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第3話 奇 跡 | ||
壁面や天井からたくさんのアームが伸びて、リンディアーナのあちらこちらへと繋がっている。 その光景を見渡せるオペレーションルームで、ベスタとアルテミスは作業を見守っていた。時折ベスタがマイクで部下達に指示を出している。順調に進んでいるようだ。 (良かった) と、アルテミスがほっとしていると、振り向いたベスタが、ふんと軽く鼻を鳴らして言った。 「なんだい。ずいぶん楽しそうじゃないか。…何イイコトあった? ん?」 「順調そうで良かったわって思って」 アルテミスはさらりと返事する。しかしベスタはじりっと近寄り、 「ああ、顔が赤い。ふふーん」 無言で親指を立て、これかい?とばかりに目で訊ねてきた。 昨日は、ドッグへ無事に帰り着いたアレンからメールを貰い、メールを返し、またメールを貰い…アルテミスがメール慣れしていないので、やたらと時間がかかったというのもあるが、途中、食事や入浴を挟んだりしながらもメールのやりとりは夜中まで続いた。 (メールって、こっそり誰かに受信とかされないよね?) ベスタの鋭い探りに、そんなコトあるわけないと知りつつ、不安になる。 (あ、もしかして、森でアレンといたのを誰かに見られてた…? まさか、そんなこと無い。じゃぁ、長く生きてると見えるようになるのかも、遠くの出来事とか、他人の頭の中とか…) ――ベスタは妖怪かも。 それが一番しっくり来た。 アルテミスはぐるぐると考えながら、でもポーカーフェイスでベスタと同じように親指を立てて、ベスタの肩を指圧してやった。ベスタにはよくこうしてツボ押しをしてやっていたのだ。 ちっとも色っぽい話の出ないアルテミスのコイバナが、やっと聞けるかと期待したベスタは、がっかりして怒鳴った。 「ああ、あまっちょろい! よけいにツボが疼き出しちまったじゃないか! お灸! お灸買って来て! お灸するまであたしゃ仕事せん!」 ドッグばかりのコロニー“エジカマ”だが、そこそこ綺麗なショッピングモールもあった。 一軒の薬局から、お灸の入った小袋を胸に抱いて、大きなツバ広の帽子を被ったアルテミスが出て来た。人工のコロニーではあるが、あらゆる生命維持のため、紫外線等もちゃんと降らせているので、UV対策は必要だった。 店の階段を下りた瞬間、ドン!と衝撃を受けて、アルテミスは横に飛ばされた。撃たれた痛みはない。が、思い切り突いた手が痛い。 「悪りぃ!」 声がした。ぶつかって来た人物だろう、袋の中から飛び出てしまったお灸を拾って、座り込んでいるアルテミスに差し出した。 「ほんと、ごめんな、 ばあちゃん」 ばあちゃん…? アルテミスは袋を取り返し、顔を上げた。 大きな帽子で顔が見えなかったし、持ち物がお灸だったのとで単純にお年寄りだと思い込んだジョーは、自分を振り仰ぐ顔が若々しい顔だったので、心底感心して褒めた。 「うっわ、かわいー、すっげー若く見えるよー! そのお灸が若さの秘訣?」」 アルテミスが見上げると、自分と同じように額に布帯を巻いた金髪の男が、にっこり微笑みながら手を差し出していた。しかし、必要以上に整ったその顔は、すぐに驚きの表情に変わった。 「あ!」 アルテミスも同時に気付いた。 キス男! アルテミスは、瞬時にして怒り倍増、いや十倍増しでバネ仕掛け人形のように立ち上がった。 「マジで〜〜〜? よぉ〜〜〜、すっげぇ偶然〜…。もうこれって奇跡じゃねえ?」 アルテミスの怒りが気になりつつも、“とんでもない確率の再会”の興奮が勝って、ジョーははしゃいだ。 (なんで、なんでこんなヤツとも再会するの…!) 睨み付けていると、ジョーのあらぬ出で立ちが、嫌でも目に入った。 引っ張られたのだろう、ボタンがなかったりぶら下がっているシャツは、ぐちゃぐちゃに開かれて、数え切れないほどのキスマークが汚らしく付着している。 「…サイテー…」 どんなに女と遊ぼうと勝手だが、それをこんな昼間っから公の場に見せつけるなんて…! そんな男に“奇跡”という厳粛な言葉を使われた……! 奇跡っていうのはね、昨日のアレンとの再会みたいのをいうのよ !! こんなのただの偶然よ !!! 「奇跡が汚れるわ………!」 吐き捨てると、腰の銃に手を掛けた。 「待った! オレまだ墓掘ってねえから!」 「地獄へ直行って言ったでしょ !!」 アルテミスは銃を抜いた。 「うわっ! そんなもん抜くんじゃねえよ、女の子が!」 一瞬 ―――引き金にかけた指が止まってしまった。 女の子。そんな風に言われた事は、幼少時以来初めてだった。ジョーにしてみれば、当たり前の事を口走っただけだったが、命拾いしたようだ。 が、拾った命はすぐに風前の灯火へと変わる。 「ジョー ーーーー!!」 大勢の女達の声と足音が聞こえて来た。 (またコイツは…!) ジョーは「しー」と指を口に当てて、軽くウインクして来た。その瞬間、アルテミスは大声で 「ジョーはこっちよー!」 と叫んだ。 「え !?」 「地獄へ堕ちろ」 呆然とするジョーに軽蔑を込めて言い捨てると、彼女は背を向け歩き出した。 「やりやがったな!」 ジョーの声を背中に受けたと同時に腕をぐいと引かれた。あっと思った瞬間、あの甘い煙草の香りが鼻腔に滑り込んだ。 香りは甘いのに、身体が感じた衝撃は激しかった。上半身がぎゅっと拘束されて、呼吸を奪われた。 それはまるで、喧嘩のようなキス。 一呼吸をぐーっと上から押し付けられて、ジョーの腕が背中に回っていなかったなら、そのまま反り返って倒れてしまいそうだった。 一瞬だった。一瞬の出来事だったが、ジョーを追って来た集団には充分に披露できた。悲鳴が上がる。 「いやーーーー! あの女、ダレよーーーー!」 ジョーをひっぱたこうと上げたアルテミスの手は、ジョーの頬に届く前にガッと掴まれてしまった。 「地獄道中、道連れだ!」 ジョーは愉快そうに叫ぶと、彼女の手を掴んだまま走り出した。 「放せ!」 またあの逃避行の悪夢が…! 冗談ではない! しかしやはりガシッと掴んでいるジョーの手が緩む気配は一向にない。 「逃げなきゃボコボコにされちまうぜ?」 楽しそうにジョーが言った。アルテミスが何とか後ろを振り返ると、集団は悲鳴を上げながら物凄い形相で追って来る。不思議と皆体格がいい。