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第8話  雨
 地球を飛び立ったブレイブアローは、順調に木星を目指して航行していた。まもなく小惑星帯を通り抜ける。今回の目的地、バイクのプラグを注文してある店は、木星のコロニー群にあった。人類の広げた居住地の、一番外れの場所だ。小惑星帯を境に外部太陽系となり、この先にはもう誰も居ないのだと思うと、どことなく寂しい気分になるものだった。

 小惑星帯をぶつからずに通り抜ける計算をレッブにさせている最中にコンタクト要請を受けた。相手を確認すると、ガボットだった。
「ああ、アレン! ようやく捕まった! 元気にしているかい?」
「ガボット、どうしたんです、こんなところまで」
ガボットの仕事は、グランレースが終わるまで暇を貰ってある。
「実は、悪い知らせなんだよ。私にとっても、非常に悲しく残念な出来事だ。クイーン・ジーナが亡くなった」
「え!」
アレンは絶句した。あのジーナが…、死んだ? 死などおよそ結びつかない人物じゃないか?
「バルナッダ船からの話では、ホーム・コロニーでの休暇中に、ごろつきから孤児を守って亡くなったそうだ。もう二十日以上前の事だ」
アレンが地球を飛び立った頃だ。行き違いからかガボットもなかなか連絡が取れなかったのだろう。
「それでアルテミスは?」
アレンの胸に嫌な予感が滲み出した。
「そう、私も君がお熱のあのボディガードのお嬢さんが気がかりでね。クイーン・ジーナの仇を打った後、行方知れずらしい」
すぐに予感は現実となってしまった。
「君を捜しながら、私も微力ながらお嬢さんを捜してみたんだが、どうやら内部太陽系にはいないようだ。そうなると、私にはどうにもできん。今は木星まで行く時間が取れない」
「ガボット、俺、ちょうどこれから外部太陽系に入るところですから!」
「そうか、すごい幸運だ! 良かった。きっと君がお嬢さんを見つけ出すと思えて来たよ、やはり君とあのお嬢さんは運命の相手同士かも知れんな。では健闘を祈る。私の方でも捜索は続けておくからね。また連絡するよ。あぁ、アステロイドベルト、気をつけて」
「ありがとうございました」
スクリーンからガボットが消えると同時に、アレンはレッブに命令していた。
「ハイパーネット、フルオープンにして、リンディアーナの情報を拾え!」
――制限時間は?
「無制限だ」





 空が青かった。見慣れたムーンベースの天井だ。
「アリー」
呼ばれて振り返ると、両親が立ってこちらを見ていた。両親の横には、同級生や学校の先生もいる。さらには、その横に立っているのはライラ。ライラックの小枝を持って笑っている。
「ライラ…!」
ライラの左隣に立っているのは……。
「ジーナ?…」
ジーナはアルテミスに向かって微笑んだ。そして、ゆっくりと、向こうへ歩き出した。
急に、嫌な気分になり、アルテミスは叫んだ。
「だめ、そっちに行かないで」
しかし、みな、楽しそうに歩いて行く。追おうとしたアルテミスの足は、何故か少しも動かせない。
「行っちゃダメ! 行かないで、私を置いて行かないでー!」
泣き叫ぶ彼女の涙が、大きな丸い粒になって漂う。
青い青い空から、大きな黒い塊が爆音と共に落下して来た。
「いやぁぁぁぁぁぁーーーー」
アルテミスの絶叫の中、黒い塊は懐かしい人々を潰して消えた。
動かない足元へと崩れ折れたアルテミスは、胸が千切れるほど泣いた。
…やがて、泣き声がなくなる頃、アルテミスの顔からは、悲しみを始め全ての感情が消えていた。


 艦長席で目覚めたアルテミスは、不快な汗でベタベタしていた。
――アリー、大丈夫?
リンが心配そうに声をかけて来た。
――ベッドできちんと休んだ方がいい…。
だるそうに彼女は返事をした。
「大丈夫よ。…あれは、カリスト…? 丁度いい、燃料の補給に降りるわ」
――了解。
 リンディアーナは木星の第4衛星カリストの移民ベースへと降下を始めた。




