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第11話  パーズンのジョー
 買ったばかりの煙草を1本取り出し、口に咥えると火をつけ、ジョーは深呼吸した。
店に買い置きしていた煙草を珍しく切らしてしまい、数軒先の雑貨屋まで出向いて手にした、愛用の煙を味わった。
 バイク屋の立ち並ぶストリートを、あちこちから響いてくるエンジンの音を聞きながら、ジョーは自分の店へと歩いた。

 海賊ジョーがオーナーのバイクショップ『パーズン』は、店舗の表側はちょっとしたバイク用品を扱っていて、裏はバイクをカスタマイズやチューンナップするピットになっている。チーム・ジョーのレーシングバイクはもちろん、一般客のバイクのカスタマイズも請け負っている。パーズンのメカニックチーフのメッカも、その部下のニックも、そしてジョーも、優秀な技術者だった。
 海賊ジョーとしても、チーム・ジョーのメインレーサーとしても、とにかくジョーの人気は絶大なので、そんなジョーに憧れるバイク乗り達が持ち込むバイクで、いつもピットは予約待ちだった。
 表のショップコーナーで扱っているバイク用品は、アクセサリー的な物は一切なく、専門的な部品がほとんどだった。何故なら、バイクに無関係の「海賊ジョーのファン」除けのためだ。この店は、あくまでバイクショップであって、海賊ジョーのキャラクターグッズ店ではないのである。
 それでも店先には、ほとんど毎日、着飾った若い女性達が集まっていた。もちろん目当てはバイクなどではなくジョーだ。
 商売に支障が出るので、ジョーは滅多に店先には現れない。ほとんどをピットで、メッカとニックの三人でバイクを弄って過ごす。店番はケンだ。
 そうこうするうちに、純粋にバイクに用のある客以外は遠慮するよう、いつしか暗黙のルールもできて、ジョーのファンは、いつも店の外で人だかりを作っていた。
 
 店を出て来た時は、開店時間前だったので下りていたブラインドは、ケンによって上げられたのだろう、店内は陽の光が入って明るかった。
 ジョーの行く手には、女性の集団が三つ、待ち構えていた。
まさかの御本人登場に、黄色い声が一斉に上がる。
元貴族の資産家の御曹司だったジョーは、幸か不幸か紳士的教育を叩き込まれているので、基本的に女に優しい。(下心のある時もない時も) 絶対に避けては通れないと判断すると、まず煙草を消して、万が一に備えた。(火傷をたてにあらぬ要求をされても困るので) そして、多少うざったくても愛想笑いを振りまき、差し出された手には軽く触れて(握ったりはしない)、「レースの応援、宜しくな」と宣伝も忘れずにすり抜けた。
 店の中にまで入って来られたら面倒だな…と思っていたが、今日のファンはお行儀が良く、ちゃんと狂喜乱舞は店の外だった。

