第5話 Q & S | ||
「なるほどね、公園のベンチで食事を、ね。それから?」 「……しばらく…公園の中を歩いて…彼女が疲れたと言うので、車で船へ送り届けました」 すっかり夜の照度に変わったスカイビジョンに浮かび上がる白亜の美しい建物。招待客を迎えにやったカセーグ社の車達が引っ切り無しに滑り込んでは、着飾った人々を降ろして行く。階段を数段上がったエントランスで、その客人達を笑顔で出迎えながら、ガボットは斜め後ろに立つアレンに、昨夜の経緯を報告させていた。 アレンは、ドクドクうるさい鼓動を悟られないよう努力しながら立っていた。護衛とはまったく無関係な努力だ。数百人もの人々が集まる晩餐会での警護は、本来なら一大任務である。が、ガボットのこの白亜の宮殿は、壁という壁にカメラが埋め込まれ最新鋭の警護システムが施されている上に、ガボット自信が優雅なタキシードの下に防弾シャツを着こみ、さらにはバックル部分からバリア波が発生するベルト型簡易バリアで全身を包んでいたので、今夜はアレンの出番は限りなくなさそうだった。むろん、それに越したことは無い。 いつもと違い、洒落たスーツの着用を命じられていたアレンは、護身武器の忍ばせ箇所がいつものスーツと違うため頭の中で何度も確認した。―――その頭の中には、アルテミスがずっと居た。ガボットに尋ねられているからではない。彼女から昨夜遅くに電話が来たのだった。 昨夜。ソルもルナも機嫌良く、たくさん食べ、何も問題なく仲良く浮いていた。彼女に電話をしようにも、二匹の状態報告だけでは30秒で終わってしまう。他にどんな理由があるかと必死に考えながらベッドに転がっていた時、突如手の中で電話が振動した。モニタに彼女の名前を見て、頭の中にぼんやりあったこじつけ達はすっ飛んだが、とにかく出た。 ――が、彼女の声は沈んでいた。 昼間、良く笑っていたあの顔が、俺の頭から離れないと言うのに。 ソルの様子を訊いた後、彼女は言いにくそうに言った。 「明晩の晩餐会の…注意が必要な箇所があったら教えて欲しいの…」 ジーナの護衛でアルテミスも晩餐会に来る。事前に情報収集って事か。真面目なんだな。いい加減な人事が嫌いなアレンの中で、アルテミスはますます株が上がる。 「ガボットの宮殿は要塞みたいなもんだから、まず安心していいよ。来賓の武器の所有は禁止だし。ボディガードは銃刀チェックを通ってもらうから。でも、そうだな、ジーナには簡易バリア張っといて、あとはアルテミスが小さな銃一丁持ってれば充分だよ」 「…銃…よね…」 「…? どうした?」 様子がおかしい。彼女はしばらく黙っていたが、 「どうもありがとう。とても参考になったわ。じゃ、明日…」 そう言って、電話を切ってしまった。 アレンは、切れた電話を見つめて、どうしたものかと思ったが、切られた電話をこちらから掛け直す事は出来なかった。 「船って、クイーン・ジーナの? お嬢さんの?」 「彼女の、です…。船の中へ彼女が入るのを見届けて帰りました」 「え…」 ガボットはアレンを振り向くと絶句した。 目の前で固まっているガボットに、ただならぬ空気を感じ、アレンは不安になった。 「…何か、まずかったですか…?」 「アレン…」 ガボットは、金縛りから解けたように脱力して重い口を開いた。 「君はいい男だ。ルックスがいい上に、仕事ぶりも申し分ない。勇ましい戦いぶりも同じ男として惚れ惚れする。完璧だ。しかし…女性の扱い方に関しては、まだまだのようだな」 最後の方のダメ出し部分は囁いた。アレンは嫌な汗が額に滲んだ。 「アレン。クイック・アンド・スローを知っているかな?」 「…すみません、わかりません。どんな戦法ですか? あ、空爆?」 「―――確かに、戦と言えなくもないが……。ダンスだよ。素早く、つまり強引に攻めて、そしてゆっくりと優しく包む。ダンスのように愛も踊るんだよ」 「愛?」 突然のガボットの言葉に、アレンはオウム返ししてしまった。愛。真正面から聞くのは初めての言葉だ。 「惚れてるんだろう?」 口から飛び出すかと思うほど心臓が跳ね上がった。 「な、何を言い出すかと思えば」 うまく笑えているだろうか? 引きつったりしていないだろうか! 「照れんでもいい」 ガボットはモテる。アレンは側で散々見て来た。上品な身のこなし。柔らかい物腰。ゆったりと流れる面白い会話。徹底したレディファースト。いい気分にならない女はいない。いや、男にもガボットは慕われていた。あぁ、俺もその一人だよな、とアレンは考えていた。ガボットの事は、仕事の関係以上に思っている。 「照れてなんていませんよ、違いますって」 何とかさらりと言った。語尾が消えそうだったが。 「そうか…。私の思い違い?」 「はい」 「ふうん。分かった。なら、心置きなく口説こう」 「だめです!」 考える前に言葉が飛び出していた。ガボットは、目の前でゆっくりと微笑んだ。 (だめですって、何だ? 何で俺、そんな事言ったんだ?) 真っ白な頭をフル回転させてガボットに食い下がった。 「あの、だって、ジーナの、取引相手のボディガードですよ、そんな、そんな事……」 「分かった、分かったから、アレン、落ち着いて。確かに美しいお嬢さんだが、娘ほども歳が離れている。いくら私でも……」 ガボットはくくくっと面白そうに笑った。 その時、また1台、車が滑り込んで来た。ガボットはアレンの胸をぽんと叩き、 「ご到着だ」 と言った。ガボットの視線の先を追ったアレンの目に、今まさに車から降り立つ白い人影が映った。それは、銀色のドレスをまとったアルテミスだった。アルテミスは再び車の方へ向き直り、車内のジーナへ手を差し出していた。 