“捕まったらぼこぼこ”は、正しそうだ。 「何なの! 何なのよ、あんた! 信じらんない! サイテー! サイテーーーー!」 怒りに任せて喚き散らすが、ジョーはお構い無しに走り続けた。 町外れまで走っても、まだ追われていた。ジョーは階段の折り返しをショートカットして飛び下りた。手を放されたので、逃げ出すチャンスだ! しかし、後ろへは行けない、恐怖の集団が迫っている。ジョーを出し抜いて前へ逃げるしか活路はない。飛び下りたジョーが、振り仰ぎ手を広げて 「来い!」 とアルテミスに叫んだ。 腕に飛び込めって? バカじゃないの、この男! そうだ 蹴り倒してやろう! 瞬時に思いついたアルテミスは、ひらりと手すりを越えて踵をジョーに向けた。が、ジョーとてぼけっと待っているわけではないので、難なく交わされてしまった。何にも当たらなかった踵はタイミングが狂い、バランスを崩しながらの着地になってしまった。倒れそうになる。 「危ねっ!」 蹴り倒してやろうと思った男に、ぐいと引き寄せられる。屈辱だ。さらにジョーは、そのままアルテミスを両手に抱え上げ、 「かわいくねーの」 と言いながら、ひらりひらりと階段をショートカットして、あっという間に下まで下りた。方向転換の遠心力と、ひらりと飛ぶ浮遊感、その直後に来る着地の衝撃を何度も繰り返され、アルテミスは抵抗する暇すらなかった。 いや、唯一できた抵抗は、ジョーにしがみ付かなかった事。ジョーにしがみ付くくらいなら、コンクリートの石段に落ちた方がましだった。 実際のところ、アルテミスの身体はジョーがしっかりと抱えていたので、腕の中から飛び出す事は決してなかったが。 階段を下り切ったところで、又も手首を掴まれ、しばらく走らされた。目の前が翳んで、ジョーの背中すらぼやけて来る。川岸の草むらを走っている事に、足裏の感触で気付いた。 川に跨っている大きな石橋の影の中に、二人は倒れこんだ。さすがのジョーも、仰向けになり、大きく喘いでいる。アルテミスも横向きに倒れて、同じく喘ぐ。心臓はもとより、肺が潰れそうだ。酸素、酸素、酸素を……! ジョーは首だけ彼女に向けて、忙しない呼吸の中で声をかけて来た。 「大丈夫?」 一言が精一杯。尋ねられたアルテミスは、何も答えず大きく喘ぎながら睨みつけた。 「ははっ、おっかね……」 天を仰いで笑うが続かない。それでも、なかなか整わない呼吸の中で、切れ切れに喋った。 「でも…、…、また会えて、嬉し…、…、…マジで…、…、…」 アルテミスはごろりと向きを変え、ジョーに背中を向けた。呼吸に必死の小さな背中に、ジョーは言った。 「だってオレ、ずっと思ってたぜ?…、…、…ばったり、会わないかなーって。…、…、…、そしたら、…、な?…、会った!…、……、奇跡が起きてさ、…、…、つか、運命?…、…、」 「どんな運命よ!」 調子のいい台詞が起爆剤になり、思わず振り向いて怒鳴った。しかし、ジョーはアルテミスの顔を振り仰ぎ、まるで子供のようにはしゃいで言う。 「オレとおまえ、…、…、星の海を跨いだ、運命の相手ってことだよ」 「あんた、本当におめでたいバカね!…、…、…、偶然再会したら、それだけで運命の恋人にしちゃうの?!」 治まり始めていた呼吸が、怒りのあまりまた乱れてくる。 しかしジョーはアルテミスの怒りなんて気にせず、上体を起こし身を乗り出してますます力説して来た。 「宇宙規模だぜ? 絶対偶然じゃねーよ!」 近づいたジョーの顔に、アルテミスはうっかり見入ってしまった。 綺麗な顔。男のくせに。栗色の長い睫に縁取られた目は、ほんの少し垂れ気味だが、それが表情に甘さを足している。瞳はサファイヤのようにきらきらしていて、長めの金髪は軽く波打っていた。こんな綺麗な男の人は見た事がない。せっかくこんなに綺麗なのに、中身はなんであんななの。なまじ綺麗だから、なのかしら。きっとそうだ、中身がひどくても見た目に皆は釣られるんだ。あの狂気の追っかけ―。 女に不自由したことは一切ないであろうそのルックスで、無邪気に自分を口説いて来る男。 このオレに落せない女はいない。この女も。って思ってるに違いない…。 軽蔑とも自嘲とも聞こえる口調で、アルテミスは言い放った。 「私のコト、何も知らないくせに」 「そんなのいらねえよ」 ジョーはさらりと流して言った。 「大事なのは過去じゃなくてさ、今じゃん? 今、好きかどうか、――――」 「好きなわけないじゃない !!」 思わず立ち上がって叫んだ。どこまでマイワールドなんだ、この男は! そんなアルテミスを、ジョーはぽかんと仰ぎ見ながら 「マジで…?」 と訊いて来た。 “マジで?”って何? まさか私も好きだとか思ってたの? 「当たり前でしょ! こんな、こんな勝手な―――、信じらんない、――!」 頭の中に渦巻く攻撃の言葉がうまく口から発射できずに、怒りばかりが沸々と沸きあがり、吹き上がる湯気が涙となって滲み出た。 今までにも、彼女に近寄って来た男は何人もいた。なにしろ彼女は有名な女海賊なので、自称ファンがそこらじゅうにいた。ファンのパワーは驚異的で、たまに要らぬ勇気で告白して来る輩がいたのだ。もちろん、誰一人として恋は成就しなかったが。 思い込みの激しいファンでさえ、きっぱりと断れば(又は威嚇すれば) わかってくれた。なのに、こいつは…。この男には、私の言葉は通じないのだろうか? 私の言葉は届いてる? 聞こえてる? ただの雑音? それともやっぱり、馬鹿にしてるの? アルテミスは、自分の潤む目にますますイラついた。まただ、またこいつの前で涙が…! 悔しい。悔しい!認めたくなくて、ごしっと手の甲で拭った。 彼女の灰色がかった紫色の瞳が急にゆらゆらと潤んだかと思ったら、ぼろりと涙が零れ落ちたのを見て、ジョーは動揺した。 ジョーを欲して叶わぬと泣く女の涙は見慣れていた。勝手に惚れて、勝手に欲しがって、勝手に絶望して泣いている女の涙は、正直どうとも思わなかった。オレのせいじゃないじゃん? ―――だがこれは、どう考えてもオレのせいだ…。しかも、二回目。 ジョーはそろそろと立ち上がると、様子を伺うかのように尋ねた。 「……えと…勝手ってのは、どのへんが……?」 「全部よ、バカ! 前回からずっと、全部 !!」 「…やっぱ、彼氏に怒られちった?」 「そんなんじゃないわよ! 