 ほっとしながら店内に入ったジョーは、奥に見慣れない大きさの人影を見つけてぎょっとした。チーム・ジョーや、バイク乗りの男性とは違う背丈の人間がヘルメットを被って、壁を見上げた後姿だった。
 外の女の子達から、一人だけ抜け駆けしているのか。もしくは、バイク好きの少年か。
 しかも被っているヘルメットは、店内に展示してある、前回のレースでジョーが着用した物だ。見上げている壁に掛けられたパネルは、まさにその時の写真。ジョーが思い切りバイクを倒かせてコーナーを走り抜ける瞬間だった。
 同じメットを被って、同じ心境になっているつもりなのだろうか。おもむろに両手を前に上げて、あたかもスロットルを握るかのような仕草を始めた。パネルのジョーと同じ方向へ身体も傾けてみる…。ジョーは吹き出しそうになったが、堪えて声を掛けた。
「ボーズ、脇が甘いぜ、メットが泣いちゃうなぁ〜」
人影は心底驚いたのだろう、弾かれたように飛び上がって、勢い良く振り向いた。
「か、勝手に触ってごめんなさい!」
バイザーを下ろしたメットの中から声がした。女の声だった。
多分、パネルのマネをしていた所を見られてしまった恥ずかしさに、必死に耐えているのであろう、もじもじとしながら彼女は抗議した。
「でも私、ボーズなんかじゃないわ」
「あらら、これは失礼、お嬢ちゃんだったか」
「……あなた、誰?」
(オレの店に来ておきながら、オレに「誰?」はねぇだろうが。新手の口説き文句かよ?)
ジョーは、彼女が自分目当てのファンだと信じて疑わなかった。暗黙のルールを破って抜け駆けする娘は日常的にいるものだ。
「オレ? ん〜、通りすがり?」
適当に答えて、さぁ、どう出るかな? と、彼女の反応を待っていると、何も言い返さずに、顎下に締めたバンドを緩めようとし始めた。
(え、スルー?……)
彼女の真意がつかめずに見つめていると、方言だろうか、聞いた事のない言葉が彼女の口からぶつぶつと漏れた。バンドは緩まるどころか、締まって行く。見かねたジョーは歩み寄った。
「あぁ、あぁ、そんなトコ引っぱったら、ますますきつく締めてっちゃうよ? どうする? 一生メット被ったまんまだったら。これじゃぁ、オレとキスもできないぜ?」
メットの中で、今、どんな表情をしているのか見たくなったジョーは、メットに手を掛けてバイザーを上げようとした。
その瞬間、彼女はヘルメットごと頭を思いっきり斜め前方に突き上げた。それは見事にジョーの顎に命中した。
「あんたなんかとキスできなくて結構よ! バカじゃないの!」
ジョーは、ジンジン痺れる顎の感覚に呆然としてしまった。
……頭突き…?
女に頭突きされた。とか、オレを頭突きした女がいた。とか、同じような台詞がぐるぐると渦巻いた。
 メットの取れない彼女は、スタスタと奥のドアへと歩き出した。
「こら、そっちはスタッフオンリーだ」
慌てて彼女の腕を掴んだが、彼女は激しく振りほどいて、頑としてドアへと向かう。
「いい加減にしろって!」
ジョーも怯んでいられない。強く腕を引き寄せた。メットの中で彼女はわめいたが、方言なのでジョーには分からない。
「あー、うっせーな、メット返しやがれ、クソボーズ」
片手で彼女の両腕を捻り上げ、もう片手でメットの脇のボタンに触れた。それだけで、彼女の顎にかかっていたバンドはしゅるっと解けた。そのままジョーは、メットを両手で掴むと、彼女の頭から剥ぎ取った。

 白に近いプラチナブロンドの髪がふわりと揺れて現れた。柔らかそうなその短い髪に包まれた頭は、ふわふわとした小さな球のようだった。
 強引にメットを剥ぎ取られて頬やら耳やらが引っ張られて痛かったらしく、彼女は顔をさすりながら相変わらずの方言で文句を言っている。
 奪還したメットをカウンターに置くと、ジョーは言い放った。
「ほら、こーゆー時はにっこり微笑んで言う言葉があるだろうが」
一瞬、動きの止まった彼女は、しかしすぐに理解して、
「あぁ、“にっこり微笑んで”」
と共通語で言いながら、ジョーに向かって顔をあげ、微笑んだ。

 初めて彼女の顔を真正面から見たジョーは、心臓が痛い程、ばがん!と脈打った。
(リラ――!?)

 声も出せない。次の瞬間、
「余計なお世話様!」
と言って、彼女はしかめっ面をして見せた。

 ジョーの頭の中は何一つまとめられずに、ただただ、彼女を見ていた。
―どうしてリラがここに?
―リラじゃないのか?
―オレを捜して来たのか?
―他人の空似か?
―偶然か?
―人違いか?
―奇跡が起きたのか?
―何でオレのこと知らないフリなんかしてるんだ?
―やっぱり、リラじゃないのか?
―なんで髪が短い?