 
 煙草の煙がもうもうと立ち込め、店内は視界が利かなかった。空気もおよそ良いとは言えない。そんな中で、酔った客は大声で喋り、怒鳴り、笑っていた。
 アルテミスもすでに酔って、カウンター席で潰れていた。
こうして店で酒を飲むのは初めてだった。
止まりかけのコマみたいにぐるぐると回る頭で、彼女はぼんやりと思った。
(飲みに行く約束…したのに……)
酒を楽しんでいる客が時折ジーナに変わる。店のあちこちにジーナがいた。
 ふと、鼻先を甘い香りが掠めた。あの煙草だ。
ふらつく頭の中で、声がする。
「もし、また会えたら、運命だって受け入れる」
「今度会えたら、おまえはオレのリラだ」
唇に重なるジョーの唇…。のはずが、全く違う感触を唇に受けて、そのあまりの不快さに頭がはっきりした。
見知らぬ男が目の前にいた。手にしていた煙草だけが、ジョーと同じだった。
アルテミスは容赦なく男を突き飛ばし、ガタガタと椅子を押して、店の外へ出た。

 あいにくと、ウエザープログラムは雨だった。小振りではあるが、傘を差さずにいると、すぐに身体はしっとりとしてしまう。上を見上げて雨を顔に受けながら呟いた。
「奇跡なんて起きないじゃない……。…バカ……」
よろよろと雨の中を歩き出すと、背後からアルテミスの腕を取りながら、数人の男共が声をかけて来た。
「ちょっとちょっと大丈夫〜? どっかで休んで行こうよ」
「いいとこ知ってるからさ」
アルテミスは掴まれた腕をぶうんと振りほどいた。その反動でよろめくと、再び腕を男どもに取られた。
放せと言うのも億劫だ。腕を引き抜こうと身体をよじる。じれた男達は声を荒げた。
「下手に出てりゃいい気になりやがって!」
男が大きく手を振り上げた。が、その手はアルテミスに触れる事無く、あらぬ方向へとねじ上げられた。何事かと背後を振り向いた男は、何も確認できぬ内に殴り飛ばされた。
「なんだ、てめえ!」
もう一人の男が言いかけたが、最後まで言えずに殴り倒され、水溜りに無様に突っ伏した。
残った男達は、倒れた仲間を引き摺るようにして、その場から走り去った。

「アルテミス!」
自分を呼ぶ声に、アルテミスはぼぅっと顔を上げた。両肩をがしっと掴まれる。睫についた雨粒が目に入りぼやける視界の中、目の前にいるのがアレンだと判別できたアルテミスは、小さな小さな声で「アレン」と呟いた。
 変わり果てた姿の彼女から、自分の名前を聞いたアレンは、思い切り彼女をかき抱いた。
「捜した…!……捜したんだ……!」
冷たい雨の中、アレンは長い間アルテミスを抱き締めていた。





 雨の降りしきる居住ドームから、エアポートドームへ移動したアレンは、車からアルテミスを抱え降ろした。彼女は虚ろな表情で、アレンのなすがままだった。

 ブレイブアローのバスルームへ直行すると、熱いシャワーを勢い良く出した。室内はみるみる温かな湯気で満たされて行く。
 雨に打たれて、二人とも身体の芯まで冷えていた。アルテミスは血の気の失せた顔で、紫色の唇だけが僅かに寒さで震えていた。
「温まって」
アレンは、彼女の背をそっと押しやり、バスルームの中へと促した。シャワーヘッドから流れるお湯の、温かい飛沫が霧のように彼女の髪に付き始めたが、彼女は一向に動かなかった。
 アレンは仕方なく、服のままの彼女をシャワーの下まで導いた。身体が温まれば、思考も戻って来るかもしれない。

 その判断は効を成した。頬に赤みが挿す頃、アルテミスはゆっくりと顔を上げた。
そのまま、動かした視線は、アレンの顔で止まった。
「アルテミス…!」
「アレン…」
はっきりと、アレンの名を口にした。そして、あたりに視線を泳がせる。
「雨に濡れて、冷え切ってたから、手っ取り早く温まってただけだよ。代えの服を置いておくから」
そう言って、アレンはバスルームを出ようとした。その背中にアルテミスは弱々しく尋ねた。
「ここは…どこなの…?」
「俺の船の中」
「アレンの船…? どうして私…」
「俺が連れて来たからだよ」
アレンはちょっと申し訳なさそうに言った。
「…どうして…?」
「捜して、見つけたから」
 