エントランスの灯りに照らされて透き通ったプラチナブロンドは、頭の上へと一旦まとめられ、幾筋にもなり肩に背に垂れていた。露になった細いうなじから背中にかけて、真っ白な肌が光っていた。銀色のドレスは…どうしてなのかアレンには理解できないが、きらきらと輝いていた!本当にきらきらと。まるで彼女は銀色の光の中に立っているようだった。 「ほほう、美しいじゃないか! なぁ、アレン。……」 棒のように突っ立ったままアルテミスから目が離せず、動けないアレンの肩を叩いて、ガボットは言った。 「ほら、しっかりして。いいかね、アレン、良く見ていたまえよ…」 ガボットは、するすると階段を駆け下り、大きく両手を広げながら、ジーナの元へと歩み寄った。 「おお、クイーン・ジーナ! 何て美しいんだ! どうぞ、私のためにその美しさは輝いていると言って下さい」 「まぁ、キング・ガボット…! お招き頂きまして光栄です」 ジーナは黒いドレスを優雅にかつ、貫禄たっぷりに着こなしていた。ゴールドのアクセサリーが眩しく光っている。 ガボットは、ジーナをエスコートしながら、階段を上がる。 「今夜は帰したくなくなってしまいそうだ」 ジーナは充分大人なので、社交辞令と受け止めるが、なかなかくすぐったい褒め言葉だ、と気分がいい。ガボットと一緒に階段を上がりながら、アレンに辿り着いたジーナは声をかけた。 「こんばんわ、アレン。昨日はうちのアルテミスがお世話になったわ」 ジーナの声に、アレンは我に返った。ずっと…ずっとアルテミスから目が離せなかったので、ジーナがすぐ目の前に立った事に気付かなかった。 「いえ…」 とりあえず返事をしたももの、言葉が続かない。車から降りてから一度も顔を上げずに、伏目がちな視線で階段を上がって来た彼女が、ガボットたちのすぐ後ろへ着いて、静かに立っていたからだ。 「お嬢さん。あちらで銃刀検査を受けて頂かねばならない。不快な思いをさせて申し訳ないが、どうか御許し下さい。アレン、ご案内して」 「え…」 「私の護衛はいらん。ここは私の城だ。さあ、ジーナ、こちらへどうぞ」 ジーナは何も言わず、目だけで、アレンにアルテミスを託した。そして二人は人混みの中へと消えて行った。 「…よう」 アレンは、アルテミスに初めて声をかけた。緊張する。今夜の彼女は綺麗過ぎる。しかし「よう」とは…彼女は女性だぞ…やり直したい。密かに打ちひしがれていると、 「こんばんわ、アレン。昨日はご馳走様でした」 アレンを見ることはせずに、顔を伏せたまま、彼女は挨拶をして来た。 「あ、大丈夫かな、人混み、昨日の比じゃないし、」 「仕事だから」 ぴしゃりと言い切る彼女は、やはりこちらを見ないで俯いている。 何でだ。何で顔を上げない? 顔を見せてくれない? 「なぁ、何か怒ってる?」 「銃刀チェックはどこ?」 「あぁ、それは…こっち…」 するべき事はしないと落ち着かないのだろう。とアレンは思い(不正解だが)、彼女を奥へと連れて行った。 女性用検査室からアルテミスが出て来るのを、アレンは待っていた。大勢のボディガードたちが入って行く。皆、一様に晩餐会用の井で立ちだった。ボディガードなのか主人なのか、見分けるのは困難だ。 アルテミスが出て来た。ドアを背に短く溜息をついた。アレンは歩み寄った。 「銃だけにしといた?」 「…ええ。アレンのアドバイス通りに。ありがとう。じゃ私、ジーナの側に行くわね」 行きかけた彼女の腕を、アレンは掴んだ。 「そっちじゃないよ、こっち」 え、と振り向いたアルテミスは、初めて、今夜此処へ来てから初めて、アレンと目を合わせた。その瞬間をアレンは逃さなかった。 「なぁ、何か怒ってるなら言ってくれよ。俺、気付けなくて悪いけど、言ってくれれば直せるし、その、謝れるからさ」 じっとアレンの顔を見ていたアルテミスは、白い頬がみるみる赤く染まって行った。アレンでさえ気付く程に、ふわりと色づいて行く。 (力、強かったか…) 頬の色着きをそう解釈したアレンは、慌てて腕を放した。 アルテミスは溜息と共に力なく顔を伏せて、ぽつりと喋った。 「違うわ…緊張してるの…。こんな格好で、護衛なんて初めてだから……。ごめんなさい。何も怒ったりしてないわ。……ジーナには、怒ってるけど…」 「ジーナ?」 「昨夜、帰って来たと思ったら、すごい剣幕でドレス着ろって…」 「あぁ、ガボットの晩餐会は、いつもこうなんだ。どこのボディーガードもまず例外なくこんなカッコさせられてるよ」 アルテミスはそっと顔を上げて周りを見渡した。確かにそのようだ。どこにも機能優先の地味な格好をした者はいない。 アルテミスはアレンを見た。目の前でアレンは、明暗の織りが入った濃紺地の、落ち着いたデザインの、しかしちょっと洒落たスーツを着て立っていた。昨日の黒いスーツ姿と全然違う…。初めて会った時と、木登りをした時は、ボサボサとしていた髪。気取らない感じが良かった。そして昨日は整えられていた。仕事用に。今夜はさらに、前髪はきちっとなでつけられ、はらりと数本が額に落ちていた。それは深い緑色の瞳に影となって、憂いを醸し出していた。 誰が見ても素敵だ。アレンの姿を認識した途端、アルテミスは脈がとくとくと早くなり出した。そんな気持ちを誤魔化すように一気に喋った。 「でも、アレンは…、いざって時にばっと動けるじゃない。私は無理よ。足が開かないし、開いたって、こんな靴で走れっこないもの」 そう言って彼女は、ひょいとドレスをつまんで引き上げ、足を見せた。足先には、すらりとしたシルエットの靴が、まるでガラスで出来ているかのようにキラキラと光っていた。 初めて見る、彼女の足の肌。