 その時、奥のドアが開いて、ピットで回しているエンジンの音が、轟音となって流れ込んで来た。
 我に返ったジョーが、ドアの方を見ると、アレンが入って来るところだった。煙草を買いに行っている間に、来てくれていたらしい。
アレン!と言おうとしたが、喉が渇いて張り付いて、声にならなかった。
「あ、なんだよ、戻ってたのか。どこの店まで買いに行ってんのかと思ったよ」
アレンが先に喋った。
この場にアレンが居てくれて良かった!と思いながら、ジョーはアレンに、今、目の前で起こっている奇跡を話そうと、張り付いた喉で声を絞り出した。
「アレン、」
しかし同時に、アレンは彼女の方へ向いて、ジョーの知らない言葉で彼女に話しかけた。

 ジョーは思わず、次の言葉を飲み込んだ。
目の前でアレンがリラと喋っている。
アレンとリラが……。
二人は知り合いなのか…? どうして? 何で?
しかも、その言語はなんだ? アレンがそんな言葉を使うのを見るのは、初めてだ。
アレンの口からスラスラと出て来る知らない言葉が、やけに気持ち悪い。その中で「ジョー」という単語が聞き取れた。その瞬間、彼女の顔が――。
 およそ、ジョーの期待した表情ではなく……。今にも泣きそうな…
なんで泣く…? リラ…!
「ジョー、紹介するよ。おまえが協力してくれたから見つけられた」
そう言いながら、アレンは彼女の肩を抱き寄せた。見た事のない嬉しそうな顔をして。

 そのアレンの顔を見たジョーは、今までの疑問が一気に解けた。そして、一呼吸おくとアレンに言った。
「アルテミス…だっけ?」
「ああ」
晴れがましいアレンの隣で、アルテミスは俯いていた。
 
 彼女が泣きそうなわけは…彼氏の親友とは知らずに、たった今、取ってしまった態度のせいなのだろう。頭突きをしたり、馬鹿呼ばわりしたり。そう、たったそれだけのこと。

 アレンの親友とは知らずに、オレとばったりと再会して、走って泣いてキスして…二度目の再会があったら運命の相手だと受け入れろとか…一方的にだったけれど、そんな誓いをした仲だとか…そんなコトは、泣きそうな表情の原因じゃない。
 今、目の前の彼女の胸にはそんな心配は微塵もない。オレは彼女にとって初対面の男だ。彼女は記憶喪失なはずだから。

「…は、初めまして…よろしく…」
彼女は消え入りそうな声で言った。
(「初めまして…」)
ジョーは頭の中で繰り返した。なんて…キツイ挨拶だろう。

 うっかりすると見つめてしまいそうになる彼女から、アレンに視線を移したジョーは、にっと笑って言った。
「鼻の下、長ぇーよ」
ばんとアレンの肩を一回叩いて、ピットへ歩き出した。
 ジョーの背後で、また謎の会話が始まった。暫くすると、彼女はそのままで、アレンだけが歩いて来た。
「彼女は?」
「ここで待ってるって」
と、言いながらアレンは、また後ろを振り返り、彼女に向かって何かを話しかけた。彼女もそれに応えている。
「飽きたらおいでって言っといた」
アレンは無邪気に照れながら言った。
ジョーは胸にちくりと芽生えた棘に気付かずに、アレンに尋ねた。
「それって、どこの言葉?」
「あぁ、ムーンベース。彼女も月の出だったんだ」
「記憶と一緒に共通語も忘れちゃってんの?」
「いや、今は使えてるよ」
「なんだよ、じゃぁ見せつけてんのかよ、アレンくんたらぁ〜」
「違ぇよ」
ジョーとアレンは笑いながらドアを閉めた。

 ショップに一人残ったアルテミスは、大きく溜息を付いた。
――まさか、あの人がアレンの親友のジョーだったなんて…!
「通りすがり」と言う言葉を信じて、プラス「ヘンタイ野郎」かもしれないとも勘違いし(だってキスとか言ってたし!)、とんでもない態度を取ってしまった……!
 アルテミスはブラックホールに飛び込みたいと思った。