 ガボットに言われた後、小惑星帯を抜けたアレンは、50以上あるコロニーより先に、木星の第4衛星カリストの移民ベースを捜す事にした。移民ベースもカリストの表面に10基程散らばっており、全てのベースを片っ端から捜した。その最後のベース、アルカスベースのエアポートドームで、リンディアーナを見つけたのだった。

 まだ弱々しいが、それでも意思のある瞳をみて、アレンは心底嬉しかった。このまま彼女の心が壊れてしまったら…という恐怖も遠去かった。
 アレンは、早く彼女を安心させたくて、それが安心になるかどうかは分からないが、なると信じて、こんな状況ではあったが彼女の真正面から言った。
「アルテミス…。俺と一緒に地球に行こう」

 彼女は何も言わずに、アレンを見つめていた。
アレンは気力を振り絞って、もう一度言った。
「地球へ行こう。心配ないよ。そばにいるから」

アルテミスはアレンを見据えたまま、かすれた声で言った。
「……行かない…」
すんなり承知するわけはないと覚悟はしていたので、アレンには想定内の返事だった。
「アルテミス、」
「行かない!」
言いながら、彼女は後ずさった。
「アルテミス、」
「来ないで! 私あの時も言ったでしょ、地球には行かないって! アレンのコトは好きじゃないって!」
晩餐会の夜、最後にした会話の事だ。
 こうして面と向かって言われると、どんなにジーナに「あの子は天邪鬼だよ」と言われていても、心が折れそうになる。彼女は確かに天邪鬼かもしれないが、この言葉だけは本心なんじゃないのか?と疑いたくなる。
 
 それでも、諦めるわけにはいかないので、アレンは苦しい本音をぶつけた。
「俺は好きだ、愛してる」
彼女は短い悲鳴をあげて、口元を覆ったり、耳を塞いだりしながら、
「だめだめ! 違う! 違う! 嘘だって言ってアレン!」
アレンは素早く近寄り彼女を抱き締めた。
「アリー…!」
「そんなふうに呼ばないで!」
堰を切ったようにアルテミスの目から涙が溢れた。
アレンの腕の中で彼女は抵抗した。が、彼に背中や頭をさすられている内に、力尽きてしまったのか、
「愛してないから……お願い…神様…」
それだけ呟き意識を失った。



 ぐったりした彼女を抱きかかえながら、バスルームでアレンは途方にくれた。
このままではどうしようもない。頬を軽く叩いて呼んでみても、彼女は目覚めなかった。

 アレンは彼女の服を脱がす事にした。
―――もし、意識が戻った彼女が怒ったら、あとは自分でするよう言って、俺はここから退散するだけだ。
 腕を伸ばして、バスタオルを取ると彼女にかけた。そして、彼女を背中から抱くと、服を脱がし始めた。

 濡れた服は身体に張り付いてなかなか脱げないし、雨とお湯を吸って重かった。
それらをアルテミスから剥がしながら、アレンはジーナの言葉を思い出した。
―――自分では脱ぐことが出来ない、鋼鉄の冷たい鎧。
ジーナの言葉を一つ一つ噛み締めた。アレンへのアドバイスのようなあの言葉達は、実はアルテミスへのジーナの本音だ。アルテミスを慈しんで見守り育てて来たジーナの、封印していた本音だったに違いない。
(今、こうして濡れた服を引き剥がすように、鎧も俺が引き剥がしてやれたら…!)
 
