れと息巻いていた編集長も帰宅したらしい。副編集長は、新米カメラマンの撮って来たビル火災の写真をニュースサイトに載せるべくいろいろと指示していたが、二人に気付いて
「お、お帰り! グランレース、今年も行ってくれるんだろ?」
と、早口で訊いて来た。カーラが振り向かずに黙っているので、ロイが答えた。
「はい、その予定です」
「明日からだったよな、休み」
「はい」
「OK、頼むな」
確認が出来て安心した副編集長は、携帯電話で話しながら、慌しく部屋を出て行った。
「明日、いつも通りの10時でいいよな」
オーラーデ島には1時間もあれば着く。集合は毎年同じ“昼前”。バカンスは皆揃ってのランチからスタートさせるのが恒例だ。
 窓辺でじっと外を見ていたカーラが、ぽつりと言った。
「………今年はパスするわ」
ロイは、肩越しにカーラの声を聞き、すぐには何も返さず、PCを立ち上げた。椅子には座らず立ったままのロイの身体がモニタに照らされて青く染まった。ロイはトイカメラのチップをPCへ差し込みながら、ようやく言葉を返した。
「レース、撮らないのか?」
「それは撮るわよ、仕事だもの」
やっぱりそうか…と思いながら、
「バカンスには参加しない、って事か」
と訊いた。カーラは答えなかった。相変わらず窓の外を見たままだ。ロイは振り向いて、彼女を見た。うなじで結わいた黒髪が、ふわふわと隠している小さな背中。彼女の気持ちは良く分かる。理解できた。
「ま、それも有りだよな」
ロイは言った。
「アレンが女といるところなんて見たくないもんな。今年はパスするか」
カーラの抱くアレンへの思いは、二人の間では隠し事ではなかった。ロイは、彼女の恋にすら協力を惜しまなかったのだ。
「でも、来年はだめだぞ。ずっと避けては行けないからな」
 地球へ降りたカーラとロイを大歓迎してくれたゴセとアレン。彼らの友人達が、あっという間に自分達の友人にもなった。皆、大事な、失いたくない仲間だ。
「すぐには無理でも、事実はしっかりと見なくちゃな。ほら、おまえは報道カメラマンじゃん」
カーラは黙ったままだ。
「見て、やっぱり辛かったら、辛いって言いながら泣けばいいんだから」
ロイの口から“泣けばいい”という言葉が出て、カーラは息を飲んだ。

 突然兄を失ったオーリーチェは昼も夜も泣き続けた。更には非情なまでの太陽系連邦局の尋問で傷つけられ、確実に彼女は衰弱して行った。誰が何を言っても彼女の涙は止まらず、女官達は途方に暮れた。そんな彼女の胸に唯一届いたのは、シェットの声だった。
 気付くと、大きな胸にそっと抱き締められていた。優しい手が髪をゆっくりと撫でていた。背中をさすっている手が温かい。耳元で囁く声。
――もう、泣くな。溶けてしまう。泣くな。
そうしてシェットは激務の中、一晩中付き添ってくれたのだった。
 朝が来る頃には、オーリーチェの頬は乾いていた。頭に置いた手で、ぽんぽんとしてくれたシェットが出て行ったドアを見ながら、彼女は誓ったのだ。もう決して泣かないと。シェットに心配をかけないと。

 ゆっくりとロイに振り向いたカーラは、搾り出すように言った。
「泣けばいいなんて……簡単にあなたが言わないでよ、シェット…」
シェットと呼ばれて、ロイは事の重大さに気付いた。
「私は、泣いたりしないし、辛いなんて言わない……」
「……」
「明日、10時ね」
そう言うと、バッグを鷲掴みにしてカーラは部屋を出て行った。カーラの背中に呼びかけようとして、オーリーチェと呼べば良いのか、カーラと言った方がいいのか、咄嗟に判断できずに、結局ロイは遠去る靴音を聞くしかなかった。
「あれ、ロイはまだ?」
いつも一緒にオフィスを出て帰宅するのに、カーラだけが出て行ったので、同僚が声を掛けて来た。
「あぁ、いや、俺ももう帰るよ、これチェックしたら」
ロイとカーラが話す時はローガーナの言葉を使うので、今の話も内容など誰も分かってはいない。ロイは何時も通りの口調で返事をした。
 深く一息吐き出すと、ロイはPCのモニタに目を落した。トイカメラで撮った写真が並んでいた。自分が撮ったカーラの横顔が一枚目だった。壁にもたれて、ぼんやりと前を見ている。ただそれだけなのに、ぞくりとするほど高貴で美しい。そして、胸が痛いほどの寂しそうな顔だ。ロイはどうしようもない切なさに飲み込まれそうになりながら、それでもモニタの中のカーラを見つめる事を止められなかった。
第12話  ポートレート  END
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