 ベッドの中で、頬を赤くしたアルテミスが拗ねていた。
「カサリナ行きたい…」
「こんな熱じゃ無理だよ」
バイクを囲んでパーズンでワイワイとランチをして、夕方帰宅した時、アルテミスの身体は熱かった。測ってみると、けっこうな高熱で、アレンは慌てて彼女をベッドに放り込んだ。
カサリナでアレンの仲間に会うのを楽しみにしていたアルテミスはがっかりした。それでも悪寒には勝てずに、布団の中での留守番を受け入れた。
 地球に降りてまだ一日も経っていない彼女を、たった一人残す事が中々できずに、アレンはいつまでもウロウロしていた。だが今夜の集まりは、自分の帰還祝いと一週間後に控えたレースへの最終確認も兼ねていたので、アレンは後ろ髪を引かれながらも、渋々出かけて行った。
  
 遠去かるアレンのバイクの音を、ベッドの中でアルテミスは聞いていた。さっきはあのバイクに自分も乗っていたのに…。
つい弱気にそんなコトを考えながら、バイクに乗ってパーズンへ行った事を思い出していた。
 ピットで暖かく迎えてくれたメッカ。歳が近いような気がしたニック。乗るだけで整備のコトはさっぱりだと笑っていたケン。三人とも、あっという間にアレンとバイクの話で盛り上がってた。エンジンの音。ワンワンと轟いて会話もできない。こっちで待ってるように言われて、一人でショップに居た時に見た、レースの写真。そして…同じヘルメットを見つけて被ってみた…のがまずかったんだ……。
 
 アルテミスはその後、何とかジョーに謝ろうと隙を狙っていたのだが、ジョーが一人きりになる事は最後までなかった。

 謝れずに帰って来てしまった。もし発熱などせずにカサリナに行ければ、謝るチャンスがあったかもしれないのに…。

 身動きの取れない身体を恨めしく思いながら、一つ一つ思い出す。
ジョーに言ってしまった事。ジョーが言った事。ジョーにしてしまった事。ジョーがした事。
 そして彼女は眠りに落ちて行った。





 カサリナのいつもの大テーブルで、ディミーはがっかりしていた。
「熱かぁ…! なぁんだ、会えるの楽しみにしてたのにぃ〜〜〜」
露骨に残念がる妹をたしなめて、ゴセはアレンに訊いた。
「大丈夫なのかよ?」
「あぁ、多分、疲れたんだと思うんだ。しばらくゆっくり休めば…」
女医のミネルバが言った。
「春にアレンにあげた解熱剤、あれ、残ってたら、使って大丈夫よ。あんまり苦しそうだったら飲ませてあげてね」
「あぁ、うん、わかった」
ミネルバの夫のサラが、てきぱきと料理やら飲み物をオーダーして行く。
「心配だったら、夜中でもいいから連絡して」
「ありがとう、ミネルバ」
正直、ミネルバがいてくれてアレンは心強かった。記憶喪失などと言う病を抱えたアルテミスには、やはり信頼できる医者がそばにいてくれるのが一番だ。
「まぁ、でも、良かったよな、無事にアレンが帰って来て」
オーダーが一段落して、サラが言った。
「本当だぜ。プラグも無事に届いたしな」
メッカが嬉しそうに続けた。
「で、どうだったんだ? わざわざ木星まで買いに行ったプラグはさ」
ゴセが訊いた。
「もう最高! 全然音が違うんだぜ!」
ニックが興奮して言うと、
「伸びも違うしな!」
ケンもつられてテスト走行した時の興奮が蘇り、夢中になって話し始めた。
プラグの話題で盛り上がっているうちに、次々と飲み物が運ばれて来たので、とりあえずアレンの無事の帰還を祝って乾杯した。料理の大皿がテーブルを埋め尽くし始め、皆は大いに飲み、食べ、喋った。