関係ないのに巻き込んで、引き摺り回して、黙らないからってキ―――」 キスという言葉を口に出せずに飲み込んだ。飲み込んだまま、涙が滲む。悔しい。手の甲で拭う。 ジョーはいよいよ、良心が痛み出した。 「……ごめん……」 本心だった。 怒りに燃えたアルテミスの瞳にも、ジョーの姿が今までとは違って映った。 だが、それで彼女の怒りが鎮まるわけはない。それどころか、うまく吐き出せなかったにしろ勢いに任せてぶつけていた怒りを、投げ付ける勢いが殺がれてしまった。もうここに留まる理由はなくなった。投げ付けられなかった怒りを抱えたまま、彼女はその場から歩き始めた。 ジョーは黙ったまま、彼女の後を歩いた。 女に本気で謝った事なんかなかった。女が怒り出したら、その理由が何であれ、その場から去る。それきりだった。執着した事は一度もない。 なのに今は―――。このままにしてしまうのはいけないと漠然と思った。 川沿いに続く草むらを、とぼとぼと二人は歩き続けた。しばらくすると、彼女の肩が上がっていない事にジョーは気が付いた。 怒ってない…? と一瞬心が跳ねたが、上がって見えないのはがっくりと下がっているからだという事にすぐに気が付いた。踊りかけた胸はしゅっとしぼみ、鈍く痛み出す。それでも目を逸らせず、じっと見つめながら歩いた。 川面に反射した光が彼女の金色の髪を透明にしていた。 ……綺麗だ。花と同じくらい。そんな存在がこの世にあったのか……。 ジョーはここ数年持たなかった感情に暴走され、落ち着かせるのに必死だった。罪悪感、焦燥感、そして僅かな充足感。綺麗なものを見て、ひねくれた捕らえ方をせず、素直に綺麗だと感動したのも久しぶりだった。そんな己の変化には気付かずに、ただ、キラキラと髪を光らせて歩く彼女に何としても許してもらい、振り向いてもらうにはどうしたらいいのかと考えていた。 「なぁ、本当に悪かったって。頼むから許してくれよ。……なぁ…」 どう言えば一番いいのか分からぬまま、ついに謝り始めた。アルテミスは何も答えず歩き続ける。川のせせらぎと、自分達の草を踏む音だけが耳に入る。 彼女の腕を引いて振り向かせるのは絶対にまずいと感じていたジョーは、ダッシュして彼女の前に回った。目の前に立ちはだかられて、アルテミスは立ち止まった。 「ごめんって。この前の事も謝る。ほんとに悪かった、ごめん」 頭こそ下げなかったが、ジョーにしては精一杯謝った。 目を伏せ足元を見ていたアルテミスの頭が静かに動いた。ゆっくりと視線は上がり、ジョーの胸あたりで止まった。 「……シャツに口紅残した人達のとこへ行きなさいよ……」 小さな小さな声で、ぼそっと吐き捨てた。 しかしジョーは聞き逃さなかった。シャツに手を掛けると、ためらう事無くばさっと脱いだ。 これにはアルテミスも視線を奪われた。Tシャツになった胸から顔に視線を動かした。ジョーは真剣な表情だった。アルテミスが自分を見てくれたこのチャンスを逃すまじと、ジョーは口を開いた。 「本当にごめん。もう二度と、しない」 彼女の目を見てきっぱりと言った。その後も目を逸らさず、彼女の返事を待って耐えた。今までと全く違うジョーの、真剣な眼差しは、涙の清浄作用で鎮火し始めていたアルテミスの怒りを、さらに弱めた。でも疲れてしまった彼女は、何も喋りたくなかったし、彼のまっすぐな瞳も見たくなかった。 正面に立つジョーを避けるように、土手側に視線を移した。 そこには、一株の花木があった。薄紫色の小さな花を毬のように枝先に付けている。花の存在を認識した途端、何とも言えない芳しい香りも漂って来た。 彼女の動いた視線を追って、ジョーも花木に気が付いた。 ライラックか…。 香水の原料にもなるその花の名前を、もちろんジョーは知っていた。 ジョーの出身地は、花の文化が盛んなコロニーだった。花は生活に密着しており、花のないシーンなどなかった。ヴィーナスエリアのコロニー“ヘッシュ”の人々にとって花は、誇りであり、鑑賞物であり、文字や贈り物の変わりに気持ちを伝えるものであった。花には必ず花言葉があり、その言葉を込めて、花を贈り合う。何は無くとも花さえあれば。それがヘッシュの花文化の真髄だった。ジョーはヘッシュでも貴族と呼ばれる有数の資産家の家に生まれ、広大な庭園に囲まれ、庭師達が競演した四季折々の花々を見て育った。 ライラックを見つめているアルテミス。ジョーは少し迷ったが、ライラックに歩み寄り、一枝手折った。そして彼女の側へ戻ると、花を差し出した。これで彼女の心が和めば…と願いながら。 差し出された枝を見つめていたアルテミスは、その花の形に目を奪われた。 アルテミスがじっと見ているだけなので、 「ライラック」 と、花の名を告げた。受け取って欲しくて。 「え…ライラック… ?」 花の名を聞いたアルテミスは、ジョーの手から枝を抜き取った。そして、しばらく見つめていたが、やがて花毬に顔を埋めた。しかしそれは、香りを楽しんでいるようには、見えない。 (震えてる…?) ジョーが彼女の異変に気付いた瞬間、彼女は膝から崩れ折れた。 「どうした!」 まさか毒でも? 慌てて彼女の手から枝をもぎ取り、匂いを確かめた。怪しい匂いはない。そうだよな、こんな手の込んだ事、賞金稼ぎはしないよな。そもそも、毒を盛られる理由が無い。オレにはもう賞金はかかってない。 じゃぁ、ただの貧血か? いや、それにしちゃ様子がおかしかった……。 意識を失っているアルテミスを抱えて名前を呼ぼうとしたが、知らない事に気付き、改めて彼女との距離を思い知るジョーだった。 「アリー!」 懐かしい声に振り向くと、大好きな笑顔が立っていた。相変わらず、顔は機械油で薄汚れてる。本当は美人なのに、メークもしないでいつも機械いじりしているか、図面を描いているかなんだから。もったいないの。でも今日はスパナじゃなくて絵筆を持ってるの? 「ほら、見て見て! どう? かっこいいじゃない? 私って絵の才能もあったみたいね」 「それが花?」 「他に何に見える? どっからどう見てもライラックの花よ、ふふふ」 本物のライラックを見たことはないから、似てるかどうかはわからないけど、でもそれはデザイン化し過ぎて、すでに花には見えないよ。 お構い無しにリンディアーナの後方側面にペタペタと薄紫色のペンキを塗る。鼻唄なんて歌いながら。 「今夜はパオと三人でお祝いしようね。