膝からすらりと伸びた肌色の足。その先に光る華奢なヒールの靴。例えようもなく綺麗だと思うものの、どう言葉にしていいのかアレンには分からない。何も言えないでいると、 「いざとなったら裸足で走るけど、でも、とにかく、こんなんじゃ守り切る確信が持てないって言ったのに、ジーナったら取り付く島もなくて」 また溜息をつきながら彼女は言った。 (あぁ、そうか、不安なんだ!) 昨夜からの彼女の不機嫌な態度は、自分に対しての怒りではなかったと、やっとアレンは辿り着けた。大きな安堵感に後押しされて、アレンは話し出した。 「大丈夫、昨夜電話でも言ったけど、ここはガボットの要塞みたいな城だから、まず何も起きないよ。安心していい。俺もジーナの護衛をするよ。彼女の気に触らない距離から。確かに俺の方が動きやすいしな。でも……、良く似合ってるよ、ドレス」 言えた。ガボットの比ではないが、でもこれは本心からの言葉だ。盛り上げるためでも、社交辞令でもない、心から溢れ出した賞賛の言葉だった。彼女の胸に響かないはずはない。 「………。ありがとう…」 アルテミスは真っ赤になりながら、俯いて礼を言った。 そして二人は、広間へと入って行った。 いくつも置かれた丸いテーブルを囲み、人々はグラスを手に会話に興じていた。アレンとアルテミスは、壁に沿って移動しながら、ガボットとジーナを捜した。程なく中央に位置したテーブルに二人の姿を発見し、しばらく黙視する事にした。 大きなステンドグラスの窓を背に、言葉も交わさずに立っていた。目の前の煌びやかな人混み。人混みは苦手な筈だが、何故だろう、今夜の人混みは悪くない。悪くないどころか、正反対な感じがする。仕事でこの場にいるのに、うっかりそれを忘れて、気持ちがとろりとしそうな、そんな感覚だ。 「失礼」 静かな声が、アルテミスの横でふいにした。振り向くと、男性が立っている。 「もし宜しかったら、あちらで私とご一緒して頂けませんか」 何を言われているのかアルテミスは分からず、きょとんと見つめてしまった。すると、 「申し訳ない、私の連れなので」 と、肩越しにアレンの声がした。彼女が振り返ると、彼は声を掛けて来た男性に会釈していた。男性の方も軽く頭を下げ、人混みの中へ消えていった。 「アルテミス」 囁きながら、アレンは左腕を曲げて、彼女にそっと促した。 「虫除けに」 アルテミスはやっと理解した。 (そうか、パートナーのいる振りをすれば、今みたいに余計なお誘いは来ないって事ね。ましてや、いちいち「いえ、私はボディーガードの仕事で来てるんです」と、要らぬ情報を公開する必要も無い。名案だわ) アルテミスは、アレンの腕にそっと自分の右手を掛けた。 掛けたはいいが、恥ずかしい。 (アレンの機転に感謝しよう。アレンの友情に感謝しよう!) そう思ってはみるものの、恥ずかしい気持ちは消えてくれない。 アルテミスは視点を変えた。 (男の人と腕を組むなんて初めてだもの。恥ずかしくてもいい。でも、このまま逃げ出さずに立ち続けていられます様に!) ずっと静かに流れていた音楽が、ゆったりとリズムを刻み始めた。お喋りに花を咲かせていた人々は、一組二組と手を取り合って、広間の右奥へと移動し始めた。見ていると、ガボットとジーナも手を取り合って歩き出した。見失っては大変!と、つられてアルテミスも一歩踏み出した。 「ダンスだ」 「え?」 アレンに言われて、アルテミスは足を止めた。ダンスが始まるらしい。人々はどんどん、広間の奥へと集まって行く。ガボットとジーナはもう見えなくなってしまった。アレンはアルテミスの不安を察して、人々に混ざり、人混みの中へと進んで行った。 人混みの奥に、ミニオーケストラのコーナーがあり、その前にガボットとジーナは居た。「あそこにいるよ」 アレンに言われ、アルテミスもようやく二人の姿を捕らえられた。 ただ…二人の姿を視界に入れたければ、これ以上距離を置けない。どうしたものかと考えている間に、三拍子の曲が流れ始めてしまった。人々は一組残らず、お互いのパートナーと向かい合い、手を取り合い、ゆらりゆらりと揺れ始めた。 そんな中にぼさっと突っ立っているのは、邪魔で申し訳ないし(すでに何組かに、どん!とぶつかられて、怪訝な顔をされてしまった)悪目立ちしてしまう(そもそも、今夜のアレンときたら、とにかくカッコ良かったし、アルテミスも目を奪われるに充分過ぎる程美しかったのだ)。 その時、耳にはめ込んでいたガボットとのプライベートコールから声がした。 「アレン、クイック・アンド・スロー!」 慌ててガボットを見ると、アレンにウィンクを飛ばして来た。しかし、それ以降は素知らぬ風で一度も顔をこちらには向けなかった。 アレンは意を決して、アルテミスに向き直った。驚いて自分を見ている彼女の手を自分の肩に乗せ、もう一方の手を取り、自分の手はそっと彼女の背に回した。 「私、踊れないわ」 小さく彼女は抗議した。 「俺もだよ。振りでいいから、とにかくジーナを見失わないように」 そうか…。本来の目的を思い出し、アルテミスも覚悟を決めた。 あらぬ方向ばかりをちらちら見ながら、たどたどしく動いている若いカップルだったが、人々は心優しく許容してくれていた。 こんなシチュエーションでジーナと目が合ったらどうしよう…!と初めは危惧していたアルテミスだったが、ジーナもガボットも、一度もこちらを見ない。まるで、アルテミスたちが居る事に気付いていない様だ。とても優雅に楽しそうに踊っている。 常に視界に二人の姿を留めながらも、アレンとアルテミスは徐々に他人とぶつからずに過ごせるようになって行った。 手を置いているアレンの肩。