 皆に背を向け、携帯電話で話していたサラが、姿勢を戻して報告した。
「ロイとカーラ、来れないって。出掛けにロケが入って、まだまだ帰れそうにないんだってさ」
「あらまぁ、大変ね」
ミネルバが心配そうに言った。
「ロイ、当日は、いつも通りに飛んでくれるんだろ?」
メッカが確認の言葉を誰ともなしに投げた。
「そうだよな? 今年はダメとか、聞いてないよな?」
ニックも確認する。当の本人たちがいないところで確認のしようもないが、誰も二人からそんな言葉は聞いていないということは、例年通りなのだろう。
「とにかく、今年もいつもと同じ! オーラーデ島のバケイションもいつもと同じ! だよな!」
すでに酔い始めたゴセが大きな声で笑いながら言った。
「あと一週間かぁ、楽しみ〜〜〜!」
ディミーが嬉しそうに言う。
「そうだよな、おまえはこのバケイションのために、一年間働いてるんだもんな」
ディミーは兄を無視してケンの新妻・ヒイナに話しかけた。
「ヒイナは、どうしても都合付かないの?」
「残念だけど、どうにもならないの。今年はバケイションは諦めるわ。でも、レースには合流するから」
「結婚して初めてのレースなんだね、ケン」
結婚に憧れ始めているディミーには、いまだ独身で好き放題の兄貴よりも、年貢を納めたケンの方が断然大人に見えた。
結婚という言葉に、すぐに赤くなるケンに、ヒイナは静かに笑って言った。
「安全運転でね」
「いや、レースだし、俺セカンドだし…」
「きゃ〜、ケン、プレッシャ〜!」
ディミーのからかいに、ケンはしょんぼりとうな垂れた。
「怖ぇよ、マジに」
「何人か来たんだけどさ、テストしてくれって」
メッカが思わずぽろりとこぼした時、
「知らないヤツとなんて走れねぇって言ってるだろ」
ジョーの声がトンと通った。
そう言えば、今夜はやけにおとなしい…と、今頃みんな気が付いた。
「まぁ、やるだけやるけどさ、文句言うなよ、ジョー」
ケンは弱々しく言った。
「じゃぁ、サードにアレンか?」
ゴセの問いにアレンが頷いた。
「しっかり時間作って走りに来てくれよな、アレン」
「分ってるって、メッカ」
“走りに来る”とは、パーズンにある、シュミレーション・マシンに乗りに来いという意味だ。
 グランレース当日の今年のコースデータは、アレンが木星へ行っている間に公表された。参加チームはそのデータをダウンロードして、自前のシュミレーション・マシンにインストールし、さながら体感ゲームのように、固定されたバイクに跨っていながら、コースを体験するのだ。実際のコースが走れるのは、レース当日のテストランのみ。各チームたった一人、一周だけだ。
 アレンはこのシュミレーション・マシンでの練習が極端に少ないので、今回はサード・ライダーに下がったのだった。
「バイクはいい感じに仕上りそうなんでしょ?」
ミネルバがジョーの前に肉料理の皿を置きながら声をかけた。
「まあね。まずまずイイ感じ」
ジョーは答えながら肉を一つ頬張った。
「じゃぁ、何を悩んでるの?」
ミネルバの問いかけに、ジョーはすぐには答えず、もう一つ肉を口に放り込んだ。無言でミネルバを見据えたまま、しばらくもぐもぐと咀嚼する。ごくんと飲み込んで、
「別に。何も?」
と表情を変えずに軽く言った。
「あ、そう。なら良かったわ」
ミネルバも軽く返して、それきりにした。
 ミネルバはジョーやアレンより四つ程年上の精神科医である。ジョーがいつもと違う事は、ミネルバには良くわかったが、今のところ大した事はなさそうだと判断し、放っておくことにした。
―それよりもこっちだわ。
と、ミネルバは、夫の隣に座っているアレンに言った。
「アレン、もういいんじゃない? 慣れない土地での夜は不安よ?」
アレンは、ミネルバが言っているのがアルテミスの事だとすぐに理解した。
「専門の医者が言ってるんだから、そうなんだろうよ」
「そうか、じゃぁ…」
「彼女が心配なアレン、早退しまーす」
サラが大きな声で言った。お〜と歓声が上がる。すっかり酔っているゴセは指笛を吹いてうるさい。
「あ、みんな、悪いな…」
照れ臭そうに笑いながら、アレンは店を出て行った。