 ジーナの死が彼女にとってどれだけの事だったか察しが付く。
 思いがけずに二度目の再会をし、ランチをしながら過ごした午後も、晩餐会のディナーの時も、彼女はよくジーナの話をした。直接「大事な人」「大好きな人」などと表現せずとも、それらが根底にあろう口調だった。
 アルテミスは、ジーナを護り切れなかったと悔いただろう…。いや、今もその後悔の只中にいる。
 彼女の絶望を思い、アレンは胸が潰れそうだった。彼女が可哀想で切なくて、愛おしくてたまらない。
 背後から抱き込んだ彼女の上半身から、濡れた衣類を引き剥がし終え、ずり落ちたバスタオルで包み直そうとしたアレンは、彼女の腰を横切る大きな傷痕に気付いた。晩餐会のドレスではぎりぎり隠されていた位置に、こんな傷痕があったとは…。何年も前だと分かる古傷。一体何歳の時にこんな大怪我を…。そして左腕にも傷痕を発見した。腰の傷と同じく古い。晩餐会の時は気付かなかった…。それはココの気配りで飾り帯をしていたからだったのだが、アレンはそこまでは覚えていない。
 胸がざわめきだした。左腕に抱えていた彼女をそっと仰向けにする。綺麗な白い胸がアレンの目の前に現れたが、やはりその白い胸に腹に、銃や剣で付いたであろう痕が浮かんでいた。
 アレンの身体中にも、同じように傷痕はたくさんあった。でも、と思う。
俺は男だ。痛みさえなくなればおしまいだ。しかし彼女は違う。痕が残るなんて、どんなに、どんなに心が傷ついただろうか…
 アレンはこみ上げてくる物を必死に押さえながら、彼女をバスタオルで包み、黙して語らぬ顔を見つめた。閉じた瞼に、額の帯から水が滲んで流れていた。そういえば、いつも彼女は額に帯をしていた。ドレスアップの時も煌びやかな美しい帯だったが、額は隠したままだったと、今更アレンは気付いた。
見られたくないから、じゃなかろうか…とアレンは思った。
(ジョーが似たような理由で額に帯をしていたはずだ…)
でも、濡れた帯をこのままにしておく訳にもいかない。アレンは、彼女の頭から帯を解いた。
彼女の白い額に深く刻まれた傷痕を見た瞬間、押さえ切れずに嗚咽が漏れた。
彼女を強く強く抱き締めながら、アレンはむせび泣いた。





 ゲスト用のベッドの中で目覚めたアルテミスは、自分を覗き込んでいるアレンを見つけると
「アレン…」
と囁いて、ふふふ…と微笑んだ。 
「起きる時間?」
アレンは、さっきまでの彼女からは想像もできない笑顔に心底驚いたが、それを上回って、彼女の言葉に驚いた。
彼女の言葉は、ムーンベース語だったからだ。
アルテミスは、ムーンベースの生き残りだったのか…? あの狂乱の月を生き延びた一握りの脱出者…?
 古い神話の中にアルテミスという名の月の女神がいたので、何気なくムーンベース出身なのかと尋ねた事があったが、その時は違うと言っていた。
「お腹すいちゃった?」
でも彼女の口から出るこの言葉は、ムーンベースで発展した言葉だ。
「いや…、それより、気分はどう…?」
アレンは、ムーンベース語で話しかけてみた。
「気分? ん〜、まだ寝てたい気分。嘘々、起きる」
アルテミスは両手をアレンに向けて伸ばした。起こせと言ってるのだろうか? まさか…と躊躇していると、アルテミスは腕を振って催促した。アレンは訳が分からぬまま、彼女に腕を差し出し、引き起こした。

 何が何だか、さっぱり分からない。アレンは、拒絶とは正反対の彼女の行動にドキドキしながら、ただただ、様子を伺うしかなかった。 
 彼女の顔には目覚めてからずっと…ずっと途切れる事無く笑みが浮かんでいた。その笑みが、初めてすぅ…と消えた。
「…ここ、どこ?」
さっきもバスルームで教えたが、きっと忘れてしまったのだろう、同じように言った。
「俺の船の中だよ」
「船の中?………どうして船になんて……」
彼女の言葉は小さく消えた。目だけがぐるぐると動いている。何かと戦っているような、異様な雰囲気だ。
「どうした、アルテミス?」
「……、それ、私の名前?」

 彼女は自分の名前も、今までの人生も、何もかも忘れてしまっていた。
彼女が唯一覚えていたのは、意識を失う刹那に、何を犠牲にしても守りたいと願った命、アレンの顔と名前だけだった。