肩から胸にかけての厚みが、訳も無く頼もしい。安堵感に包まれる。 同時に切なくなる。この素晴らしく頼もしい胸を、私が頼ることは決してないのだ。 大きく開いたドレスの背中は、どうしても直にアレンの手に触れた。掌に感じる、彼女の素肌と背骨。向きを変えたりする度に、僅かに感じる骨の動き。骨を感じられる程に、彼女に触れているのかと思うと、胸の奥から熱いものがこみ上げて来る。それにしてもなんて華奢なんだろう。今まで会って来た彼女も、こうだったんだろうか。コーナで出会った時も、エジカマで木に登った時も、昨日、公園を歩いた時も、俺が知らなかっただけで、彼女の服の下はこんな華奢だったんだろうか…。うっかり「服の下は」と考えてしまった自分をすぐに後悔したが、なかなか妄想は消えない。焦る程に妄想は鮮明に色着き始める。と、足先に微かな衝撃が走り、妄想はすぅっと消えた。 「ごめんなさい…!」 アレンの足を踏んでしまったアルテミスが詫びていた。ヒールが高いせいで、今夜は彼女の顔がいつもより近くにある。申し訳なさそうに眉を寄せ、頬を赤くして、また俯く。彼女の髪の香りがアレンの鼻を掠めた。此処にいる女性全員の香水の渦中にいても、アルテミスの髪の香りだけが、アレンにとって香りとして届く。シャンデリアに反射して煌く金髪のふわふわした塊。そこへ顔を埋める新たな妄想を必死にかき消した。 五曲演奏されたところで、円舞曲は静かな室内音楽へと変わった。 人々がダンスに興じている間に、隣の広間には晩餐の用意がすっかり整えられていた。銀食器が眩く並ぶテーブルへと移動してゆく人波。それを見送っているのは、皆、誰かしらのボディーガードだ。主人がテーブルに着いたのを確認すると、隣室の「御付の方用」の食事テーブルへ移動したり、控え室へ下がったりし始めた。 ジーナはガボットの隣に着座している。 「一番安全な席だ」 アレンがにっこりと太鼓判を押してくれたので、アルテミスの不安は消えた。 さて。腹ごしらえしようか。 そう言うと、アレンはアルテミスの手を引いて、隣の部屋へと歩き出した。 昨日も散々こうして歩いたっけ…。でもやっぱり慣れない。どきどきする。恥ずかしい。だけど、嬉しい。 テーブルへ着くと、ガボットとジーナが見える位置の席を選んだ。アレンが椅子を引いてくれた。レディファーストの扱いを受けるのは初めてでは無い。が、アレンにしてもらうのは格別だ。自分がアレンにとって、特別な女性になったような気がする。こっそりそう思って、うっとりした。 チラチラと見られている。指名手配の顔写真(CGだが)が、太陽系内中にばら撒かれているので、盗み見されるのには慣れている。が、今夜はちょっと違う。指名手配犯に似ている…と確認しているような視線ではない。 (アレンがすごく素敵だから、その横にいるのはどんな女だろうって見られてるみたい…) 自分は女性としての魅力は皆無だと思っているので、そんな風に値踏みされるのは居心地が悪い。何よりアレンに申し訳ない気がして来る。 不安になってアレンを見た。ちょうどアレンもこちらを向いた。運ばれて来たスープの湯気を前に、声にはせず、美味そう、と口を動かして笑った。その子供みたいな笑顔につられて、アルテミスも顔がほころんだ。 とりあえず今は、アレンはつまらなくはなさそうだ。良かった。 ほっとしたアルテミスは、やっと周囲の値踏みを無視出来た。 アレンの方も、まるで同じ事を考えていた。 (アルテミスがあんまり綺麗だから、隣に座れる幸運な男はどんな野郎だと思ってるんだろうな) 誇らしい気分だった。彼女は俺にだけ話しかけ、俺にだけそっと微笑む。この広い会場で、彼女と最も近しいのは、誰でもない、俺なんだ(ジーナを除いて)。形容しがたい昂揚感がアレンを満たす。 ジーナったら、またお酒空けた…! ジーナって、ザルなんてもんじゃないの、枠なの、枠しかないの。 ジーナに勝った人は、私の知る限り、まだ一人もいないのよ。 すべてジーナの話題だろうと、彼女の話しは楽しかった。 二人が食事を終えても、晩餐会場の人々の食事が終わる気配は微塵もなかった。ボディーガード達には出ないアルコールがふんだんに振舞われる分、宴は長い。ジーナは変わらずガボットの隣にいる。周りの客人たちとも楽し気に喋っている。社交性に長けた事業主だ。そんなジーナをアルテミスは尊敬していた。誇りに思っていた。直接伝えた事は無論無いが。 「風に当たりに行こうか」 ジーナの安全を確認したアレンは、アルテミスに言った。公園のベンチでファーストフードを食べた昨日とは、打って変わってかしこまったディナーに、少々気疲れしていたアルテミスには、夜風に当たって気分を入れ替えるのは願っても無い事だった。 アレンはテラスへ出ると、数段の階段を下りて、中庭へとアルテミスを連れ出した。所々ライトアップされている場所には、誰かしらの彫刻が立っていた。何かの女神だったり、幻獣だったり。昼間なら、咲き誇る花々の彩りが見事だっただろう。今はそのほとんどが眠りに就いて花びらを閉じていた。緑の香りだけが満ちている中、小さな水音が聞こえて来た。立ち止まり、耳を澄ませ、期待で目を大きく見開きながらアレンの顔を見る。 「噴水だよ。小さいけどね」 なんて可愛い仕草で訊いて来るんだろう…と思いながら、アレンは答えた。 水音へと歩いて行くと、石畳で作った数段の階段の高みにある噴水に辿り着いた。愛らしい天使が水の溢れる瓶を肩に抱えていた。水のそばの空気は、少し涼しくてしっとりしている。 アレンは、アルテミスの剥き出しの腕と、大きく開いている背中が心配になった。 