「いいな、ニック、海賊アルテミスに会えて」
ディミーは隣にいるニックに軽く肘鉄した。家が隣同士で、同い年の二人は、兄弟のように仲が良かった。
「よろしくなんて言われちゃったぜ」
「ムカつく!」
「このメンバーじゃ、海賊なんて珍しくないじゃないか」
サラが笑いながらディミーに言った。
「でもなぁ…」
難しい顔をしてメッカがゆっくりと言い始めた。
「“誰も寄せ付けない””地上に降りない”“そのまなざしは剣よりも鋭く、その心は氷よりも冷たく”……あと何があったっけ、海賊アルテミスのキャッチコピー」
「確かに! 俺がコーナで初めて会った海賊アルテミスは、そんな感じだった! うん!」
ゴセが大袈裟にがくんがくんと頷く。
「え、でも、今日会ったアルテミスは、全然そんなじゃなかったぜ?」
「いい子だったよなぁ」
「笑ってたよな、普通に」
ニックとケンがゴセに抵抗した。ディミーは二人に訊く。
「まるで別人?」
サラが
「まぁなぁ、記憶がないってんだからな。海賊だった時の記憶がさ」
と言うと、思わず、皆しん…とした。
「当人同士が幸せなら、もう何だっていいのよ」
ミネルバが明るく締めた。
「さすがドクター、良い事言うね!」
ゴセの大きな拍手に皆もつられて拍手した。そのぱちぱちという中で、ジョーは立ち上がると、
「お疲れさん。お先に〜〜」
と出て行ってしまった。
「ジョー、レースのコトでピリピリしてるの?」
「そんなわけないじゃん、“ジョー”だぜ?」
ニックは笑った。
「あぁ、そうだよな、ジョーのことだ、昼間はバイクに、夜は女に跨るってなもんだよな――」
ディミーが兄貴の頭を張り倒したので、ゴセは最後まで言えなかった。





 ゴセの予想に反して、ジョーはカサリナからまっすぐに帰宅していた。
マンションのテラスに出て、夜風に当たりながら、遠くの街灯りを捜した。
その方角は、アレンが帰って行った街だった。





 アルテミスの熱はすぐに下がった。ウイルス性の風邪等ではなく、木星からの帰還の疲労が出ただけのようだった。しかし、毎日パーズンへ行かなければならないアレンは、大事を取って、彼女を連れ出さずに留守番をさせた。
人工のコロニーや移住ベースとは違う天然の大気が、彼女の疲れた身体と心をゆっくりと癒し、新しい環境に慣れるのをそっと後押ししてくれた。
 そうして、アルテミスが外出したのは、四日後だった。

 アレンに同行してパーズンへ行くと、メッカやニックやケンが笑顔で迎えてくれた。会うのはまだ二回目なのに、もう大丈夫なのかと気遣ってくれる言葉が、アルテミスの胸に深く沁みた。

 店の裏のピットは、小さな小さなサーキットに面していた。このサーキットは、パーズンも含め、立ち並ぶバイク店が共同出資して建設したもので、一般人は入れないが、共同出資者達はカスタマイズしたマシンのテスト走行などに自由に使えた。今日も、すでにあちこちの店のバイクが数台、走っている。

 ジョーたちももちろん、ワッチのプラグを付けたバイクのテスト走行をしていた。アレンは、シュミレーションマシンでグランレースコースを走り、実際のマシンでこのミニミニサーキットを走りに連日通っていたのだった。
 
 グランレースのためにバイクに乗れるのも、今日が最後だ。明日はいよいよ街を発つ。
本番を間近に控えて、ライダースーツを着用しているケンにアレンは尋ねた。
「どう? 今年のスーツは」
「軽くていいよ。背中に変なたるみも引き攣れ感もないし」
黒地にワインとゴールドの切り替えしが施されていて、挿し色には鮮やかなローズ色が入っていた。腕と背中にその挿し色でキスマークが付いている。ジョーらしいツナギをしげしげと眺めながらアレンはケンに言った。
「3回、デザインNG出したんだっけ?」
「4回だよ。間に合って良かったよ」
ケンは笑った。
「着とけってジョーが言ってた」
ケンはそう言いながら、真新しいスーツをアレンに放った。
「アレンの?」
隣にいたアルテミスは覗き込んだ。
「うん。今日は本番と同じように、これ着て走ってみるらしいよ」
アレンは観念した表情で答えた。
アルテミスは、すでに着ているケンを見た。ケンは照れ臭そうに笑った。アルテミスもつられて微笑むと、
「かっこいいね!」
と本気で二人に賛辞を共通語で送った。