 何も思い出せないと怯えるアルテミスの手を握って、
「疲れているだけだよ。ゆっくり休めば思い出すから」
となだめた。はたしてそううまく行くのかはわからないが。
ソルとルナがアレンの肩越しに飛んで来て、アルテミスの膝の上に下りた。
「ソル達も、一緒に乗ってたのね」
「ソルが分かるのか?」
思わずアレンが言うと、彼女は二匹をじっと見て、
「…ソルとルナ。この子達は森で…。何処の…? …とにかく、どこかの森で……。名前はあなたが付けた。私達のペットだわ。……違う?」
(私達……)
アレンはその表現が嬉しかった。
「その通り。ほらだんだん思い出すじゃないか」
安心させたくて、笑顔で言った。
「この船には、何のために乗ったんだっけ…?」
申し訳なさそうにアルテミスは訊いた。アレンは返答に困った。どこからどう話したいいのだろう? 焦った挙句に、一番直結的な原因を口走った。
「雨が降ってて…」
「雨…?」
その先が続かなかった。ちょっとだけ考えて、アレンは覚悟した。
「俺は、アルテミスを捜してた。捜して、捜して、ようやくここで見つけた。雨の中、びしょぬれで冷え切ってたから、俺の船に連れて来たんだ」
今度はアルテミスが黙ってしまった。
――捜してた。
――連れて来た。
言葉を選びながら、アルテミスはゆっくりとアレンに尋ねた。
「私、一人で何をしてたの…?」
「ごめん、それは俺にもわからない。…多分、燃料補給かな…」
「…何の?」
「自分の船の…」
また、しばらくアルテミスは黙り込んだ。アレンの言葉をパズルのように一生懸命並べてみたが、どうしても不可解な絵が見えてくる。
「……あなたはアレン……よね?」
「そうだよ…」
ここは間違っていない…。と言うことは……。
「…あなたと…私は…」
アレンは言葉に詰まった。重い沈黙が苦しい。絶えられなくなったアルテミスが精一杯の虚勢を張って、
「どんな友達……?」
と言った。
 
 何も言ってあげられなかったくせに、彼女の使った友達と言う言葉が、アレンには辛かった。友達なんかじゃないと否定したい。
 しかし、気を失う前のあの拒絶を思うと、恋人などとは言えるはずもない。
「アルテミスは…俺にとって、大事な…、本当に大事な友達だ…って、俺は思ってる…」
苦しい中、それだけ搾り出した。
「…ちょっとだけ、一人にして。大丈夫だから、お願い…」
どうしたものかと思ったが、本人が強く希望したので、密かにレッブに見張らせる事にして、アレンはゲストルームから出て行った。





一人になったアルテミスは、押し寄せる絶望に抗いながら、必死に思い出せる限りの事を浮かべてみたが、ほんの数分の分しかない。
(目が覚めて、アレンの顔があって…見慣れた顔だった。何もおかしいと思わなかった。
でも、違うらしい……。アレンと私は…一緒にいたわけじゃない…。
友人……。夫でも恋人でもない……。友人……。
どうして友人なだけのアレンの、名前と顔を覚えていたの…!)
アルテミスは絶望に取り囲まれて、ベッドに突っ伏した。





 アレンは、自室の窓からエアポートドームを見ながら、途方に暮れていた。
どうしてこんな事になってしまったのか…! 記憶喪失だなんて…!
 でも…。俺の顔と名前は忘れていなかった…。これもどういう事なんだろう。
最後に一緒にいたからか…。しかもあんな状況で…。

 痛烈な拒絶。思い浮かべる度に心がひび割れそうになる。

それなのに、目覚めた時の彼女はどうだ。まるで別人のような…。記憶を無くしたと言っても、彼女は彼女だ。その彼女が…甘えたように腕を差し出して、起こせと要求して…。
その時のアルテミスを思い出すと、たまらなく嬉しい。不謹慎だと承知だが、顔がにやけてしまう。本当に嬉しかったんだ、あんな風に甘えられて…。欲しく欲しくて仕方ない仕草だ。
 思わず妄想が暴走しそうになって、アレンは自らの思考を強引に曲げた。
……彼女の記憶を取り戻すには…。
 思い出すきっかけになるような事実を、たくさん提供した方がいいのだろう事は素人也にも想像がつく。
 だが、今この精神力やら体力やらの彼女に、ジーナの死や、高額賞金付きの指名手配犯である事などは、どうしても話す気になれなかった。
 今、しなければならない事は、何よりも彼女が安心してゆっくり休める環境を整えてやる事だ。それなら俺にもできるはずだと、アレンは思った。「できる」じゃない、「する」んだ。
 