「ううん、涼しくて気持ちいい」 寒くないかと問われて、彼女は微笑んで答えた。微笑みながら「可愛い噴水」と水に手を付けたりしているので、機嫌良く見えた。 実際、アルテミスはご機嫌だった。 (まさか、アレンと並んで食事が楽しめるなんて思わなかった…。昨日の私から、大した進歩だわ…) 昨日は、かしこまった場所で食事をするなんて考えられなかった。それが、今日はどうだろう。正装という、最上級のかしこまった服装で、アレンと並んでお給仕付きのディナーを楽しんだのだ。そう、楽しかった、私――。 (きっと……。昨日、ちゃんと決めたからだわ。大事にしよう、って) ――大事にしよう、距離を置いて――。ちょっと気分が落ちるが、大丈夫、そうしていればアレンを失う事はない。 大事な大事な、失いたくない、―――、友人……。 違う、友人なんかじゃない、もっと、もっと、………大切な人。 噴水の中央にいる天使の台座周りから、突如として水が噴き上がった。次の瞬間には、外周の水もリズミカルに空を目指して噴き上がり始めた。 アレンに引っ張られなかったら、水面に乗り出していたアルテミスは、諸に水を被っていただろう。ちょっと飛沫を浴びてしまっている。可笑しい。笑いながら彼女は礼を言った。 「びっくりした。ありがとう」 髪に肩に付いた水滴が、噴水の柔らかな灯りに反射してキラキラと光っている。彼女は噴水のささやかなアクアショーを見て 「素敵ね」 とアレンに振り向いた。頷きながらアレンが 「あんまり近寄らない方が―」 と言っている途中で、フィナーレが夜空高く噴き上がった。 ぐいとアルテミスの腕を引っ張り、抱き込んだが、それ位では逃れられなかった。 大した量ではなかったが、ぱらぱらと落ちて来る水滴を、二人して被ってしまった。 やがて水滴の音がしなくなると、二人は抱き合ったまま笑い出した。 大の大人が、二人仲良く夜の噴水の水を被って濡れている…! 「ごめんなさい、私、、、」 謝っているが、笑ってしまってちゃんと謝り切れない。 「俺こそごめん、まさかこんな気合入れて噴き上がるとは、、、、」 アレンも笑いに勝てずに、言葉が続かない。 晩餐会の広間の灯りがちらちらと見え隠れする夜の庭園で、二人は水を滴らせながら笑った。 ひとしきり笑って、アルテミスが身体を離そうとした時、アレンはぐいと抱き寄せた。 突然の抱擁に、アルテミスの最後の笑いがすぅっと消えた。 抱き締められている事は、すぐに分かった。今までとは全然違う。支えるとか、庇うとか、そんな腕じゃない。何処も苦しくないのに、何故か動けない。 どうしてこんな事になっているのか分からず、ただただ、心臓が破裂しそうだった。尋ねる言葉すら発せられない。気が遠くなりそうだ。 「地球に降りた事ないって言ってたよな?」 彼女を抱き込んだまま、アレンは言った。アルテミスは遠くなりかけた意識を呼び戻して考えた。 言った。あれは…木登りした枝の上だった。嘘じゃない、本当のコト。でも、それが…? 「……地球においでよ…」 「………」 「アルテミスがくれたどんぐりの…樫の若木を、見においでよ…」 「樫の……若木……」 芽が出たと言っていたっけ。 アルテミスの背に回していた両手を、アレンはそっと彼女の肩へと移し、身体を離すと彼女の顔を見た。 アルテミスも彼を見る。噴水を背に立つ彼は、その輪郭だけが淡く光り、アルテミスに向いてる面は暗闇のようだ。でも、瞳だけは、ちゃんと見える。深い深い緑色の彼の瞳。今は黒く見える。無数の星を散りばめた夜空のような黒。一途な、真実の黒。 「若木が、木登りできるようになるまで育ててみないか…。俺と一緒に……」 言葉の意味を、瞳を見つめながら一生懸命考えている彼女に、アレンはそっと顔を寄せると唇を重ねた。 アルテミスは……動けずにいた。 唇を離して、アレンは再び彼女を見つめた。彼女も彼を見つめる。目を逸らすなんて出来なかった。アレンはアルテミスを抱き寄せると、しっかりと、そう、しっかりとした意思の元にキスをした。 アルテミスが好きだ。アルテミスと一緒に居たい。アルテミスを地球へ連れ帰りたい。アルテミスが欲しい、アルテミスの心が……! その真摯な気持ちは、アルテミスにも伝わった。優しく熱く自分を求める彼のキスに目を閉じて応えていた。 アレンとの、事故じゃない本物のキス……。 アレンの背中に手を回しかけていたアルテミスに「本物のキスしてくれよ」と誰かが言った。「俺の最後の一呼吸にさ、正真正銘の本物のキスをしてくれよ」………。 頭の中の暗闇に、あのジョーが立っていた。 アルテミスは、我に返って身体を離した。頭の中は真っ白になって、ジョーももう居ない。でも、でも、どうしよう…! 距離を置くと決めたのに……! アルテミスは走り出した。一目散にアレンから。 石畳の階段を駆け下りた時、ヒールが石に引っかかり脱げた靴が後ろへ跳ね上がって転がった。あっと思ったが、この場から一刻も早く去りたい。靴を拾わずに、もう片方を脱いで手に持った。裸足のまま走り出した彼女は、あっという間に木々の間へと消えて行った。 アレンは彼女を追う事が出来なかった。 自分の中に噴き上がった初めての感情に、自分自身、一番驚いていた。まさかそんな、自分が誰かにこんな気持ちになるなんて……! 女に恋して命を落した親友。あれ以来、自分にはそんな感情は決して沸かないと思っていた。 「俺さ、マリューが好きなんだよ、アレン。どうしてもどうしても好きなんだよ。マリューと一緒に居たい。マリューが必要なんだ、俺には…。あぁ、マリューが欲しいなぁ、マリューの心がさぁ…」 5年も経っているのに、ユウジの言葉が鮮明に蘇る。 同じだ。