アリーの14歳の誕生日」 「え、本当?」 「ケーキも焼いてさ」 「わぁ! やった! ありがとう、ライラ!」 「15歳の誕生日も、16歳の誕生日も、ずっと私がケーキを焼いたげる。アリーが誰かのお嫁さんになっちゃうまで、ずっとずっとね」 約束だよ、本当だよ、ずっと一緒にいてよ、ライラ。 目の前で意識を失った彼女を抱きかかえて、ライラックから離れた場所にジョーは腰を下ろした。紙のように真っ白になった彼女の顔を見ながら、ひたすら無事に目覚める事を祈った。 しばらくして彼女が悲しそうに眉根を寄せてしゃくりあげ始めると、ズボンのポケットからハンカチを出して、閉じた瞼にそっとあてた。そして、自分と同じように額に当てている帯の上から、彼女の額を撫でた。撫でずにはいられなかった。あんなに強かった彼女が、子供のようにうなされて泣いている。彼女を見下ろし、切ない気持ちで一杯になりながら、ライラックが関係しているのだろうかと思いを巡らせた。 「ライラ……」 ライラックの花の名から名付けられた、と言っていた彼女を呼ぶ、自分の声で目が覚めた。だが、彼女の笑顔は見えない。さわさわと揺れる葉の影と真っ青なスカイビジョンが見えるだけだった。 一度しか焼いてもらえなかったケーキ。 ふと、額の上で何かが動いた。空から視線を移してみると、自分を見下ろしている顔があった。 ジョーは微笑むわけでもなく、何かを尋ねるわけでもなく、ただじっとアルテミスを見ていたが、やがてゆっくりと顔を上げて彼女から視線を外し、青空に浮かぶ雲を眺め始めた。 ――手だけ彼女の額に残して……。 ジョーに抱えられていると判ったが、ジョーがソファに成りき切っている(何も言わず、何もせず)ので、嫌悪感は感じなかった。 それどころか…額にそっと置かれた手が、…心地よい。 何年も封印して来たライラへの思いは、花によって溢れ出し、津波のようにあっという間にアルテミスを飲み込んで、絶望の底へと沈めてしまった。寒くて暗い海底。 そこへ手が……。温かい大きな手が降りて来て、そっと引き上げてくれたみたいだった………。 しばらくアルテミスは、そのままでいた。頭の隅で、早く起き上がれとか、この男はサイテー男なのよとか、泣き顔を見られるなんてとか、たくさんの自分が喚いていたが、ライラの津波からやっと生還したばかりで、どの声にも応えられない。――それどころか、そんな事はどうでも良いと思えた。 立ち上がる気力が満ちるまで休んでいたいの、……このままで。 目覚めて、オレの胸の上だったりしたら、彼女は激怒して、今度こそ絶対に許してくれないかもしれない。 ジョーはそう覚悟していたが、彼女はおとなしかった。状況を把握してからも、そのままジョーの胸の上で空を見上げていた。時折、涙が溢れていたが、ジョーの差し出したハンカチを拒絶したりせず無言で受け取り、涙を拭いていた。 怒って前を歩いていた時、きらきらと輝いていたあの髪に、今は触れている。目覚めた彼女は、額にジョーの手がある事を拒まなかった。細く柔らかい金の糸。もし、天使なんてモンが本当にいたとしたら、髪は絶対にこんな髪だ、と思いながら、ジョーは彼女の額をそっと撫でた。 涙の理由は聞くまいと決めた。 とてもつもなく気になるけれど、彼女から話し出すまで、聞いたりしちゃいけない。話し出してくれる日…が来るのかは、今は考えないようにしよう。 空を眺めながらそんなコトを思っていたら、額に置いていた右手に彼女の手が添えられた。驚いて見下ろすと、彼女もジョーを見上げていた。そして、そっと手をジョーの胸に移すと、もそもそと身体をひねってジョーの胸の上からいなくなった。 ジョーの隣に座り直した彼女は、ライラックの花木に顔を向けた。 大丈夫、もう泣かない。 ―――いつか私の故郷に一緒に行こう。そしたらライラックの丘に連れて行ってあげる。きれいだよ、薄紫の花とあたり一面のいい香り。私のお気に入りの場所、アリーもきっと気に入るよ。 楽しみにしていたその帰郷は実現しなかった。 ライラが教えてくれるはずだった薄紫のライラックは、ジョーが教えてくれた。 ライラと見るはずだった花…それもジョーと見ている。“最低男”と…。 …最低…なんかじゃない、少なくとも今は。手が温かかった。私は救われた。そう、救われた。それは認めよう。 「さっきの枝は…? どこ?」 ジョーが手折ってくれた枝を捜しながらアルテミスは言った。 「欲しいの?」 「うん…」 彼女は素直に頷いた。アルテミスが倒れた時に、この花が原因かもしれないと、ジョーは枝を遠ざけていた。それを拾い直し、彼女へ再び差し出した。 「ありがとう…」 まさか彼女の口から礼の言葉を聞けるとは…! いや、それよりも、俯いている彼女の可憐さったら…! 「苦手じゃなかったのか」 と訊くと、アルテミスは静かに首を振って否定し、 「大事な花」 と言いながら、花に顔を埋めた。 ――またそんな可愛い仕草を…! 「紫色のライラックの花言葉は、」 とつい言いかけて、ジョーは次の言葉を飲み込んでしまった。 「花言葉は…、 なに?」 忘れたと誤魔化そうか、いや、でも深い意味はない、ただ教えるだけなんだし。 ジョーは何とか平静を装って 「初恋。とか、愛の芽生え。とか」 と言った。言いながら顔が熱くなる。 今日のオレはオカシイ。「恋」とか「愛」とか散々言い慣れてるのに、何照れてるんだ? そうか、花か。花があったからか! そう、ヘッシュ式だと、花を贈るという行為は、その花言葉を贈る事なので、紫色のライラックの場合、即ち「私の初恋をあなたに捧ぐ」もしくは「あなたへの愛が私の中に芽生えました」というラブレターになる。 でも、そんなルールを知っているのはオレだけだ。彼女は知らない。落ち着け落ち着け。 …彼女もヘッシュ出身だったら? ああ、そうしたら、オレの顔、知ってるはず(超指名手配されてたからな)。じゃぁ違う、大丈夫! 「初恋?…。ライラにぴったり…」 そう言いながら、アルテミスの目はまた潤み始めた。アルテミスの記憶の中のライラは、初恋の相手と一緒にいられて本当に幸せそうに笑っている。ずっと見ていられると思ってた…。 ぽん。 頭に軽い重みを感じた。顔を上げると、ジョーが右手を伸ばしていた。目が合うと、ちょっとだけバツが悪そうな顔をして、彼女の頭をぽんぽんと撫でた。 「良くわかんねぇけど、元気出せ」 大雑把な励まし方だ…。 