「ジョーが戻るぞ」
メッカの声に皆サーキットコースを見やった。
「じゃあ、俺、これ着て来るから」
アルテミスにそう言うと、アレンはスーツを持って奥の部屋へ消えた。
――まさに絶好のチャンス! アレンに知られる事なく、あの失態を謝れる。
アルテミスは、今日こそ何としてでもジョーに謝ろうと、密かに決心をして来ていた。
 店に着いた時、ジョーはコースへ走りに出ていた。それがようやく今、ピットへと戻って来るところらしい。
 緊張のあまり冷たくなった手をぎゅっと握って、どのバイクがジョーなんだろうと捜す彼女の視界の中で、一台のバイクがみるみる大きくなった。そして滑るように走って来ると、メッカとニックの前で穏やかに停止した。爆音を轟かせて猛スピードで走っていたバイクとは思えない。バイクに跨ったまま、ジョーはメットを外した。四日前と同じく、ゆるく波打つ金髪を後ろで一つに結わいていたが、表情は険しく真剣で、別人のようだった。
(あんな顔もするんだ……)
ふざけた表情しか見たことのなかったアルテミスは、軽く衝撃を受けて戸惑った。あの日、アレンとピットへ行ってしまった後のジョーを、彼女は見ていなかったのだ。あの時は、恥ずかしくて居たたまれなくて、とてもじゃないが、一緒にピットになんて行ける心境ではなかったから。

 アルテミスは、あの日からジョーの事ばかり考えていた。もちろん、勘違いから取ってしまった失礼の数々を謝罪したい思いからだったのだが、理由はどうであれ、毎日ジョーの事を考えていたのは事実だった。
 ようやくジョーの顔を見るコトができたアルテミスは、謝罪を成功させるプレッシャーに負けないように必死だった上に、予想もしないジョーの真剣な表情に動揺し、脈はどくどくと早まり、密かに息苦しさすら覚えた。
 
 ジョーは、メッカとニックにあれこれとテスト走行の感想を報告し、二言三言、話し合うと納得し、メッカの肩を叩いて後を託しながらバイクを降りた。そして、こちらを向いた瞬間に、ケンの側に立つアルテミスに気が付いた。
 一瞬、足が止まる。
が、すぐにケンに視線を移して歩き出した。ケンも歩き出し、すれ違いざまにジョーからアドバイスを受けると、バイクの方へ行ってしまった。

 ジョーは、とうとうケンと入れ違いにアルテミスの側まで来た。脇に抱えていたメットをテーブルの上に置き、スーツのジッパーを下ろすと、腕を抜き、上半身だけスーツを脱いだ。ぶらんと垂れた袖をヘソの下で軽く結びながら、彼女を見ずに口を開いた。
「もう具合いいの?」
 声をかけるタイミングを今か今かと狙っていたアルテミスは、突然、相手から話しかけられてしまって、計算外の展開に対応し切れず、目をぱちくりしたまま返事が出来ないで居た。
「言葉、通じね?」
と、ジョーは顔を上げた。
 ジョーの青い目が、まっすぐにアルテミスを捉えた。真っ青な二粒の宝石。澄んだ美しい青。地球の空のような青。
こんな綺麗な青色を、私は今まで見た事があったかしら。
そんな思いが浮かびながら、アルテミスはジョーの問いかけに答えようと、首を横に振った。
「通じる。具合は、いい、です」
緊張のあまり、まるで共通語がうまく使えない人のような口調になってしまった。
 しかし彼女の緊張を知らないジョーは、これが彼女の共通語レベルなのだと思い、
(記憶喪失か……)
と、改めて暗い喪失感が胸に広がるのを感じた。その喪失感は、ジョーの表情を曇らせ、視線を彼女から外させた。