さっき、アルテミスを腕の中に抱き締めた時に溢れ出た気持ちとそっくり同じだ…! アレンは呆然と立ち尽くした。胸が痛い…。呼吸が苦しい…。彼女が落したままの靴を拾った。彼女のように華奢な細いヒール。愛おしさが込み上げて来た。 (ユウジ、やっと分かったよ…あの時のおまえの気持ちがさ……) 靴を胸に、心で呟いた瞬間、 「アレン、ワンダフル!」 ガボットの声がした。驚いたアレンは周囲を見渡した。 「落ち着きたまえ、アレン。耳だよ、耳」 あ…! プライベートコール……! 主人とボディーガードの間にのみ通じている私的無線なので、任務上スイッチを切る事はできないが、せめてマイクをオフにしておくべきだった……。もしかして、すべて聞かれていたのだろうか………!アレンは、全身の血が沸騰しそうになった。 さらに気付く。と言うことは、もしかしたらジーナにも…アルテミスのプライベートコールを介して、筒抜けだったんじゃないのか……! アルテミスがマイクをオフにしていた事を祈ろう…。ガボットとて、ずっと聞き耳を立てていられる筈もない、たまたま受話をしてみたら、今のシーンだったというわけに違いない。 と、考えたが、どちらにしろ一番恥ずかしいシーンを聞かれた事に変わりはない。アレンは観念するしかなかった。それにしても、任務中に女を口説いていたなんて、なんたる失態か…。 打ちひしがれているアレンに、ガボットは言った。 「いきなりプロポーズとは、いや、見直したよアレン!」 「え!」 ガボットの言葉に目の前がチカチカした。 (プロポーズ? そうなのか? あれはプロポーズになるのか?) 「あぁ、若いって事は羨ましい…! 実にエキサイティング!」 アレンの動揺などお構い無しに、ガボットは興奮していた。 「今時の若者にしては、ずいぶんと古風なパターンを繰り出したな。『おまえの手作り料理が毎日食べたいから結婚しよう」に匹敵するぞ。ちなみに私は『おはようを一番最初に、お休みを一番最後に言いたいから、一緒になろう」だった! ふふふ、ロマンスだろう?……あぁ、ジェシカ、どうして君は僕を置いて死んでしまったんだ……」 亡くなった妻の名を口にするとは、かなり酔っている証拠だ。そして、ジーナの横でもなさそうだ。するとジーナは、どこで何をしているのだろう。 「ガボット、ジーナはどこです?」 「おお、我が愛しのクイーン・ジーナは、大切なお嬢さんが広間を走り抜けるのを見つけて、後を追って行ってしまったよ」 アレンは絶句した。何をどうフォローすればいいのか見当も付かない。 「さあ、アレン、キスもした…よな? あぁ、誤魔化さんでもいい、照れるな照れるな。あの間がキスの間でなくて何の間だ。そしてプロポーズもした。残るは、」 「彼女、逃げちゃったの、知ってるんでしょう?!」 ガボットには何もかも見透かされている。アレンは思わず泣き言のような言葉を漏らした。 「そう、乙女は恥じらいのあまりに走り去った。純情な娘だ。海賊アルテミスの噂は、あれはまったくのでたらめだ。そう思わんかね、アレン」 言われるまでもない。 「最初からそう思ってました」 満足そうに溜息をついたガボットは、重大なミッションを告げるかのように声を落し、囁いた。 「アレン。残るは“押し倒す”だ」 アレンは更に絶望の底へと突き落とされた気がした。 女性控え室のドアを勢い良く開け、裸足のアルテミスは滑り込んだ。幸いにも誰も居なかったので、気兼ねなく呼吸を整える事が出来たが、じっとしていられず、まだ鎮まり切らない息遣いのまま、窓辺に寄った。中庭とは正反対の窓には、遠くに高層ビルの明かりが林立していた。 そこへ重なって自分の顔が映っている。窓ガラスに映った自分の唇を見つめた。先程のシーンが、頭の中で繰り返され、逆上せそうになる。 抱きすくめられた甘い束縛感。まっすぐに見下ろしていた星空のような瞳。そっと触れて来た優しい唇。真摯な熱いキス。 ―――アレンが私に………。 アレンの唇が触れた自分の唇を、確かめるようにそっと指でなぞった。 柔らかい。その感触に自分でもどきりとした。 柔らかさを感じながらなぞるうちに、この柔らかさに触れた唇が、もう一つあった事を思い出した。最初と二回目は酷かったけれど、三回目は…最後のキスは不似合いな程に厳かだったっけ…。甘い煙草の香りのキスだった。 アルテミスがジョーの顔を思い浮かべそうになった時、ドアが開いてジーナが入って来るのが窓ガラスに映った。 アルテミスは我に返った。仕事中だった! 「ジーナ…。あ、あの、ごめんなさい、側を離れて」 しかしジーナは首を振り、静かに微笑みながら歩み寄った。 「知らなかったよ。おまえがあんなに上手にワルツが踊れるなんて」 (やはり見られていたんだ…。一度も目が合わなかったのに…!) ジーナは長ソファに腰を下ろし、ゆっくりと話し始めた。 「あの男は…、アレンはいい男だね。優しいし、強いし、心底おまえに惚れてるようだし」 漠然と感じている事を、改めて人から言われると、一気に現実味を帯びる。アルテミスの体は沸々と熱くなった。 「おまえも好きなんだろう?」 言いながらジーナは思う。おまえのそんな顔は、初めて見るよ。 「違う。アレンは大切な人だけど、好きとかじゃないの、ジーナ。それにね、」 アルテミスは、ジーナの横に座ると訴えた。 「アレンは危険なのよ、一緒にいると調子が狂うの」 昨日、嫌と言うほど思い知った。いつもの自分が保てずに、花火の音に恐怖を感じたうえ、アレンにしがみ付いていた、あの醜態。 「それは恋してるからじゃないか。調子が狂う。いつも通りでいられない。まさに恋してるからだよ」 ジーナは切なかった。