「無責任」 「じゃあ、話してみる? オレはいつでも聞くぜ?」 ジョーは柔らかく、ちょっとだけ笑って言った。 なるほど…。こーゆーとこか、皆が夢中になっちゃうのは…。 アルテミスが納得してしまったその時、絶叫が響いた。 「いたわ〜〜〜〜〜! 見つけたわよ〜〜〜〜〜! ジョ〜〜〜〜〜!」 「うわ、まだ諦めてなかったのか」 集団が、川の向こう岸で右往左往している。 「身から出た錆じゃない。観念して行ってあげなさいよ」 あの人達も“アレ”が欲しくて追いかけてるのね。 「こんな時間からじゃ身がもたねーよ」 うわ、なんて露骨な…。 「ただでさえきついんだよ、あいつらのバカ騒ぎに付き合うの。ビッグバンみたいなパワーなんだぜ、酒も強いし、腕力も強いし」 ――腕力? 「そもそもオレはゲイじゃねーし」 ………ゲイ?…あの人達、女じゃないの? 確かに、体格がいいとは思ったけど、、、、???? アルテミスは向こう岸の集団に目を凝らした。大股開きで飛び跳ねている……! 前回の追っかけ達は確かに女性だった。渦に巻き込まれたからはっきりと判る。 (この人には、性を越えた魅力があるんだろうか…) ジョーに視線を戻して、まじまじと見つめてしまった。 「ん?」 「本当にモテモテなのね」 言い終わらないうちに噴出してしまった。女装した屈強な男達に酒を付き合わされて、ヘトヘトになっちゃうなんて! あのボタンが引きちぎられてたシャツも、彼らの仕業なら無理もない。 何処へ行っても女達にチヤホヤされて、いい気になってるだけのヤツかと思ってたのに、こんな苦労もしてたとは…! 「何笑ってんだよ…」 「だって… !!」 止まらない。堪えようとするがすぐに吹き出てしまう。だんだんとエスカレートして行く。もうダメ!可笑しい! 「おまえ、腹ン中まで見えちまうぞ」 ジョーは大口を開けて笑っている彼女の顔を見ながら言った。自分のコトで大笑いしている女の顔を可愛いと思うなんて、いよいよオレはぶっ壊れたか。アルテミスは笑い過ぎて、涙腺まで決壊していた。 「何また泣いてんだよ」 「わかんない、けど、違う、これは、悲しく、ない」 笑いとしゃくり上げの呼吸が混ざって、ろくに喋れないアルテミスの手を引いて、ジョーは歩き出した。いつまでもここにいたら、女装集団に追いつかれてしまう。 アルテミスは手を引かれても振り払わなかった。おとなしく歩いている。まだ笑いながらではあるが。まったく、笑い過ぎなんだよ…!と毒づきながら、まんざらでもなかった。真っ青な顔で泣かれるより、バカみたいに笑っていてくれる方が絶対にいい。まぁ、それがオレのゲイ問題でってトコは引っかかるが。 ジョーはアルテミスを左手で引きながら、右手で器用に煙草を取り出し火を点けた。 あ……。 甘い紫煙が、ジョーの顎から肩までするりと撫でて、そしてアルテミスへと流れた。 この香りは…嫌じゃなかった、最初から…。 アルテミスは、女達の渦の中からジョーに引っ張り出された時を思い出した。あの時、ジョーに見つけてもらえなかったら…。文字通り“もみくちゃのボロボロちゃん”になっていただろう…。 その後のむちゃくちゃな逃避行劇は頂けなかったが、助け出して貰ったのは事実だし… 「おまえ、ここの住人? それともこないだのコロニー?」 突然訊かれてちょっと驚いたが、別に隠すようなことでもなかったので正直に答えた。 「どこにも住んでないわ」 本当の事を言っただけだったが、ジョーは予防線を張られたと受け止めた。 おいそれと打ち明けたりはしないってか。 「ここには何で? 彼氏の船のカスタマイズ?」 彼氏という言葉を、さらりと使ったが、心臓はばくばくだった。左胸だけじゃなく、胸全体が脈を打っているようだ。 これであんがい可愛いからな。彼氏はいないって方が不自然だろうけどよ、それはそれでオレ様的にはおもしろくないじゃん。 自分自身に強がりながら、彼女の返事を待った。 「そう。船のカスタマイズに来たの」 足元にザンッ!と血が落ちた。 「私の船のね」 一気に頭に血が戻った。目の前がチカチカする。 「あのさ、私、彼氏がいるなんて一度も言ってないよね」 「そうだっけ?」 トボケながら、煙草を深く吸い込んだ。 ああ、この煙草はやっぱ旨い。 「ジョーは? やっぱり船のカスタマイズ?」 突然、彼女から名前で呼ばれ、ジョーはがぼんと咽てしまった。再会した初っ端、追っかけに「ジョーはこっちよ」と売られた時にはなかった甘い衝撃に、喉がヒリヒリする。咳払いをして咽た事をごまかしながら答えた。 「あー、カスタマイズっつーか、修理。 ダチも来ててさ、そっちはカスタマイズしてっけど、オレは船乗りじゃねーから、船は動きゃいいんだ」 「ふーん」 船乗りじゃなきゃヒモ? 「ヒモじゃねーぞ」 まるで考えてることが筒抜けのようなタイミングでジョーが言った。 「じゃ、なに?」 「じゃって、やっぱおまえ、今そう思ってたんだな」 掴んでいた手をぐいと引っ張り前のめりにさせて、アルテミスを「ちょっと!」と怒らせる。 「オレは船じゃなくてバイク乗り。バイクレーサー」 「ほんと?」 「嘘言ってどーすんだよ」 これはまたモテそうな職業で…。天性のモテオなんだな、きっと…。 「なあ、おまえの名前、教えろよ」 「え…?」 「おまえだけオレの名前知っててずるいじゃんかよ」 「だって、みんなが教えてくれたんだもの。ジョー、どこ行ったのよ、ジョー、出てきてよ、ジョー」 「お・ま・え・の・な・ま・え!」 どうしたものかとアルテミスは考えあぐねた。そして 「リラ」 と答えた。リラはライラックの別名だ。ライラがそう教えてくれた。 「それはおまえの大事な…姉ちゃんだか妹だか、友達だかの名前だろーが」 ジョーが知っているとは思っていなかったアルテミスは驚いたが、押し通す事にした。 「……彼女はライラ。私はリラ」 そう言って、彼女はライラックの花を顔に近づけ、香りをかいだ。 くそ、本名は教えねえってか。 ジョーはおもしろくなかった。どうやって言わせようかと考えていたが、ふと気付いた。 ……ちょっと待て。“リラと呼べ”? ヘッシュでは、告白やプロポーズ時に花を贈り、了承された暁にはその証として、贈った花の名で、恋人や妻を呼ぶという習慣があった。 これは……。 「なあ、リラの…、ライラックの花言葉は、さっき教えたよな」 「…初恋。