 四日ぶりに見た彼女は、やはりリラに良く似ていた。
リラと女海賊アルテミスが同一人物だった可能性は高い。自分がリラに会った場所は、アレンが海賊アルテミスに会った場所と同じだったのだから。
 女海賊アルテミスの顔を知らなかったジョーは、先日初めて、情報サイトで彼女を検索した。モニタに現われた女海賊アルテミスは、リラの面影を残しているようないないような……どちらとも取れなかった。所詮、CGで作り出された顔は、本人とは結びつかないのだろう。自分を例にしても然りだ。
 もし、彼女がリラだったら…、リラだったら…。
その先は、ジョーにもわからなかった。
 たった一つだけはっきりとしている事は、彼女は『アレンの彼女』だという事だけだった。今日だって、こうしてアレンのバイクに乗ってやって来た。アレンの家から。彼女の中で俺のポジションは『彼氏のお友達』だ。
 ジョーは溜息を一つ吐き出すと、煙草を1本出して咥え、ジッポで火を点けた。

 今、まさにジョーに声をかけようと口を開きかけたアルテミスは、ジョーの口元から流れ出た煙の香りに気付いて、ぴたりと止まってしまった。
 その香りは、ゆらゆらと漂う紫煙とはまったく別の生き物のように、アルテミスの鼻腔へするりと滑り込み、頭の奥へ瞬時に到達した。
(この香りだ…間違いない、この香り……!)
ワッチの店に行く時に、パーキングで体験した光景が蘇った。あの時、懐かしいと感じた香り。この香りを自分は知っていると思った。でも、煙草を吸っていた男性達には見覚えが全くなかった。

 アルテミスは目の前で煙を吐き出すジョーを見つめた。
ジョーと自分の間に漂う煙と広がる香り。知っている香り。でも、ジョーのコトは知らない。

……知らないけれど……。
あの時、煙草を吸っていた男性達を見て、はっきりと感じた「この人じゃない」という感情が、今は湧いていないのだ。
(この人かもしれないって事なの……?)
それは、過去にジョーと会った事があるという事になる。そうなのだろうか。
だとしたら、どんな状況で? いつ? 
ジョーはどうして、その話しをしないのだろうか?
もしかして、喋ったりしたコトはないのかもしれない。
ただ、同じ場所にいただけで、その時に煙草を、とか。 
そうだ、アレンは知らないんだろうか?
………そもそも、やっぱり人違いなのかもしれない。
過去の存在しない記憶の水面に、突如生まれた「もしかして」という漣は、あっという間に渦になって、アルテミスを飲み込もうとしているようだった。アルテミスは、煙の向こうに見え隠れするジョーの青い目を頼りに踏ん張ると、意を決して話しかけた。
「あの、」
しかし、言いかけたと同時にドアが開いてスーツを着終えたアレンが来てしまった。
あぁ、遅かった…。絶好のチャンスだったのに、無駄にしちゃった…!
アルテミスは失望のあまり、俯いた。
 そんなアルテミスに気付かずに、アレンは走り終えたジョーに声をかけた。 
そして、アレンと話し始めたジョーが、アルテミスに言葉を掛ける事はなかった。

 その後、アレンがサーキットを走っている間も、ジョーはケン、あるいはメッカやニックの側に居て、一人になる事はなかったし、それどころかアルテミスを見る事も無かった。
 レース直前の最後の調整を男たちが終えるまで、アルテミスは密かにいたたまれない思いを抱いて、ジョーの後姿や、誰かと喋る横顔しか見られないまま、そこに居るしかなかった。
 そして、また謝れないままに、パーズンを後にする事になったのだった。

 アレンのバイクを、チーム・ジョーのメンバーは店先で見送った。メッカ達がピットに引き上げても、煙草を咥えたジョーは『リラかもしれない女』がアレンのバイクで遠去かるのを、一人で見ていた。薄紫の煙が、バイク街の青い空へ溶け込んで行った。

第11話  パーズンのジョー  END
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