自分の恋心に気付かない、可愛い大事なアルテミス。 「お似合いだよ、おまえ達」 「やめてジーナ!」 アルテミスは激しく否定した。ただ照れているわけではない。恋する気持ちを頑なに否定したがっているのだとジーナは察した。 「アルテミス、幸せは自分で掴むモンだよ」 「私は今のままで幸せよ。不幸じゃないわ」 ――あぁ、確かにそうかもしれないね、でも、どうしたら分かってくれるだろう、“愛し愛される幸せ”が、どれだけ素晴らしい幸せかという事を。 「じゃぁ、言い方を変えよう。アレンと一緒にいたいと思わないかい?」 「…………」 アルテミスの頭に先程のアレンの言葉が浮かんだ。 ―――若木を育ててみないか、俺と一緒に…。 一緒に。一緒に。 アルテミスは何度も繰り返した。アレンと一緒に。それは痺れを伴った甘い感覚。一生懸命踏ん張って、ジーナに抵抗していた部分が溶かされて行くようだ。アレンと一緒にいる自分に飲み込まれそうになった時、 「一緒にいられなくなってごめん………」 と、誰かが謝った。アルテミスの鼓動がドン…と跳ね上がる。甘さとは正反対の、苦い苦い痺れと共に。 それはライラの声だった。 アルテミスは、ジーナから顔を背けながら言った。 「……一緒になんていられないわ。必ずいなくなるもの」 呟くような声だったが、ジーナは聞き逃さなかった。 「何言ってるんだい」 「私とずっと一緒にいてくれる人なんているわけない」 「どうして!」 「皆そうだった、ずっと一緒にいるって皆、皆、言ったけど、でもいなくなった。両親も、新しい家族も、大事なたった一人の友人も、、、、いつも、私を独りにしていなくなったのよ!」 アルテミスの目から、大粒の涙がぼろりと零れた。 「皆ね、死んじゃったのよ。二度と会えない場所へ行っちゃったの」 ジーナの目の前で、アルテミスの頬が涙で濡れていく。 「私、死神なのよ。私に好かれたら死んじゃう」 「何言ってるの……!」 自らを死神と言い、泣く娘。ジーナは胸が張り裂けそうになった。 「だから決めたの、誰も好きにならないって。一緒にいてほしいなんて思わない、願わない。初めからいなければ、失ったりしないもの!」 ジーナは堪らず彼女を胸に掻き抱いた。ジーナの胸で、アルテミスは肩を震わせ声を漏らして泣いた。 (気付かなかった…! 気付いてやれなかった…! 6年間、ずっと側にいたのに、こんな気持ちをこの子が抱えていた事を、分かってやれなかった…… !!) ジーナは後悔の念に押し潰されそうになりながら、アルテミスを強く抱き締め、その背中をさすった。 「アルテミス、いいかい、あたしはいなくならないよ。おまえの側にずっといる。ずっといるよ」 涙が溢れて、それ以上何も言えなくなってしまった。ただひたすらアルテミスを抱き締めて、ふわふわと結い上げた髪に頬を寄せた。 頭を預けていたジーナの胸が振るえ出したのが、ジーナの嗚咽のせいだと気付くのにしばらくかかったが、理解したアルテミスは冷静さを取り戻した。涙を拭うと、ジーナの胸から抜け出し、立ち上がって距離を取り、ジーナに向き直った。 ジーナを真正面から見るアルテミスは、もう泣いていなかった。まだ涙を頬に残しているジーナにアルテミスは言った。 「何も聞かなかった事にして。今夜は、本当にどうかしてたわ。着慣れない服で護衛なんてさせるからよ」 憎まれ口を叩く、いつものアルテミスだ。でも、アルテミスの本当の姿を知ってしまったジーナには、痛々しくて堪らない。だからと言って、また抱き締めるわけにはいかない。ましてや同情されたと少しでも感じたら、あたしを許さず、この子はいなくなってしまうだろう、あたしのそばから永遠に。これが、同情ではなく愛情だと、アルテミスを大事に大事に思う愛情だという事実は、今のこの子には理解できないだろうから…。 憎まれ口を叩くのが、この子の精一杯の背伸びなら、そっと見守ってやろう。倒れそうになったらしっかり支えてやれる位置で。 「でも、綺麗だよ、とっても。あたしの若い時といい勝負だ」 ジーナもいつもの口調で返した。 「今度、証拠写真見せてね。―――ヒールの低い靴を借りて来るわ。これじゃやっぱり走れなかった」 そう言って、アルテミスは手に持っていた片方だけのハイヒールを見せた。 アルテミスの足に良く映えた、綺麗な女らしい靴なのに。ジーナは溜息をついた。 「いいよ、今夜はもう帰ろう」 「え…」 「実はこのドレスきつくてね。もう限界なのさ。さて、靴を借りて来るから、ここで待ってな」 「要らないわ。ほら、分からないでしょ?」 ハイヒールに合わせてあったドレスの丈は、裸足の足ならすっぽりと覆ってしまう。 ――まったくこの子は…こんなに綺麗に着飾っているのに裸足でいいなんて。 でもそれがこの子らしいってことかもしれないと、ジーナは愛しく思った。 「じゃぁ、ガボットに挨拶してくるから、車をまわしておいて」 二人は部屋を出て、長い廊下を別方向へと歩いた。アルテミスはエントランスへと下りる階段へ。ジーナは広間の方へと下りる階段へ。 ジーナが下りようとしていた階段を、アレンが駆け上がって来た。目の前に立ちはだかるジーナに気付いたアレンは、一瞬の内に諸々の覚悟をして、話しかけた。 「アルテミスを捜しているんですが、ご存知ないですか」 「あいにくと、船にトラブルが起きてね、お暇するところなのさ。あの子は今、車を用意しに行ったよ」 (片足で? いや、裸足でか…?) アレンは焦った。 「あの、これ、彼女の靴です。僕のせいで落してしまって…彼女に渡してもらえませんか」 ジーナはアレンをじいっと見た。おそらくジーナもガボット同様、事の顛末を知っているに違いない。