と、愛の、…誕生? あれ、発芽だっけ?」 「ま、いい。大体そんなもんだ。オレはリラの花をおまえにやったよな」 「頂きました」 アルテミスは、手に持っている枝を軽く振ってみせる。 「で、オレはおまえをリラって呼んでいいんだな?」 「どうぞどうぞ」 アルテミスはジョーをおちょくっているつもりなのであろう、上機嫌だった。 しかし……。 立ち止まり、くるりとアルテミスに向き直ったジョーは、にやりと不敵な笑みを浮かべて宣告した。 「おまえ、たった今から、オレの女だからな」 「え?」 ふーっと煙を吐き出して、ジョーは面白そうに彼女を見た。 「意味全然わかんないんだけど?」 何も知らないアルテミスは、まだ余裕で笑っている。 「オレ様の初恋を受け取ってOKしただろーが」 「え? ジョーの初恋?」 「初恋って花言葉の花、ライラックだよ。別名リラな。んで、リラって呼べって言ったよな」 「…言ったけど、」 「オレの国じゃ、おまえはオレを受け入れたって解釈になるんだよ」 「え…! そ、そんなの知らない! 私、知らないんだから無効よ!」 「無理〜。一度OKしたら生涯有効」 もちろん嘘だ。しょせん知らないなら何でもアリだ。 「じゃ、ひとまずオレのドッグへ行くか。あ、その前にどっかで祝杯挙げようぜ! あぁ、ダチも呼ぶか。おまえのコト紹介しないとな」 「待ってよ!」 どんどん話を進めていくジョーの手を振りほどいた。川岸からここまで、ずっとジョーの大きな手に持たれてすっかり温まっていた手首は、外気に晒されあっという間に冷えていった。 その冷たい不快感を押し殺して、でもジョーの顔を見る事は出来ずにアルテミスは言った。 「今日は……助けてもらったこともあるから、失礼だった態度はチャラにしてあげる。花も…ありがとう。これちゃんと水に挿して大事にするから」 彼女の言葉が閉めの言葉だと感じたジョーは、どうやって引き伸ばそうかと考えながら言った。 「運命の相手を置いてどこ行くつもりだよ」 「運命なんかじゃない、偶然よ」 ジョーを見て言い切った彼女の顔から、笑みは一切消えていた。さっきまであんなに笑っていたのに。 「わかった、じゃあ偶然でもいいよ」 ジョーはあっさり折れた。彼女が頑ななのはもう充分判っていたし、運命か偶然か、この際そんなコトはどうでも良かった。肝心なのはそこじゃなくて…… 「でもオレは…、…、おまえと、…」 ジョーは最後まで言えずに黙ってしまった。 なんで今日はこんなに言いにくいんだ。いつもスラスラ言えてるじゃないか。もっと、甘く、女が大喜びで落ちる言い方はどうだったっけ……? 「ジョーは、私が珍しいだけよ。なかなか釣れないキャッチャーゲームのおもちゃって、手に入らないってだけで、どうしても欲しいって思うでしょ。でも、手に入ってしまえば、すぐに飽きちゃう。それと同じよ」 風に吹かれた前髪がジョーの目を隠しているので、アルテミスには彼がどう受け取ったのか確認することは出来なかった。でも、黙っているところを見ると、図星だったんだろう。 やっぱりね………。 見立ては正しかった。はずなのに、言い様の無い虚しさが彼女の胸に広がった。 ジョーが何も言い返さなかったのは、今の彼女にいくら言っても何も届かないと察したからだった。言えば言うだけ、言葉は意味を失くしていく。どうしたらいいだろう、どうしたら彼女を繋ぎ止められるだろう。 必死に考えたが、現状を打破する名案は浮かばなかった。指先に熱を感じて、煙草がフィルターのラインまで灰になっているのに気付いた。煙草にまで“閉め”と言われた様な気分になる。 道端に建てられている灰皿までのっそりとジョーは歩き、吸殻を捨てた。小さな溜息をついて振り返ると、アルテミスが自分を見ていた。灰色がかった青い瞳。寂しそうに見えるのは気のせいか? 都合よく見えているだけなのか? 探るように、ジョーは彼女の瞳を見つめた。見つめているうちに、ジョーは理解した。 これこそが運命なんだ。もう一度、奇跡で出会う運命。あと一回でも“偶然”が起これば、さすがに彼女も奇跡だと感じるだろう。 そして、その時はオレも覚悟してみるか。 「なぁ。もし、もう一度ばったり会ったら、おまえも納得しろよ」 「え…?」 「おまえが納得しなくちゃ意味ねぇから、もう一回奇跡を待つ。賭けようぜ。もし、また会えたら、運命だって受け入れる」 ただならぬジョーの気迫に押されて、言葉を返すことはできなかったが、それでもアルテミスは首を振って拒否した。しかしジョーは続けた。 「受け入れて、オレはおまえのモノになる」 「え……」 「おまえを泣かせた分、本気でおまえだけのモノになる」 アルテミスの心臓は、早鐘のように騒ぎ出した。 「おまえはゆっくりでいいから」 言いながら、ジョーはアルテミスに歩み寄った。 「何が…?」 「奇跡が起きてから、それからでいいから、」 花を持っている彼女の手を自分に引き寄せ、花毬にキスをして、 「ゆっくりオレを好きになって、オレの女になれ」 と、真剣な顔で言った。 無茶苦茶だ…。と思った。また、勝手にマイワールド全開だと。そう思うのに、言えない。彼の真っ青な瞳に吸い込まれそうになる。 「物珍しいからおまえを口説いてるんじゃないって、その時はわからせてやる。だから約束しろ。今度会えたら、おまえはオレのリラだ」 ライラックの香りに煙草の残り香が混ざった。アルテミスの瞳に映るジョーが大きくなって………そっと、そっと唇が重なった。 身勝手で強引だった最初のキス。喧嘩みたいな二回目のキス。三回目のキスは、優しい、誓いのキス。 唇を離したジョーは、怒りの色が宿ってはいないかと彼女の瞳を覗いたが、どこまでも透き通ったブルーグレイの水晶には自分が映っているだけだった。 言葉のないまま、二人はお互いの瞳を覗き合った。 「ジョ〜〜〜!」 ガラガラに掠れた声が聞こえて来た。女装集団がとうとうそこまで追いついて来たのだ。 二人が声の方を向くと、走り続けて、色々な意味でどろどろになった彼らが…彼女らがぞろぞろやって来るのが見えた。ジョーはアルテミスを路地へ引っ張ると説明した。 「ここを真っ直ぐ行けば、あの薬局の横に出る」 いつの間に…! アルテミスは極度の方向音痴で、GPSが手放せない人種だった。前回も、ジョーに連れ回された後、自分の位置を知るのに携帯電話のGPS機能にお世話になっていた。