 とりあえず、このまま…つまり彼女も乗せたまま、木星コロニー群の中にあるナターシャに向かう。ワッチのプラグは必ず地球に持ち帰らなければならない。皆が待ちわびている。すでに航行スケジュールから一週間以上遅れている。 ACS搭載のリンディアーナは、自動操縦をプログラムしてやれば、ブレイブアローの後を付いてくる。
 そして、彼女の記憶がこのままなら、地球まで連れて行くまでだ。

 そう決めた時に、耳に差し込んだクリップからレッブの報告が入った。
――アレン、アルテミスがゲストルームを出た。Eブロック方面へ向かって歩行中。





 レッブの報告を受けながら、アレンは程なくアルテミスを捕まえられた。
ゲスト用の部屋着は男物なので、袖も裾も長かった。だぶだぶとした服の中で、彼女の身体は泳いでいるようだ。アルテミスが落ち着いたら、リンディアーナに衣服を取りに行った方がいいだろうかと、アレンは思った。まさかリンディアーナの中に、この船は海賊船である、とか、私は指名手配犯である、なんて証拠はないだろう。
「あの…」
相変わらずムーンベース語で彼女は言った。共通語は記憶と一緒に無くしてしまったのか。
「助けて頂いて、ありがとうございました。…とってもお世話になって……なのに、私、何も覚えてなくて……、あなたの事も…」
「……覚えてたじゃないか」
……それは捻じ曲がった記憶。アルテミスは目を伏せた。
「ごめんなさい…」
「謝るような事は何もないよ?」
その温かい口調に、アルテミスは思わずアレンの顔を見た。
(優しい人…。どうしてこの人は、ただの友人なんだろう…どうして特別な人じゃないの…)
一瞬、決意が揺らぎそうになったが、何とか堪えてアルテミスは告げた。
「私、自分の船に戻ります」
アレンは驚いた。
「戻って、どうするんだ?」
「……どうって……、」
彼女が船を動かせるとは、とても思えない。いかにリンディアーナが優秀なACS搭載艦だとしても、今の彼女には操れないだろう。そもそも船の存在自体、覚えていなかったじゃないか。
「…だって、私、そこにいたのよね…」
「今はここにいたらいいじゃないか。 せめて記憶が戻るまで、ここで……!」
「これ以上、迷惑を――」
「迷惑なんかじゃない!」
つい、声を荒げてしまった。アレンは落ち着くために、深く一息、吸い込んで、
「ここにいるのは嫌?」
と訊いた。嫌と言われたらどうしよう…という不安は押し殺して。
 彼女は目を伏せて申し訳なさそうに、首を横に振った。嫌じゃないと言う返事だ。
「じゃ決まり。さぁ、部屋に戻ろう」
歩み寄りかけて、アレンは彼女が裸足なのに気が付いた。
「部屋の外を裸足で歩いちゃだめだよ。怪我するかもしれないから」
そう言いながら、アレンはアルテミスを抱き上げた。
「お腹すいてない? 何か食べよう」
歩きながら、アレンは色々と、でも穏やかに話しかけた。抱き上げられている彼女が、恥ずかしさで居たたまれなくならないように。

 アレンの優しさが痛いほど胸に沁みた。
彼にとって、私はただの友人(大事なって言ってくれてたけど)だけれど、私は違う…。はっきりわかる。
―――アルテミス、あなた、彼が好きだったんでしょう…?
どんなふうに出会って、どんなふうに惹かれたのか。これからゆっくり知って行こう…。そして、大事にする。私なりに、アレンの事を大事にするから…。

 アレンの胸に頭を預けたアルテミスは、ふと気付いた。
「アレン、煙草、変えたの…?」
「煙草…? 変えてないよ。なんで…?」
「ううん…勘違い」
……もっと、甘い香りだったような気がしただけ…。
その香りは、はっきりと思い出せた。
じゃぁ、誰の煙草の香りなんだろう……?
アルテミスは思ったが、まったく何も浮かばなかった。
第8話  雨  END 

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