アレンは針の筵に立たされた気分だ。絶えるしかない。 ジーナは靴を一瞥すると、アレンに言った。 「アレン、あの子の噂は知っているかい?」 「え…?」 「まるで、鉄か氷で出来ているような言い様さ。でもね、それはあの子の鎧。鋼鉄の冷たい冷たい鎧なのさ」 「………」 アルテミスを語るジーナの気迫に、アレンは圧倒されて行く。 「自分じゃ脱ぐことが出来ないんだよ。誰かが壊してやらなくちゃ。……悔しいけどあたしじゃだめ。あたしはね、……6年間もあの子と一緒にいて、あの子が大きな口を開けて笑った顔なんて見た事なかった。ましてや、泣いたり、……誰かを想って赤くしたほっぺたなんざ……」 ジーナの目が潤んでいる。アレンはジーナの言葉を必死に反芻した。 (誰かを想って赤くした頬……“誰か”…。) 「アレン、あんたにならあの子をやってもいいよ。地球でもどこへでも連れて行くといい」 ジーナは覚悟したのだ。アルテミスを手放す日が遠からず来るかもしれないと。身を切られる辛さだ。でも。あの子の幸せのためなら、もちろん喜んで送り出してやりたい。大事に大事に見守って来た、大切な大切な娘だ。 (この青年なら託せる……!) 「本気なら! あんたの全部をかけて、あの子の鎧を壊してくれるならね!」 さぁ、これでどう動いてくれる? あたしは横で、お手並み拝見と行かせてもらうよ、ガボットとね。 呆然と立ち尽くすアレンに、 「靴は直接あの子に返してやって」 と優しく言うと、ジーナは階段を下りて行った。 ―――俺の全部をかけて、彼女の鎧を壊す……全部をかけて……。 彼女の靴が、手の中できらきらり…と光っている。鋼鉄の冷たい鎧の下に、ガラスのように繊細な彼女が震えていると、暗示しているように見えてしまったアレンは、その小さな靴を胸に走り出した。 長い廊下を抜け、階段を駆け下りる。途中の踊り場から、エントランス前に車が停まっているのが見えた。白く浮かび上がる人影が近寄って行く。彼女だ! 残りの階段を一気に駆け下り、エントランスも飛ぶように駆け抜けた。 「アルテミス!」 背中にアレンの声を受けて、アルテミスは振り返った。アレンが階段を駆け下りて来る。真っ直ぐに自分へ走って来るアレンの姿を見て、アルテミスの胸がざわめき始める。たった今、平常心を取り戻したはずなのに…! アレンは彼女の前でやっと立ち止まると、荒い息遣いのまま言った。 「靴を持って来たから」 アレンの手に靴が光っていた。裸足で歩かせて悪かった、と謝りながら、アレンはアルテミスの足元へ片膝をついて屈んだ。靴を彼女に向けて置く。 「もう片方」 彼女を見上げて、アレンは片手を差し出した。 どうしてこの人は……! あまりにも甘い絶望に支配されそうになる。だって、こんな風に傅かれてどきどきするなと言う方が無理だ。 「自分で履けるわ」 やっとの思いで言うと、手にしていた靴を置くためにしゃがんだ。アレンが置いてくれた靴の横に並べる。 「アルテミス」 声に顔を上げると、まだ跪いたままのアレンの顔が真正面にあった。 「もう絶対あんな勝手な事はしないから」 許しを請う瞳はエメラルドのように深く澄んでいる。見つめられて耳まで赤くなるのが自分でも良く分かる。 「だから、逃げないで。怖がらないで……」 「………」 ギリギリのところで、アルテミスは立ち上がれた。 この流れを変えてしまわなければ! とばかりに靴につま先を突っ込んだ。高いヒールにぐらぐら揺れながら、がむしゃらに履く。 立ち上がったアレンが、つい彼女の腕を取った。 ―――これは、勝手な事には入らないの…? この優しさが私は怖いのに。 無事に履き終えると、アレンは腕をそっと放した。アルテミスが背筋を伸ばして顔を上げると、ダンスした時の、中庭を歩いた時の高さに顔があった。ちょっとアレンが顔を傾ければキスの出来る高さ。 「……。順番ぐちゃぐちゃで悪いけど…、アルテミスが好きだよ」 真っ直ぐにアルテミスを見つめたまま、アレンははっきりと言った。 アレンの飾らない素直なこの告白は、アレンとの甘美なやり取りが降り積もり、すっかり埋もれていた力を鮮烈に呼び覚ました。 ―――絶対にこの人を死なせない。 アルテミスは静かに笑みを浮かべて、アレンに言った。 「でも、私はあなたを好きじゃないわ」 アルテミスはエントランスを振り仰いだ。ちょうどジーナが下りて来る。 「だから地球には行けない。ごめんなさい」 情報番組で良く見る、海賊アルテミスの笑顔だった。アルテミスはジーナのためにドアを開ける。 「お待たせ」 ジーナはよいしょと車のシートへ座った。アルテミスはドアを閉めると、離れた場所で邪魔にならないよう出番を待っていた運転手へ声をかけに行った。その僅かな隙を盗んで、ジーナは窓を開け、アレンに囁いた。 「言い忘れてたけど、あの子は天邪鬼だからね。一筋縄じゃいかないよ」 ばん…と音を立て、向こう側からジーナの横へ乗り込んだアルテミスがドアを閉めた。 「じゃぁ、アレン、おやすみ」 わざとらしく大きな声でジーナは言った。 「…気をつけて」 アレンの言葉にジーナが手をひらひらと振る。アルテミスはアレンを見ると微笑んで会釈した。冷たい微笑で。車はスーッと滑り出し、静かにロータリーを回って、外門へと走り去ってしまった。 赤いテールランプが見えなくなっても、アレンは立っていた。 (“天邪鬼”………) ジーナの囁きが、暗闇に差し込む一筋の光になって、アレンの心を奮い立たせていた。 |
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第5話 Q & S END |
ぺた |