もちろん今回もそう思っていたので、知らぬ間に出発地点に戻っていたとは、晴天の霹靂だった。 「手品?」 ジョーはふっと微笑むと、真正面から彼女を抱いた。 「忘れんなよ、リラ」 ぎゅっと抱きしめて、そう言い残すと、ジョーは通りへと飛び出して行った。 「あ…!」 思わず声が出ていた。しかし、ジョーは女装集団を引き付けるように走り去ってしまった……。 アルテミスは、路地の壁に寄り掛かって、女装集団が通り過ぎるのを見送った。足音も声も遠退いて、すっかり聞こえなくなっても、その場所から歩き出せずにいた。 ライラックの花を顔に近づけ鼻を埋めた。もう、花の香りしかしなかった。 あれは、何て名前の煙草だったんだろう……。 そんなコトを思いながら、薄紫色の花にそっとキスをした。ジョーがしたように。 ティーキー・ドッグでは、今、まさに作業が終了して、全員が歓声をあげたところだった。 「本当に一日のロスで仕上げるなんて、さすがティーキー!」 「はっは! これでますます無敵の船になったってなもんよ」 「ザナックもあの世で大満足だな」 「おうとも!ザナックの旦那が遺した大事な宝だ、この命尽きるまで見させてもらうぜ、アレン」 「俺より長生きしてくれよな、ティーキー」 「そりゃ、アレン、順番が違うだろ」 ドッグは大仕事を無事に成し遂げた歓喜に沸いていた。 従来だとこのまま打ち上げ会に突入なのだが、突然のオフが決まった前夜に一足早く騒いでしまったのと、もともとのスケジュールでは、今朝が出立だったアレンは、このまま出発する事にした。 慌しく別れを惜しむと、新しく生まれ変わった愛機に乗り込み、エンジンを始動させた。 ブレイブアローのメインコンピューターのレッブが、次々と状況報告をする。その声を聞きながら、ジョーの携帯へ電話した。が、出ない。 (どっかで飲んでるのか?) まだ夕刻、酒を煽るには早い時間だが、ジョーにその観念はない。 アレンとジョーは、一緒に地球を出てエジカマへ入港したが、帰りは別行動で、アレンが直接木星方面へ仕事へ向かう予定なのは、ジョーも知っていた。 (ま、いっか) 電話に出ないアイツが悪い。ジョーとはいつでも連絡は取れる。そう、船の通信コードを知っている相手ならば、時間の誤差は生じたとしても、太陽系内ならば連絡は必ず取り合える。アレンはアルテミの事を考えた。この携帯でメールをやり取りできるのは、コロニーの中までだ。宇宙に出てしまったら、もう使えない。 海賊船でもあるリンディアーナが、船への通信をフルオープンにしているとは考えられなかったので、専用コードを知らない自分は彼女の船とも話せない。 レッブは着々と高度を上げ、コロニーの出口へと進路を変えていく。アレンは思い切って、メールを送った。ブレイブアローの通信コードを。彼女が今、何処にいるか分からないので、賭けにも等しかった。外出先でメールを受け取ったなら、昨夜と同じように文字メールが返って来るか、もしくは無視…。ベスタのドッグだったら、リンディアーナからコンタクトが来るか、もしくは無視…。 (“もしくは”って、なんだよ…) 弱気な自分の思考に苦笑した。そんな事を考えているうちに、ブレイブアローは宇宙へと飛び出していた。これでもう、メールは届かない。 深い溜息が出た瞬間、レッブが言った。 ――コンタクト要請受信。送信主は、所属先は不明だが、コード末尾にサイン有り。“リンディアーナ”。 心臓が跳ね上がった。応えてくれた…! ――? どうする、アレン? 「受けろ」 レッブが一番大きなスクリーンを選んだので、アレンの目の前に大きなアルテミスが現れた。 「無事に終わったのね?」 一日ぶりに見る彼女は、…きれいだと思った。 「あぁ、今、離陸した。このまま仕事に直行でさ」 「一日遅れてるんだったけ、大変ね」 「そっちは?」 と言ってから、作業中に決まっていると気付き、俺の顔がリンディアーナのスクリーンに映っていたりしたら、彼女に迷惑をかけるんじゃないかと思い付いた。 「あ、作業中だったよな、悪い」 と慌てて言ったが、彼女はのんびりと 「ううん、大丈夫。ベスタの気まぐれで、午前中で今日はおしまいになっちゃたの」 と言いながら、みるみる目を真ん丸くして絶句した。 「どうした?」 「アレン、密航者がいるわよ…」 アルテミスの囁きにアレンは驚いた。密航者…? でもレッブは何も言わなかった。 レッブのカメラすらすり抜ける密航者とは、どんなやつだ…! 「アレンの頭の上に浮いてる……!」 ……浮いている…? アルテミスの言葉が一瞬理解できなかった。が、彼女の目に緊張の色が無い事に気付き、アレンは頭上を振り仰いだ。 真っ白な毛を膨らませて、小さな動物が浮いていた。 「あ! コイツ…、あの時の…? じゃないかもしれないけど、でも、参ったな、いつ潜り込んだんだよ…」 アレンは、両手に抱えると、しげしげと見つめて困り果てた。 その姿は可愛かった。アルテミスはつい笑ってしまった。声を出して、あははは! と。 声を出して笑う彼女を初めて見たアレンの胸は大騒ぎになった。そして、自分も吊られて笑ってしまった。笑いながら、 「まぁ、いいか…。今度ここへ来る時までは仕方ないな」 と言った。すでにブレイブアローは宇宙空間にいる。 「旅は道連れだ」 その時、新たな通信が入った事を知らせるモニタが光った。ジョーの名前が点滅している。 「ごめん、仲間から連絡入ったから、ちょっと待ってて」 「いいわよ」 スクリーンが二分割されて、アルテミスは右半分に縮み、左半分にはジョーが現れた。 「バイバイも言わないで行っちゃうなんて、ヒドイじゃね〜かよ〜」 ジョーは口を尖らせている。 「言おうとしたよ、したけどおまえ、出なかったんだよ。携帯は出なきゃ持ってる意味ねーって言ってるだろ、いつも」 「おまえこそ、昨夜出なかったじゃないかよ! 何回もSOSしたのによ」 「SOS?」 「そーだよ! 昨夜オレ、うっかり間違えて入ったおかまバーで軟禁されててよ、昼過ぎにやっと抜け出せて、さっき帰って来たんだからな」 (なんだそりゃ…)さすがのアレンも呆れ果てる。 「だから、やたらとあっちこっち出歩くなって言ってるだろうが」 「アレンと違って、オレはたまにしか地球の外へ行かないから、珍しくってわくわくしちゃうんだもーん」 人が真剣に忠告してやっても、ジョーはいつもこれだ。 ――コイツはいつか酒か女で身を崩すんじゃないか…。 ジョーを見ていても、やはり女はやっかいな存在だと思う。 しかしアレンは、ふと新しい考えを思いついた。 ジョーの場合は、真剣な恋でもして、一人の女に落ち着けば…。そうだよ、一人の女にさ…。 “真剣な恋”……。右半分のスクリーンに視線を移した。アルテミスがアレンからの通信復活を待ちながら、手元の何かをいじっている。伏せた睫は、彼女の目元に柔らかく影を落している。“見る者を凍らせる”と言われている目だ。“その頬は色を着けず”と言われている頬は、うっすらと赤みが差している。 誰も知らないアルテミス。俺だけが知っているアルテミス。つい口元が緩んだ。 視線の外れた先で、アレンが表情をでれっと崩したのを、ジョーは見逃さなかった。 「おい、オレの隣にダレがいるんだよ?」 突っ込んだ。我に返ったアレンは言葉に詰まった。 「え! いや、その……」 「なんだよ、なんだよ、女? え? 女なの?」 追い詰める。アレンは諦めた。 「…コーナで樫の実をくれた…」 ジョーは記憶のファイルを手に、どれだっけ、と考えた。が、“アレンが興味を持った女”の項目はたった一件なので、該当データは簡単に引き出せた。 「あ〜、女海賊だっけ?」 アレンは、本当に恥ずかしそうに、ソワソワしながら打ち明けた。 「……また、会えたんだよ…。偶然にさ…。奇跡だよな、この広い宇宙でさ……」 「へぇ〜…!」 このコロニーで、奇跡が二つ、起こってたのか。 しかも、自分と親友に、だ。奇跡がオレ達に惚れて贔屓でもしたか? と自惚れたくなような集中具合じゃないか。 「また、会えるかな……」 アレンのこの一言に、ジョーはぶっ飛んだ。スクリーンの中のアレンは、乙女のように頬を染めている。 「アレン、良く聞けよ。奇跡なんて一生に一度、あるかないかだ。 また会いたけりゃ約束しねーと!」 「…だよな…」 アレンの表情は見る見る曇る。分かりやすい。 あぁ、口実がないってんで落ち込んでるんだな。何でもいいのによ、そんなモン。 「しょーがねーなぁ。オレが言ってやろうか? 彼女〜」 そう言ってジョーは左を向いて、自分の左側に映っているであろう女海賊に向く形を取った。 アレンはアルテミスのスクリーンを消さずにいたが、アルテミスの船では、スクリーンは待機状態に変わり、真っ青になっていた。つまり、アレンとジョーのやり取りは、映像はもちろん、声すらアルテミスには届いていない。アルテミスは青いスクリーンの前で、がさごそと自分のデスクのボタンまわりをいじりながら、右の方へ顔を上げた。 ただ、右側の壁のボタンに目を移しただけだったのだが、アレンには、ジョーに呼ばれて振り向いたように見えてしまった。目の前で、二人の顔は急接近した。 ブチッ! アレンは左側のスクリーンを切った。現実ではないツーショットだと分かっていても、心がざらりとざらついた。 ジョーと話している間、どこかへ行っていたリスもどきが戻って来て、アレンの肩に登った。ざらついていた心が、ゆっくりと滑らかになる。ふっと、軽く息を吐いて、気持ちを切り替えると、アレンはアルテミスのスクリーンのスイッチを押した。 「ごめん、待たせて」 「旅は道連れだ」 アレンの言葉に、アルテミスの胸はぎゅっと縮み上がった。 道連れ――。私が道連れにされたのは、そんなのんびりした旅じゃなかった。――地獄道中。 あっという間に頭の中が、地獄道中の景色でいっぱいになった。ひたすら目の前で揺れる、黒い髪、大きな背中。 頭の中から追い出せずに固まりかけたアルテミスは、アレンの都合で待機になって心底助かったと思っていた。 どうして、どうしてあんな男の影が消せないの! 自分が理解できない。悶々とデスクのボタンをいじりながら考えていた。ライラの津波では…あんな男でも側に居てくれて良かったけど…。でも、それだけじゃないの。あとは、強引で、我侭で、オレサマで…。 それなのに、どうして頭から追い出せないのか…。答えの出ないまま、アレンとの通信が再開した。 「ううん。もういいの? お友達」 「あぁ。それより、ベスタの気まぐれで、今日も午後からは休みだったのか?」 「そうなの」 そうだったのか…なら、今日も、会おうと思えば、会えたかもしれなかったのか…。 「じゃあ、今日も森に散歩?」 「ううん…。今日は買い物してた。ベスタに頼まれたお灸をね」 なるべく映像は思い浮かべないようにアルテミスは言った。 と、レッブの報告が入った。 ――亜空間飛行ポイントまで90秒。 宇宙空間の時空を歪めて長距離を一気に飛び越えるワープ航法に入れる座標まであと1分半。ワープに入ると、通信はもちろん遮断される。 「その子、船酔いしないといいわね」 「そうだな、多分、いや、絶対にワープなんてしたこと無いだろうしな。気をつけて見ておくよ」 「そうね」 時間がない…と思えば思う程、大事な言葉が口から出てこない。さっきジョーにも言われたのに。また会いたければ、ちゃんと約束を取り付けろと。 沈黙を破ったのは、無情なレッブのカウントダウンだった。 ――ポイント到着。これよりワープ航法に切り替えます。ワープ開始60秒前。全システムチェック――完了。異常無し。アレン、ベルトを。 アレンはかちりとベルトをした。リスもどきは、仕方ないので自分の胸元に入れる。 アルテミスはその心もとない姿を見て胸がきゅっとなった。 「航行の無事を祈ってるわ」 「うん、サンキュ」 ――10秒、9、8、7…… 「木登り、ありがとう。楽しかったわ、アレン」 彼女が言い終わると同時に、スクリーンはセーバー色に変わり、ブレイブアローは亜空間へ飛び込んだ。目の前の何もかもが不快な色彩に包まれ歪んで行く。アレンの気持ちのように。 この広い世界で約束もせずに再会する。奇跡だ。そして奇跡は何度も続かない。だから奇跡なんだ。 「奇跡なんて一生に一度、あるかないかだ。 また 会いたけりゃ約束しねーと!」 ワープに耐えるアレンの頭の中で、ジョーの言葉がぐるぐると渦巻いていた。 |
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第3話 奇 跡 | ||
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ぺた |